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日本人という意識

朝鮮半島とのつながりと日本人

 隅田清次郎残日録さんが「日本人という意識」という興味深い記事を書かれているガウ。ズバリその意識が生まれたのは「新羅による朝鮮半島統一により、故郷を失った時だ」と。さらりと簡潔に旨くまとまっているので全文引用。

私は日本という国が生まれたのは、新羅による朝鮮半島統一により、故郷を失った時だと思っている。
しかし、その後も今来という言葉も、高麗、秦、加羅新羅百済などの出身地を示す言葉も残っている。
平安時代は国風文化というが、鬼もいれば、土蜘蛛もいる。蝦夷も俘囚もいる。
土着の敵がいるということは、逆に朝廷側に外来意識があるということだ。
朝鮮半島とのつながりが消え、日本人意識が生まれたのは鎌倉から室町の間のいつかだと思う。
貴族社会から、農民による革命である武士の勃興である鎌倉時代 社会混乱からの脱却のなかで現在につながる室町時代
その流れのなかのどこがターニングポイントになったのかが知りたい。 ミクロな歴史学では日本をとらえているのに
マクロな歴史観では唯物史観から離れられない< 平和教育では教えられない歴史が知りたいと思っている。隅田清次郎残日録:日本人という意識

 「朝鮮半島とのつながりが消え、日本人意識が生まれたのは鎌倉から室町の間のいつかだと思う」というのは当を得ていると思います。しかしターニングポイントというのは難しい。文化というのは水と同じで高いところから低いところへ流れるものです。ここで言う「日本人という意識」とは他民族との違いを「意識」し、かつ差別化を図るところで生まれてくる「アイデンティティー」であると考えられるので、当時、外国と直接交渉、もしくは交流する立場にいて、為政者とも直接交渉があり読み書きが出来る人々の中にまずそういう「意識」が生まれたといって良いと思います。そして後にその「意識」は彼らの取り巻き、外国との交渉ということで言えば二次的交渉者に降りていきやがてなんらかの「教育」システムに取り込まれてエリートを養成する「思想」として根付いていくプロセスがあったと考えるのが妥当ではなかろうかと。

 では「日本人という意識」が形成された点について、仏教の変遷の観点から、すなわち「他者」であったはずのものを日本においての伝来以来の長い歴史に寄りかかり、あたかも、もともとの「自己」であるかのように作り替え、今日すっかり伝統的な日本のものになった「仏教の変遷の観点」から、眺めて検証して見ることにしたい。まずは仏教興隆の祖とされる「憲法十七条(604)」の聖徳太子について考えてみます。太子の書とされる「法華経義疏」ですがこのなかで太子は漢訳者クマラジーヴァの誤訳を指摘しています。「いうこころは、転倒(原点は異体字)分別の心あるがゆえに、ここを捨ててかしこの山間につき、つねに座禅を好むなり。しかれば、すなわちなんの暇あってか、この経を世間に弘通することをえん。」この点について京大の学者グループは太子がサンスクリット原典を見るはずもないので太子の法華経理解の深さ(太子の見事な創見である=柳田聖山教授)をあげていますが、近年、法華経義疏の内容は敦煌写本の研究によって随代(589 - 618)の仏典注釈書の節略本であった可能性が高いことが明らかにされており、太子真撰を疑問視する研究者も多く、そのとおり遣隋使の小野妹子らによって持ち込まれたものを無造作に発表したと見るのが自然ではないかと思います。というのもサンスクリットと漢訳の相違の部分は漢訳が「(大乗の菩薩は)つねに座禅を好み、閑かな処に在って、その心を摂めることを習え。」(岩波文庫法華経」中「安楽行品」第十四*1)となっているのですがサンスクリット原典のほうでは「かれ(大乗の菩薩)は、隠棲することを重んぜず、また絶えず隠棲して[瞑想に耽る]ことはない。」(同 岩本裕訳)となっていて、華厳経維摩経でもこの主張はなされているのですが、もともと法華経漢訳当時の中国の状況を見たクマラジーヴァの意識的確信犯的誤訳であるとくまは思っているのです。その法華経は天台大師に依って既に最上の経であると定められていたものの、達磨系グループによって華厳経を中心に据える禅宗成立の下地となる論争(菩薩の瞑想についての)も行われており、それらのグループの影響も受けた仏典注釈書ではなかったのではないでしょうか。後代禅宗と呼ばれるようになった達磨系グループの仏教は未だ成立していませんでしたがのちに、圭峰宗密(780 - 841)や荷沢神会(684 - 758)に依って慧能(638 - 713)が禅宗六祖として権威づけられるプロセスにはこの当時から中国知識人には老荘や天台には飽きたらず更なる宗教的安心を求めるための論争が盛んであったことを思うと当時の中国の仏教もまた混沌の時代であり、日本は未だその混沌を知らずにそのまま受け入れたのでょう。「憲法十七条」に見られる太子の思想と「法華経義疏」を含む「三経義疏」とはあまりに仏教思想の深さについては温度差があり、太子は伝説のような宗教家ではなく為政者として国家統一の手段として仏教を取り入れその興隆に尽力したという近年の研究者の見方が正しいと思います。すなわちこの時点では仏教は取捨選択されて取り入れられたものではなく、中国の混沌そのままに導入されたと言えるのです。しかもそれは極端な物言いをすれば日本人の権力者としてではなく大和の国を統一せんとした朝鮮からやってきた為政者として。

