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女性の「渇愛の性」と「性戦略」--仏教における女性差別雑考

仏教と心理学の接点

 相田しおんさんの『しおん日々想(現在は終了 404 Not Found)』に『女は常に女を攻撃する』と題して「女にはやはり女のやりそうなことがわかる。悪いのは自分の男ではなく、自分以外の女だと考えるのが女である。パニックを起こして思考が働かなくなっている女は特にそういうことをする。こう言う私も電話をしてきた女に対して、当の「問題を起こした男」に対するよりもムカついている。」という記述を見つけて、「女が相手の男でなくそのまた相手の女を責めるという行為はどこか動物に似ていると思います。動物は雄であれ雌であれ相手である異性を責めるのでなくライバルである同性と戦うからである。女にはこんなところにも野生の本能が残っているのでしょうか?だからといって男が相手の女を責めるということが人間として動物より進化したと見るのは勇み足だと思うけど。男は社会と適合するためにバカな男もバカなりに論理性を身につけ、責任の範囲をなるべく小さくして自己保身を計ろうとすると言えなくもないから。これは進化と言うよりドメスティックになったと考えるべきでしょう。こう考えると動物から人間への進化とはいったい何だったのだろうとちょっとおかしく思えます。」というようなことを旧『くまりんが見てた!』に書いた(2004.4.15)ところ、心理学の研究者である『気まぐれ開発日誌』の soleil さんから興味深いコメントを戴いた。

 葛藤状況において責める相手に性差があるとのことですが、もしこの現象を進化論の立場から考察するというのであれば雌雄間の性戦略の違いに起因しているのではないでしょうか。

 詳しく述べる知識もスペースもないので割愛しますが、もし恋愛や性行動の進化について興味があるのでしたら「性淘汰」「性戦略」「配偶者防衛」などで検索してみるとシアワセになれると思います。

または David M. Buss の著書なんかもオススメです。

女と男のだましあい?ヒトの性行動の進化

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一度なら許してしまう女 一度でも許せない男 嫉妬と性行動の進化論

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以上、ご参考までに。

なんだか偉そうな物言いになってしまい申し訳ありません。

 そこでわたしはちょうど手にしていた瀬戸内寂聴氏の『釈迦(*1)』に綴られていた以下のようなこと、---- 仏教の開祖のブッダは女性には「渇愛の性」があるから無常の自己を自覚しても欲望を自ら制御して覚者にはなれず、従って心の平穏も得ることがないと女性の出家も尼僧も認めなかった。しかし慈悲で計らうようにという弟子のアーナンダの要請に折れて女性の出家を認めた ---- を引き、西洋の宗教学者はこれを仏教の女性差別だと主張するグループもありますが心理学的にはその傾向を認められるとする学者もいるようですと申しあげた。女性は「渇愛の性」があるから成仏出来ないという説をブッダの説いた説として美しく文学的に語る前述の小説『釈迦』は、瀬戸内氏が所謂小乗系のマハーパリニッパーナ経をベースに瀬戸内流の人間釈迦の解釈を織り交ぜて美しい文章で綴りあげたもので、ブッダの本来の意味で言えば「無明」の意味にあてがわれた「渇愛」はすっかりここでは「性」とセットにされて女性の「渇愛の性」という瀬戸内寂聴氏の創作語に昇華され、それは氏がご自身の女性としての性を顧みつつ、初期経典に書かれているブッダの言葉を乳母マハー・パージャパティーの出家についてアーナンダとの応酬を描写するうちに再構成して、さらに大乗経典に見られる「變成男子」(中村元博士に依れば既に原始仏教にもみられるという)に象徴される女性差別を瀬戸内氏流に積極的に享受することも含めて瀬戸内氏によってブッダの口を吐いた発言になっているのでした。soleil さんはそういうわたしに対して以下のようにコメントをくださいました。

