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「品位」の普遍性 – JANJAN 編集長 竹内謙「ご意見板」について 論考

市民新聞とは一体なにか

いや、ところがここに一人の人間がおつて正しいことを口にしている、したがつてそれを理解しているはずでありながら、さていよいよ行動せねばならぬときには不正なことをする、すなわち彼がそれを理解してはいなかつたことが曝露されるとすればこれこそ無限に喜劇的である。真理のために生命を捧げる高貴な自己否定の話を読んだり聞いたりして涙を流すほど感動した人間が、いや涙だけではなく汗までたらたらと流した人間が、すぐ次の瞬間にほとんどまだ眼に涙をためながら、ワン・ツー・スリー・ドンとたちまち一転して虚偽に勝利を獲させるために額に汗して全力を尽すとしたら、これこそ無限に喜劇的である。(キェルケゴール『死に至る病』(斉藤信治訳・岩波文庫)、p. 148)

 なんでまた柄にもなくキェルケゴールなのかについて訝る方もおられようが、とにもかくにも今回の一連の JANJAN のやり方を見ていて思い出してしまったのが、学生時代「釈迦が出ようが出まいが、仏教の法は普遍的にあるものだ。すべてはこの一心より出づる。故に仏教は科学と矛盾せず続く普遍的な宗教であると言えるのじゃ。」などという老教授の権威的で出鱈目な講義に「フンっ」とそっぽを向きながら読んでいたキェルケゴールのこの一節だったのだ。正義だと自負していた者がより正しい言葉で批判に晒されようとするとき曖昧で権威ある「ことば」を振りかざして覆い隠そうとするのはキェルケゴールの時代から当たり前のように繰り返されて来たのである。

 市民新聞 JANJAN 編集部が『最近、「ご意見板」のなかに、サイトの品位を汚す書き込みが目立つようになりました。誠に残念なことです。–(中略)– 編集部が「品位を欠く」と判断する書き込みについては削除する場合があります』という 宣言をしたとき(2004/11/12)、2ちゃんねる@市民新聞JANJANを熱く観察するスレ のウォッチャー達が名付けるところの「相互批判・メディアリテラシー派」の論者達は一斉に「どの記事の、誰の書き込みの、どの部分」が品位に欠けるのか「具体的にしめせ」と書き込んだ。市民新聞を標榜する JANJAN が遂に傲慢な本性をさらけ出した瞬間だった。そこへ編集部の応援のつもりか 『「具体例を示せ」と言っている人は、どのようなものが品位を欠くか、自分で判断がつかないのでしょうか?。–(中略)– 自分で判断のつかないような人が、学生を教えているのだとしたら、まことに恐ろしいことです。」とこれまた交通政策についての市民運動を指導する学者であられるとともに、法政大学で教鞭を執る上岡直見氏から「相互批判・メディアリテラシー派」への批判にもならない中傷があった。

 ■編集便り >> 「ご意見板」について(竹内謙)

 http://www.janjan.jp/editor/0411/041112624/1.php

 私が呆れたのは、正しい「ことば」で学生を教育する立場にある方が「ワン・ツー・スリー・ドンとたちまち一転して虚偽に勝利を獲(え)させるために額に汗して全力を尽す」に見えたからである。そして上岡氏の批判は私に向けられたものであるから一応その問題点の指摘をさせていただき批判をしておかなければなるまいと思い、筆ならぬキーボードを叩き「無限に喜劇的」なステージの幕を下ろしておこうと思う。*1

「品位」の普遍性

 さて、「どのようなものが品位を欠くか、自分で判断がつかないのでしょうか?」という私のような主張に対する問いかけですが、例えば木走氏がわざわざ辞書から引用してくださった(木走さま、多謝)その示す意味を見ますと、また「気高さ、おごそかさ。品。」などという抽象概念で示されておりまして、では何故辞書のような言語を分析し解説するような書に於いてもこのように抽象的に示さざるを得ないのか少し想像力を働かせて見れば、それはその概念を同じ言語を共有する個人によってさえ感じかたが違う曖昧さを持った「ことば」だからと大凡の創造はつくものです。こうした曖昧さは実は感じ方の個人差に依るだけではなく、時間と共にも変化いたすわけでございます。

 しかしながらそれでも辞書の示すところの「品位」をその用例のごとく意味する概念を他者と共有出来得る限り狭めて行くとすれば、私はいくつかの JANJAN 編集部によるレビュー記事や特定は致しませんがいくつかの市民記者による主観に基づいたような記事などを拝見させて頂きますと「自然に尊敬したくなるような気高さ」は感じることは出来ないのですが「いかめしく、近づきにくいさま」を意味するところの「おごそかさ」はむしろ記事のほうに感じますが、上岡様は私とは逆に投稿のほうに感じられるのかも知れません。