在家菩薩半跏思惟像

 仏教の伝来は日本に力点をおいて言う北伝仏教の言い方に「三国仏教」という呼称があります。この場合の三国とはインド(天竺)→中国(震旦)→日本ですがこの「三国」観はおそらく奈良平安からも朝廷、仏教教団の中にはあり、それに理論付け、肉付けしたのが鎌倉時代の学僧凝然(1240 - 1322)で「三国仏法伝通縁起」を著しています。ところが此処には見事に朝鮮が欠落(*1)していて広隆寺で有名な東洋の考える人と言われもする弥勒菩薩像は在家菩薩半跏思惟像(駒沢短期大学袴谷憲昭教授)と呼ばれガンダーラから中国、朝鮮半島を経て、とりわけ朝鮮の百済ではよく制作もされ7世紀の日本の飛鳥や白鳳にも招来されたことは、この菩薩が在家なのか出家なのか、あるいは菩薩ですらあるのかというネーミングと仏教思想との検討とその是非はともかく今さら言うまでもありません。実際にはその在家菩薩半跏思惟像に限らず朝鮮半島経由で伝来した経典、仏画なども多いのですが、そのうちの一つである「玉虫の厨子」でその須弥座に向かって描かれた左側の絵は「大般涅槃経 – 聖行品」雪山無常偈の説話に基づく「捨身聞偈」の図を表しているのですが前出の袴谷教授によればこれもまた中国より朝鮮半島経由で到来した仏教に目を見張って帰依した飛鳥の貴人たる「在家菩薩」が「捨身」によって「成仏」間違いなしの「出家菩薩」の話をその図を見ながら聞くという構図が現出していると述べています。しかし「日本書記」で大和朝廷の日本列島紀元を主張した朝廷はそれ以降意識的に朝鮮半島を無視し、否定します。当然朝廷と密接であった日本の仏教教団もそれにならい五国(*2)でならなければならないの筈の仏教伝来のルートを意識的に「三国」にしたと思われるし、朝鮮というタブーは仏教者に自然に根付いていたであろうことは冒頭の「三国仏法伝通縁起」を考えれば想像に難くありません。その後もこの「三国」観は我が日本にはよく根付いたようで「三国一の花嫁」のような使い方や、江戸開府の1603年に出島(長崎)で刊行された「日葡辞書」にも収録されています。(だから石原慎太郎の「三国人」発言はその意味を取り違えているし石原独特の思いこみですね -笑- 。*3)すなわち奈良平安仏教の指導者たちは意識的に日本人であろうとして無意識的には朝鮮半島人であり、後代の人はそれをそのまま数百年間引きずるのです。そして朝鮮半島人であったことはいつの間にか忘れ去られいよいよ日本人としての意識が芽生えてきます。