 あいにく仏教については暗いので「渇愛」の意味を取り違えているかもしれませんが、メス(進化論からの議論ですので敢えて「女性」とは表記しません)がオスに対して愛情の表出を求めるということは性戦略の観点から説明がつくとされています。すなわち、使い捨ての精子をばらまくオスとは異なり、繁殖に対する先行投資(卵子に含まれる栄養分や哺乳類においては妊娠・出産と授乳の負担)が多いメスは、潜在的配偶相手が産まれてくる子の養育を行う意志があるかどうかを見極める必要があるということです。

 このことから、ヒトの浮気に対する葛藤について調査した研究では、女性は心の浮気に、男性は体の浮気に激しく嫉妬するという結果が得られています。これは、女性は配偶者が心変わりして養育投資を受けられなくなることを恐れ、男性は父性が不確実になることを恐れることを示唆しています。

 わたしは実在したブッダが奈良康明博士の言うように「釈尊の成道後も悪魔との戦いの記述がパーリ語原始経典にみられるので、成道後も釈尊は自我や妄念と戦い、透徹して無我の縁起を観察する努力を続けて自らも変わっていった人 - 要約筆者 (*2) 」なのか、更にその奈良説を噛みしめるように続けられる袴谷憲昭教授の「正しい〈ことば〉で正邪を判断して、正しい〈ことば〉を選び取り〈ことば〉で自分を反省しながら〈ことば〉自分を変えていった人 - 要約筆者(*3) 」なのか、さもなくば全く逆に宮元啓一博士の言われる(明らかに奈良、袴谷批判だと思われる)ように「無明という根本的な生存欲にはじまり、老死という、輪廻的生存の本質である苦に終わる因果関係を、徹底的に観察、考察し、その真理が揺るぎないものとして自覚され、骨の髄まで浸透して完全な智慧が生じて論理を完成させて目覚めた人、ブッダになったのであるから一部の仏教学者がヒューマニズムに陥って言うように成道後も変わっていったなどあり得ず、成道後の人生は法を説くための方便であった - 要約筆者(*4)」のか、いまだどちらも確信にいたる材料を持ちません。奈良説には親しみは感じますが、宮元博士が言われるように哲学を非人情な学問とされる宮元説(*5)には大いに納得させられるものがあります。

 ところで瀬戸内氏のこの本はどちらかと言えば奈良博士の解釈に近いもので、さらに瀬戸内氏がブッダを理想の包容力のある男性として艶めかしく描いています。この本をわたしは前述のようにちょうど soleil さんとの対話をしているときに読んでいて、読み終えてから「いったいあなたはちっともお坊さんらしい仕事をしないのね」とわたしに文句ばかり言う母親にプレゼントしたのですが、七十の齢を超えた母はこの本を読んで「お釈迦様と遊女アンバパーリーは肉体関係があったの?随分艶めかしいわね」などとふやけたことを宣わったのですから瀬戸内氏のテキストは見事というほかありません。そこで少しばかり仏教の女性差別について興味が涌き田上太秀博士の 『仏教と性差別(*6)』という本を読んでみました。田上博士のこの本は仏教の女性差別を考えるときにまずは手に取るべき本でしょう。田上博士はこの本の中で極めて丁寧に原始経典から漢訳大乗経典までに見られるその時々の仏教の差別的表現についてピックアップし、最後には『極言すれば、われわれは大乗仏教経典を捨てて、釈尊のもとに帰るべきではないか』と結論されいます。せっかくここまで論じられながら、ブッダ自身の思想、あるいはブッダを取り巻く習慣にまで突っ込まれておられないのが残念だったのでわたしも非力ながら自分でも調べてみました。

 実際のブッダは初期のパーリ語による Samyutta-Nikaya(相応部)によれば

かくのごとき車に乗る人は、男であろうと、女であろうと、実にこの車によって、安らぎのもとに至るであろう。

人々の王よ、婦人といえども、ある人々は実に男子よりもすぐれている。知慧あり、戒めをたもち、姑を敬い、夫に忠実である。かの女の産んだ子は、英雄となり、地上の主となる。かくのごとき良き妻の子は国家をも教え、導くのである。