 「品位」の語源の一つであろうと思われる「品がある」とか「上品である」とかは実はどういう事であるのかは永井俊哉博士がネット上でそのご論文を公表されていらっしゃいますが、中世からの日本語の変遷を検討しつつ変化しうる概念を捨象して「欲望充足の直接性と効率性を否定すること」であると結論づけておられます。このご成果を踏まえて論じさせて頂くならば、かかかる「品位」をこの編集部のような用法で記事の基準として想定する「ことば」として使うことは言語学的には誤りであるとも指摘させて頂くことも出来るわけですが、実際のところ日常的な用法に於いては「品位」という「ことば」の曖昧さはこうした転用も可能にするだけでなく、実は未だ持ち得ぬ要素を持ちたいという願望としても表現されているということが見えて来るように思えます。

 ■永井俊哉講義録 上品さとは何か

 http://www.nagaitosiya.com/lecture/0097.htm

 そうして使われた言葉はなんら実態を伴うことなく「あるべきすがた」として漠然として人間の前に現れるわけですが、本来実態すらないところに想定された「ことば」というものは、なんら具体的な「ことば」で意識されることなく直感的な「あるべきすがた」として権威主義的に押しつけられる概念として機能するのです。こうした「ことば」を権威主義的に押しつける最初の用例は聖徳太子に帰するとされる「和を持って貴きとなす」がテキスト上は初出であるのですが、これが中世の明恵の「あるべきようわ」にまで発展し、さらに時代を経て教育勅語にまで受け継がれ「滅私奉公」などとなったときは日本人が戦争熱に侵されて一億玉砕などという出鱈目なスローガンさえあたりまえのように叫ばれるようになったのはたかだか半世紀前で、それに意見する人はすべて「非国民」とこれまた普遍性を持たない曖昧な「ことば」で一括りにされて暴力的に排除されたわけですから、普遍性を持たない曖昧な言葉での押しつけは極めて権威主義的だとも言えるのです。

 なぜ私が曖昧さを持つ「ことば」にそれほど拘るかと言えば、ひとつ一般によく知られている例を挙げさせていただくと、新約聖書のルカ伝の「あなたがた貧しい人たちはさいわいだ。神の国はあなたがたのものである」という句がありますが同じくマタイ伝の「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」というのとは全く異なり「こころの」という曖昧な「ことば」がルカ伝の句の言わんとするところに「こころ」という逃げ道と妥協的な立場を用意してしまっているのであって、こういうところの積み重ねがいつの間にか「イラク侵攻は十字軍である」などという出鱈目なスローガンを後押しする勢力を育ててしまった要因でもあるわけで、こうしたキリスト教に於ける「ことば」の曖昧さは日本の「和を持って貴きとなす」とまったく変わらぬ役割を果たしてしまっているからです。

 そのような「ことば」無視の直感的スローガンの行き着く先は大日本帝国やアメリカのキリスト教原理主義のみならず、スターリン文化大革命毛沢東中国、自分だけが主体の金日成主体思想、私の学生時代には同級生をリンチで葬り去ろうとした日本共産党にも見られるわけですが、私は JANJAN という市民新聞もその名称の割には市民的、進歩的というよりも保守的で権威主義的であると思う訳です。どうしてそう思うかと想像してみれば、曖昧な「品位」という「ことば」を振りかざして、その曖昧さをご存知であるにもかかわらず、何を基準にするのかも不明確なまま編集部の判断するところの「品位を汚す」投稿を一括りにして排除しようとするような尊大な態度が行間から読み取れるからであり、「品位」の曖昧さを出来る限り狭めるために明確な「ことば」でそれをフォローして、つまりどの投稿のどの部分が「品位」を汚すのかを指摘して「ことば」による相互批判の議論*2を受け入れるようには見えないからです。そういうところは石原晋太郎東京都知事にも共通するようなところも見えるように思えますが如何でしょうか。

 「ことば」は時には下品で人を傷つけることさえあるでしょう。しかし私たち人間は「ことば」を組み合わせて思考することで立ち上がり動物から人間へと進化し得たのです。だからこそ相手の「品位」の無い「ことば」もその意味を創造し「ことば」で批判していかなければなりません。ならば「ことば」による批判を放棄して「品位を汚す」で片づけてしまうということは裏返せばなにも考えていない直感主義と同じことだと思います。そしてそれは楽なことでもあるのです。たしかに「ことば」を受け止めて「ことば」で思考する人間より動物は楽でしょう。しかしそれでは「ことば」を上手く操る人に魂まで売り渡さねばならなくなります。というわけで「ことば」の曖昧さを意識しないような方が「どのようなものが品位を欠くか、自分で」どんどん「判断」してしまうようなかたが大学で教えたら恐ろしいだけではすまないことになってしまうと思い反論させて頂きました。

死に至る病 (岩波文庫)

死に至る病 (岩波文庫)

*1:この記事のこれ以降はNPO 型インターネット市民新聞 JANJAN >> 編集便り >> 「ご意見板」について(竹内謙)に投稿されたもの。http://www.janjan.jp/editor/0411/041112624/1.php

*2:なをこの主張に伴って市民メディアおいて何故に相互批判が必要なのかは「いまこそ比例代表中心の選挙制度を「二大政党」は面白くない」に対しての拙稿 [4924] RE:木走様へ を参照されたい。http://www.janjan.jp/government/0411/041110545/1.php