我日本の眼目とならむ、日本の柱とならむ

 朝廷の帰依を受けて繁栄した比叡山延暦寺はやがて「本覚思想」「如来蔵思想」への依存度が大きくなりすぎて堕落し貴族の社交場へと変遷していきます。そのなかでその実態に疑問を持つ僧が現れ鎌倉仏教が興ります。世も武士が台頭し武士は名実ともに政治の実権を握りますが、和歌の世界では貴族の没落を暗示するかのように象徴的耽美的傾向が強まり、新古今和歌集藤原定家(1162 - 1241)のように奥深い静淑性を理想とする人々も現れます。また相次ぐ戦禍やそれによる混乱の中で知識人の厭世観は高まり、次第にそれは末法思想と結びついていきます。そのころ栄西(1141 - 1215)は大宋国へ渡り既にしっかりと中国知識人に根を下ろしていた臨済禅を伝えます。その後、道元(1200 - 1253)も入宋し自ら「全一の仏法」と呼ぶ禅思想を伝え、やがて朝廷の帰依を受けることになった禅仏教(この場合は臨済宗であると言ってもまったく差し支えない)は、北条氏や足利氏の帰依も受け実質的には当時の国教にまでなります。いま風に言えば国立の寺院である京都五山鎌倉五山は開山に中国僧も招聘されて日本の国師号も贈られ、芸術や建築も五山文化と言われる禅思想を根底においた絵画や書、茶、花、庭園文化などが百花繚乱でした。この時代、仏教はもはや何でもかんでもそのままではなく「臨済禅」だけが取捨選択されて導入されました。僧侶の側もまた中国の仏教である「臨済禅」を真摯に謙虚に学んだと言えると思います。この段階ではまだ「他者」によって「自己」を変革発展させる謙虚さを日本人は持っていた、つまり俗的言えば外国を優れたものとして認めていたということになります。ひとり臨済禅だけがなぜ当時の為政者に受け入れられたのでしょうか。それは禅が経典や教義よらずに自己実存を見つめる仏教であり、大宋国でも広く行われれていた仏教であったことが、没落する貴族や日々命をかけて戦場に臨まねばならない武士のニーズに合致した為でしょう。しかし世は末法の時代と言われ、飢饉や災害で町には死体が転がっていたと言われます。さらに遂には元寇といわれる蒙古の来襲もありました。これはあるしゅ偶然といってもよいのですが「法華経」に預言されていたとおりの事態なのでした。さらに禅は碧巌録や無門関など祖師の語録を用いて布教や教育が行われていたため、無学文盲の下級武士や農民には受け入れられませんでした。そもそも禅籍の漢文は唐や宋では日常語で用いられていた俗語などで平易に書かれています。故に唐やその後の宋でも無学文盲のものでさえ師匠の法を嗣ぎ禅匠として世に立つ祖師もいらしたのです。しかし我が国では多くの禅僧たちはわざわざ漢文のままそれを説き、帰依する貴族や武士の側も教養としてそれを受け入れたのです。しかし飢饉や災害による死体の山は現実として無学文盲の庶民も目の当たりにしますし、元寇の噂も大きな不安となって庶民に広まっていたことでしょう。庶民も含めてこの元寇は日本初めての国家存亡の危機と意識されたのではないでしょうか。これを見た日蓮(1222 - 1282)が臨済禅を「禅天魔」と批判するのは当然と言えば当然と言えましょう。更に末法思想に依って日蓮の教えより一足先に下層武士や農民に広がっていた浄土教の念仏をも、多勢でそれを唱えても飢饉や災害、外国からの侵略を止める手助けにならないばかりか、この現実を預言した法華経にも依っていないので「念仏無間」と批判します。そしてその日蓮はもはや外国から学ばずに日本にある経典だけを研究し庶民にもわかりやすい仏教を説いたのです。その後江戸時時代には日蓮法然(1133 - 1212)の跡を受けた親鸞(1173 - 1262)の二人の仏教は元禄文化が花開く根底の思想にまで成長していきます。