 と徹底的に男女は「法(dhamma)」の下に平等であることを説いています。たしかにブッダは農村において家父長制的な家族制度の確立とともに女性を軽視し、道具的に扱うヒンドゥー文化のバラモン教的な傾向を真っ向から否定しました。しかし、おなじSamyutta-Nikaya(相応部)とそれよりやや遅れて成立した Anguttara-Nikaya(増支部)にはアーナンダとの間に次のような応酬が認められるのです。

女人は清らかな行いの汚れであり、人々はこれに耽溺する

アーナンダよ、婦人は怒りやすい。婦人は嫉妬深い。婦人はもの惜しみする。婦人は愚かである。これこそ婦人が公会のうちに座せず、職業に従事せず、職業により生計を立てない理由である。

 原始経典にも見られるこうした女性差別の萌芽を田上太秀博士はスッタニパータ第三大いなる章601~611偈に説かれる「人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ」ということと『パーリ律蔵大品 115』の「さまざまな蓮の花の区別のように人には違いがありさらにその上に男女の区別があるが、しかし人間の本性に差別があるのではない」と説かれることを根拠にしたブッダの平等感故に、こうした経典を伝えたのは大乗教徒であるから大乗教徒による初期経典の改編ではないかと指摘されています(前掲田上本)がはたしてそうでしょうか。


 『パーリ律蔵』には瀬戸内氏の小説『釈迦』にも引かれるブッダが乳母マハー・パージャパティーが教団に加わることを歓迎せず、八敬法を遵守するという差別的な条件付きでようやく許可したと伝えられています。中村元博士は「婦人の出家者のみの教団を、男子の出家者のみの教団と対等なものして成立させることは理想にほかならず、現実の問題としては十分に有力なものとして発展させることが困難であったらしい(*1) 」と推測されています。そしてこの点について永井俊哉博士は「ガウタマ本人には、女性に対する偏見がなかったと考えることができる。しかし、後に教団内に生じることになる女性差別の萌芽を、ガウタマの思想の中に見出すことができる。すなわち、ガウタマは、女性を差別することはなかったが、女性原理を拒絶していた(*7)。 」と思想ではなく原理の拒絶という点を指摘していますが、ブッダの哲学が経験で知りうる範囲に限定されたことを考えると博士の指摘は卓見であるとわたしは思います。そして瀬戸内氏の創作も女性原理を拒絶したブッダそのひとにせまる解釈と言えるのではないでしょうか。


 尼僧教団を男僧の教団と完全に分かち双方で自由に交流が出来ないように隔絶させたブッダの意志が女性原理の拒絶にあるとすれば原始経典に残されたブッダの女性に対する発言は説明が付くでしょう。しかしそれはそういうブッダの意志とは裏腹に当然あるべき女性への差別として弟子たちに引き継がれたのではないでしょうか。こうして仏教教団に根付いていった女性差別の風潮を経典の変遷の上に見るならば、まずいわゆる小乗系の『涅槃経』では随分沢山の女性が仏(阿羅漢)になったことがブッダによってアーナンダに説かれ成仏の上では男女に差別は見られないようですが、大乗系『涅槃経』では田上博士のご指摘通りあまりに目を覆う差別表現が頻出します。『法華経』(『提婆達多品』『勧持品』)ではいささか改善されて一旦男性になってから成仏するという「變成男子」というかたちで差別が否定され、『維摩経』においてはその『法華経』の変成男子による「女人成仏」も否定され完全に乗り越えられたかに見えます。しかし前述の田上博士によれば『維摩経』の記述にはほっとするけれども大乗経典では「女身成仏」は説かれなかったことになります。

「女身色相今所在。舎利弗言。女身色相無在無不在。天日。一切諸法亦復如是、無在無不在。夫無在無不在者仏所説也。」

女身の姿・形は、今、何処に有りますか。舎利弗曰く。女身の姿・形は、あるのでもなく、ないのでもないのです。天女曰く、すべてもろもろのもの、また、同じです。そもそもあるのでもなく、ないのでもないのです。そもそも、あるのでもなく、ないのでもないというのは、仏のお説きになったことです。

