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JANJAN を脱構築する

デリタの脱構築と市民主義と仏教

 JANJAN の常連 Kei 氏にそそのかされて デリタを読むことになった。とりあえず1983 年の日本講演のテキストを入手して斜め読み。改めてじっくりと批判的に取り組んで見たいけれど、そうなってくると森本和夫氏の「デリタから道元へ —脱構築と身心脱落」が気になってくる。森本氏の禅宗道元理解は、道元は完成されて変わらぬ人との前提の上で、実は絶えず自己と周りを見つめながら変わっていった道元の変化と迷いを、哲学的に晦渋で難解なテキストとしてとらえておられるようなので、逆に脱構築してしまうのも楽しいかも知れない。それはまた別の機会に譲るけれども、とりあえず最近の JANJAN の記事や投稿の傾向をデリタを斜め読みした感想と絡めつつさらっと論じてみたい。

■ドイツマスコミスキャン~教育行政の分権のあり方

http://www.janjan.jp/media/0411/041116703/1.php

に投稿された横山多枝子氏の[5251] 次元が違う論点– は極めて重要な論点を含んでいると思う。

論文形式文においては、先行詞不在で代名詞を用いることはできないことは言語学的約束です。日本語だけ書き手の脳に浮かんだ事柄を代名詞で代用できるのであれば別ですが。■ドイツマスコミスキャン~教育行政の分権のあり方

 JANJAN においてこのような記者の主観的脳内事実に基づいた記事がなんと多いことでしょう。「反権力」であることが、あたかも縦横無尽に貫通する真理であるがごときの錯覚は、「反権力」という意識そのものが Super Loucas として規定され、すべての思考がそこから出て、再びそこへ収斂させる、まるで完き円のような思想構造を持ち、たとえ無宗教を標榜しようとも、その Super Loucas は神のごとく振る舞う点において、ドイツ観念論に近いばかりか、カントの指摘するところの「ある宗教において、何かを神の命令として承認しうるよりも前に、それが義務であることを私があらかじめ知っていなくてはならないなら、それは自然的宗教である–『たんなる理性の限界内の宗教』カント」ならば土着的アミニズムそのものであると言える。

 ベルグソンに言わせればそうした思想構造は時間軸から一挙に飛び出した空間的な立場であるという。空間に「ことば」はいらず、時間軸に立つ者のみが「ことば」で時間を反芻することが出来ると言うわけだ。なるほど「自衛隊員は気の毒ではない」などという論理は既に論理ですらない。時間軸を飛び出して言語を絶した空間で思考を停止している典型的なサンプルだ。あなたがたの批判は時間がないから読まないけれども書きたいことは書きますよなんていう開き直りも、なるほど「ことば」を無視して考えることを放棄した人なら当然出て来る台詞だろう。今度はどんなコペルニクス的ウルトラCが出て来るか反面楽しみでもあります。批判は続けましょう。

 一部の市民主義、反権力を標榜する方々の主張の論理がまるで破綻していて笑いさえ誘うのはもはやその神の啓示のままに振る舞うからかも知れませんが、むしろポパーの言うところの「損失を回復しようとしてますます損を重ねていく過程」は「反証回避戦略」である。新たな真理を発見するための果敢な試みではあることはあるものの、その多くはは理論が反証されてしまったことに対するみっともない取り繕いでもあるとしてポパーはいっさいの反証をはなから受けつけない狂信的タイプの「反証回避戦略」をフロイト精神分析マルクス主義などの一部に認めている。

精神分析学者はどんな反対意見に出会っても、その反対意見は批判者の抑圧のせいであると示して、いつでも反対意見を説明し去ることができる。同様に、意味の哲学者もまた、彼らの敵対者の主張を無意味であると指摘しさえすればよい。そして、この指摘は、「無意味」という言葉の定義がこの言葉についての討論は無意味である、というように定義されているのだから、いつでも真である。マルクス主義者も、同じ手管で敵対者の不同意をいつでもその敵対者の階級的偏見によって説明する。小河原誠『ポパー─批判的合理主義』より

 ここで言う市民主義とマルクス主義がどこまで通底しているのかはひとまず置くとしても「反証回避戦略」において両者は極めて類似性を持っていると認めない訳にはいかない。しかし市民主義を主張する人たちは「他者」の存在を認めているように見えるところが厄介だ、が騙されてはいけない。彼らの「完き円」のごとき思想構造を厳密に考えるなら、すべの他者は「私」の依って立つ「完き円」の既知の要素として認めているだけに過ぎず、「私」の依って立つ「完き円」の意表をついたりすることはない。実は「絶対他者」であるはずのものが実はそこではよく知られていて「私」の依って立つ「完き円」の安泰を保証してくれるものになっているのであって、それこそが同じ思想構造の上に立脚する他者であるところの自民党政権創価学会なのである。彼らへの悪口ならばお互い「思想が違う」でしゃんしゃんと実は手を組んで真摯に真理を探求する人を排除しようとするのみである。

 

 さぁ、「わたしたち」が彼らと同じような過ちを犯さないためにここでデリタに登場願う訳だけども「わたしたち」は、自己の時間を逆順的に「ことば」で反省し何が正しいのかを選び取っていく不断の努力を放棄すると、あっと言う間に「他者」の他者性をあらかじめ縮減し「わたしたち」が既に知っているような他者だけしか通さないようなフィルターを観念的にも現実的にも張り巡らしてしまう。観念のレベルでのそのフィルターの典型的な現れこそ形而上学的の構築物だと言うわけだ。その瞬間、其処にはもう既に時間を一足飛びに飛び出した空間的な場所から縦横無尽に貫徹する「真理」なる「構築物」を求め、それにしがみつこうともがいている「わたしたち」がいる。ディコンストラクションとはこの構築物崩壊の運動だ。「ディコンストラクションとは正義である」といデリタの主張も、こうしたフィルタの解体なしには「他者としての他者の肯定の経験」もないだろうとすれば分かりやすい。

 そこで「正義」を「理想」や「原則」「規範」として立ててしまうと「正義」が「わたしたち」の行為を導くアプリオリな規則になってしまい「正義」がまた一つのフィルターになってしまって、あらたな「経験」の他者性を縮減してしまう。だからデリタはポストモダンの哲学だなんてかっこいいジャーナリスティックな言葉で括るべきじゃない。デリタ自身が言うようにディコンストラクションとはデリタ以前からある「正義」を求め続ける運動なのだと。だからこそディコンストラクションが終わることはたぶん決してないと。デリタを補足するならばにディコンストラクションとは常に時間軸に立ち、「わたしたち」自身の「ことば」で行わなければならない。空間的な場所から時間へ立ち返ることでもあるのだ。

 そこでアプリオリな規則を超えたところに、アプリオリに身を開いておくことが「わたしたち」には出来るだろうか。「わたしたち」は既にその萌芽をソクラテスにすら読み取ることが出来る。ソクラテスこそ自身の無智を知り、智者になろうと歩み続け、智恵があると自身で思いこんでいる人たちと論争を続け、彼と智者たちとの違いは彼が無智を自覚して真理を求め続けると言う点に於いて智者たちよりも智恵があると自覚した人類最初の人だったのである。そしてディコンストラクションソクラテスより少し遅れて現れた釈尊の「ことば」のなかにもはっきりと読み取ることが出来る。

比丘たちよ、かくも清らかで明瞭なこの見解でさえ、あなた方がこれにしがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着するならば、あなた方は、われわれの教えが筏に似たものであることを理解していないのだ。筏は流れを横切っていくためにあるのであって、しがみつくためにあるのではない。中村元「ブッダのことば」より