 なんか手元に資料もないままデザインのアトリエで書いていて、とりとめのない文章になってしまっているのですが、こうして反芻してみると、日本人に「日本人としての意識」が芽生えたターニングポイントは1274から1281の元寇の時と言えるのではないでしょうか。特に比叡山を降りて天津小湊の清澄寺(千葉県)に還った日蓮が再び法華経を読み返し、法華経の預言と自らの想いに深く頷いた時、特にここを茂田井教亨(立正大学名誉教授)師は「今と違って電気もなく蝋燭のあかりで、少なくとも比叡山一切経の中で最勝の経と言われ自ら幾度も読み返した法華経に書かれることを、現実世間で目の当たりにしながら読み返したときに、地涌の菩薩として釈迦滅後、後五百歳始(すなわち像法時代を入れると当時の計算法では2200年)にこの世に現れ人々を救う上行菩薩こそはこの日蓮なのだと宗教的確信をしたに違いがない」旨を書かれていた(「日蓮の上行観」佼成出版社)と思うのですが、「日本第一の智者」となり「日本の眼目とならむ、日本の柱とならむ」とした日蓮こそ知識人として宗教人としてだけでなく、国際関係の中で日本を意識した最初期の人と言えるのではないかと思います。また日蓮の遺文には他にも日本人の「アイデンティティー」を意識していると思われるものもありました。しかしこの時代を契機としてその後の日本は欧州との交渉も始まり今度は「日本人」として「他者」であったはずの仏教を日本においての仏教伝来以来の長い歴史に寄りかかりあたかも、もともとの「自己」であるかのように作り替えて行きます。そしてそれは思想や哲学といった高貴なものではなく日本人なら誰もが意識せずに知っている文化としてこんにち根付いています。娑婆やお盆や成仏という言葉も、あるいは除夜の鐘もそうだし、人が亡くなれば僧侶が来て葬式をしてくれるのもいつの間にかシステムとして成り立ちだれも疑問に思う人はいません。そのことが持つ功罪と問題についてはまた別の機会に書いてみるつもりですが・・・とこうして書いてみるといかに自分が仏教の歴史を体系的に理解していないかが明らかになってお恥ずかしい限りなのですが別に学会に発表する論文でもあるまいし、単なるブログのテキストなので隅田清次郎残日録さんのテキストに反応してつらつらと書いてみました。が自分の思考をゆらゆら巡らせることに終始してしまって隅田清次郎残日録さんへのお答えにはまるでなっていないと思いますが。一応自宅の机に戻ってから括弧に年号は調べて入れました。なにしろこの年号が違うとまったく覆ってしまう自説もあるおそれがあったからです。それと他の文献からの引用は一応正確に訂正しました(茂田井教亨師の「日蓮の上行観」を除いて)。結局のところ単なる思いつきですので、誤りやくまの思い違い等もあるかと思います。諸氏の批判を請います。合掌。

 

元記事(ngp-mac.com/kumarin)へのコメント

 

 

 

布縫的熊逍遥記布縫的熊逍遥記 2004/8/30 22:33 type »Trackback

和ということを考える上で

 今日は、友人夫妻の父上(義父上)の通夜に参列。いろいろと想うところがあり、疲れ

 

 

 

ぬのくまぬのくま 2004/8/30 22:55

 あ、石原慎太郎都知事の「三国人」は彼の考案の定義じゃないです。敗戦国民

でもなく、戦勝国民でもない、第3のカテゴリー(「解放国民」)という

意味ですね。

 伝統的な用法での「三国(単純に、大陸と半島と日本という近隣3カ国)」とは

大きく性格が異なりますし、慎太郎都知事のそれは意味の取り違えというよりは、別の用語といったほうが正確では。

 まあ、慎太郎都知事がことさらにこの言葉を掘り出して使う意図は全然違うところにあるので…

これを擁護する気はさらさらありませんが。

  

kumarinkumarin 2004/8/31 10:10

ご指摘ありがとうございます >> ぬのくまさん

>> 第3のカテゴリー(「解放国民」)という 意味ですね

>> 別の用語といったほうが正確では。

 なるほどそういう意味の使い方もあるのですね。語呂がよいので戦後新たにどなたかが使われた用法が定着したという考え方でよろしいのでしょうか。

石原をおちょくったつもりが・・・ミイラ取りがミイラになってしまったと言うことか。無知は恐ろしいと実感します。なにはともかく有り難うございました。

  