 このように女性差別大乗仏教では一応否定されていきます。勿論これは仏教の発展の歴史の中で女性の信者も取り込むという仏教教団側の現実的な要請であったことであると推測できますし、ブッダの真意は女性を差別しているわけではないので宗教的慈悲という点からも悪しき習慣が改善されたということも推測されるでしょう。それと同時に、あたかも仏教の本流であるとばかりに肥大、増幅した「如来蔵思想」「本覚思想」と女性差別は表象的には相容れない習慣であったこともにも注意を払っておかなければなりません。だからといってわたしは「如来蔵思想」「本覚思想」が田川博士の言われるように差別思想であるということを否定するものではありません。「如来蔵思想」「本覚思想」が差別思想を基体に持ちながら、根底の部分では差別を固定化しつつも対峙する対象によっては平等な思想として振る舞い、ブッダの刻印を引き継いでいこうとする仏弟子達によって仏教以外の所謂外道との現実的な勢力争いではだれもが成仏出来る平等な思想として機能してきたことにも注目しておかなければならないと考えるからです。「如来蔵思想」「本覚思想」は在家仏教の発展にも寄与したことは明らかですし、我が国では「本覚思想」に骨の髄まで侵された比叡山の法師たちが紫式部清少納言に言い寄られ、『法華経』のここではブッダに変わってシャーリープトラが悪役を引き受けさせられているのだけれども『提婆達多品』と『勧持品』を以てまことしやかに成仏の瑕疵を説いているであろう図を想像するだけでも楽しいじゃありませんか。


 さて話はブッダの女性観からずれてしまいましたので話を戻せば、昨今、ブッダの成道の内容とは、ラフにその概観をスケッチするならば、「徹底的に自我を制御」しながら「時間軸の上に網の目のように連なる縁起」を観察したうえで、あらゆるものが我がものではないとの自覚である「縁起」と「無常」であるという説は、近世のイギリスのインド文献学を基礎にした近代的仏教学の成果でしょう。なぜこの点を改めて概観したかと言えば、この後に続く「如来蔵思想」「本覚思想」を仏教の正統から切り分ける考え方がいまなお日本仏教界に受け入れられているとは言い難いからなのですが、すくなくともブッダ成道の内容については大方の了解を得られるものでしょう。そしてそれを前提に話を進めれば、女性が成仏出来ないという瀬戸内氏の創作や、女性原理を拒絶したとする永井説は、女性が「徹底的に自我を制御」しながら「時間軸の上に網の目のように連なる縁起」を観察しあらゆるものが我がものではないとの自覚をすることに女性原理が障害になるということを想定することになるのです。ブッダがブッダ自身の「諸法」「縁起」の「観察」において、soleil さんの言われるような近代的な心理学を以て説明のつく「メスの性戦略」をもブッダ在世の時代に冷静に観察し感じ取り、その「メスの性戦略」が女性一般をして自我を徹底的にコントロールすることについての障害になっていると認識していたと推測することは出来ないでしょうか。勿論これはいまわたしの頭の中で漠然と湧ききあがってきた段階の雑考であり、心理学的な説明のつく「メスの性戦略」が果たして仏教的な「自我」のコントロールについてどれだけの障害になるのかを仏教的に「心理学」との対話においてより多くの思考を積み重ねて整理して、反証も試みなくてはならない問題であり、推測によってのみ決めつけるようなことがらではありません。


 本来、種の保存という「はたらき」には自我のコントロールなどという人間のみが対峙しうる哲学は含まれる筈もなく、性差による相違が備わっていて当然なのですから、ブッダもとまどい、もてあましたのではないかと思うのです。様々な学問がかなりのことを説明してくれる現代社会においてだって、そんな学問があることを知らずに、あるいは知ろうともせずに異性をもてあます人は沢山います。ならばブッダの時代ならなおのこと、そんな近代的な学問は未だ成立しておらず、あらゆることを自ら観察し経験の上に理解するより他はなかったはずです。だからその性差を観察し感じ取ったブッダはそのほかの問題にするべきでないことがらに対しての「無記」と同じように問題にしたく無かったのかも知れません。ここで現れてきた性差にどう向かうかはどうやら仏教の根本的な問題であり、考えて行くべきテーマです。だからといって男女は「全同」にして「全別」であり、「平等即差別」などという時間軸から一足跳びに飛び出して「真理は言語を絶する」などというな「絶対的自己否定による自己限定」の「場所」からものを見るような態度と思考をせずに、ぎりぎりまで縁起の時間軸にとどまって明快な「言葉」で論理的に思考をする仏教の立場を守った上で考えて行きたいと思います。Thanks >> soleil さん。また何か批判、助言を戴けたら幸甚です。