隅田清次郎隅田清次郎 2004/9/5 15:45

ありがとうございます。

確かに日蓮上人はあの時代において新しい日本像を示したお方だと思います。

ただ、日本人意識の変化は、元寇以前より徐々に起こりつつあったと思っています。

日蓮上人にしても、元寇の後に辻説法をはじめたのではないと思います。

接する外国が土蜘蛛や蝦夷、隼人ではなく、高麗や刀伊、宋、金、元になった時代。

武士が生まれる前の坂上田村麻呂の時代と平将門の時代の関東武者では意識は違いますが、

それがさらに進んで

北海道を除く今の日本に近い範囲を日本と、そこに住む人を同じ日本人と感じるようになった時代。

奥州藤原三代の頃にはまだ俘囚という言葉は残っています。

私の宗派である浄土宗の法然源空上人や親鸞上人は、新しい仏教を作ったとはいえ、新しい日本人観を作ったとは思えません。

人々が感じてはいても、具体的なかたちにならなかった日本人意識を

日蓮上人が提示してみせたというのが正解でしょうか

 

おみくじおみくじ 2004/9/7 0:55

この文章での日本人意識とは、一体どんな、どのような立場の人々の意識でしょうか?

近代以前の国家(国家というものは共通のルール(法)が適応されている集団のこと)は、権力者が固有の習慣や規則を持つ社団(ギルドや農村共同体、聖職者・貴族・平民などの身分共同体)に特権を認める形で統治を行う王朝国家(status states)であり、当然社団ごとにその特権に基づく様々なルールが敷かれていたわけです。この時点では国境すら明確でなく(琉球の両属状態等)、民衆の間に\"~国民\"という意識は存在していません。

国民意識というものは、近代になり法の下に平等な個人を主権者とする国民国家(nation states)の成立を以って初めて成立しました。国民国家とは、個人が自分の財産を守るために主権(自分たちのことは自分で決める権利(自治権))を国家へ貸与(社会契約)した結果成立した国家形態のことですが、この国家形態下では民衆は国家と直接つながりを持ち(近代以前では国王と民衆の間に社団があった)、社会契約による権利の保障元と義務の請負先が明確に意識されることで他国民との境界が明瞭になると共に、国民が法の下に平等になる(同じ国民であれば共通のルールが適応される)ことで初めて”われわれは~国民”という連帯感が生まれることになります。

ので、近代以前の日本人(ここの日本人とは地理上の日本の範囲に住んでいる人たちのことを便宜的に呼んでいるだけであり、他国民との境界は必ずしも明瞭ではない)が統一された日本人意識を持っていることはありえなく、日本・日本人という言葉を使い、感じていたとしてもそれは今で言う日本人意識とは全く別物では無いでしょうか。

  

隅田清次郎隅田清次郎 2004/9/10 13:34

管理人氏には管理人氏のお考えがあると思いますが、言い出しっぺとして書かせていただきます

現代の日本人意識のみについて云えば、仰るとおり廃藩置県から靖国神社創建、帝国議会などを経て生まれたものだとは思います

しかし、為政者以外の人間が「日本」「日ノ本」「日本人」「日本丸」「日本号」などという言葉を使うということは、

内容を厳密に考証すれば現在とは違うにしても、日本人という意識が人々に生まれている証拠だと思います。

照葉樹林文化圏から来た人も、オホーツク文化圏から来た人も、朝鮮半島から来た人(朝廷や関東武士団はこの子孫だと思っています)も皆同じ日本人だという意識がいつ生まれたか

歴史的興味としても、現代日本を考える上でも面白い題目だとおもいませんか

 

*1密教を考慮すれば実際にはここに朝鮮だけでなくチベットも加えなければならないが今回は直接関係がないので省く。ゆえに「三国」ではなく「五国」となる。

*2:上記脚注1を参照

*3:石原のいう三国は敗戦国民 でもなく、戦勝国民でもない、第3のカテゴリー(「解放国民」)という 意味。ぬのくまさんにご指摘いただきました。多謝。全く無知は恐ろしいが自らの無知を自覚して恥じることこそ仏教徒の歩むべき道だ。2004.8.31 くま