2006.3.20追記

 このテキストは 2004.9.6 旧「くまりんが見てた!」に掲載されたものだが、元テキストにはこのテキストの前提となる soleil さんとの対話が欠如しているため、その部分を補って新しい記事として掲載することにした。瀬戸内寂聴氏の『釈迦』が元テキストより新しいのは今回文庫版を掲載したためである。宮元啓一博士の『ブッダが考えたこと—これが最初の仏教だ』はブッダの成道後を廻る解釈で前掲の奈良説、袴谷説とは明確に対立する解釈なので今回の加筆で挿入したが、それとて当時已に発表されていた『インド哲学七つの難問 (*5) 』で宣言されるように『哲学は、このように、人間的な、あまりに人間的な営みであるがゆえに、人間の、動物としての自然に心地よく抱かれている人々からは、ほぼ必然的といってよいほど誤解を受ける。それは、同じく人間的な、あまりに人間的な営みである売春が、「正しい」人情の持ち主たちから、蛇蠍のごとく忌み嫌われるのと、まったく相似をなしている』ようなことであると。哲学は『人の心を打つようでは、哲学とはというていいえない』のであってそれは『非人情』な『論理学』であるという宮元博士のご主張を踏まえてのものである。それ以外に大きな変更はしていない。わたし自身はインド哲学を基礎にした宮元博士の考え方には少なからぬ影響を受けているが、この当時はむしろ奈良博士、袴谷教授のヒューマンな考え方(宮本博士)に賛同していた部分も多くあるのでわたし自身の考え方を書いた部分はそのままにしておき、そのかわりに宮元博士の主張を挿入した。如来蔵思想や本覚思想が哲学としての非仏教と、人情としての仏教思想の両面を持つことを肯定的に考えているのは下田正弘博士の影響だと思う。しかしそうした文化的歴史としての仏教の解釈の仕方は哲学としての仏教を突き詰めて考えられる宮元博士の考え方には相容れられないかも知れないと思っている。

釈迦 (新潮文庫)

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釈尊との対話 (NHKブックス)

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本覚思想批判

本覚思想批判

ブッダが考えたこと―これが最初の仏教だ

ブッダが考えたこと―これが最初の仏教だ

インド哲学七つの難問 (講談社選書メチエ)

インド哲学七つの難問 (講談社選書メチエ)

原始仏教―その思想と生活 (NHKブックス 111)

原始仏教―その思想と生活 (NHKブックス 111)

*1瀬戸内寂聴釈迦 (新潮文庫)』新潮社 ASIN/ ISBN: 4101144389 2005-10

*2奈良康明釈尊との対話 (NHKブックス)日本放送出版協会 ASIN/ ISBN: 4140015543 1988-07

*3:袴谷憲昭 『本覚思想批判大蔵出版 ASIN/ ISBN: 4804305173 1990-01

*4宮本啓一ブッダが考えたこと―これが最初の仏教だ』春秋社 ASIN/ ISBN: 4393135202 2004-11

*5宮本啓一インド哲学七つの難問 (講談社選書メチエ)講談社 ASIN/ ISBN: 4062582554 2002-11

*6:田上太秀 『仏教と性差別―インド原典が語る (東書選書)』東京書籍 ASIN/ ISBN: 4487722284 1992-10

*7:永井俊哉 『永井俊哉講義録 第167号 仏教はなぜ女性を差別するのか』よく考察されたテキストではあるがこのなかに磯部隆氏の『釈尊の歴史的実像』から引いたブッダの出家の動機をフロイトの涅槃原則を以て補強しているのには首をかしげざるを得ない。