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「圏外からのひとこと」に蘇る和辻哲郎

リバースした「間柄」の哲学

  圏外からのひとこと の essa 氏がまるで和辻哲郎のようなことを言っているので少し驚いた。和辻は人間存在を「間柄」で捉えた。その「間柄」を個々人が形成していく側面と「間柄」に限定される側面を人間存在は「個人」と「全体性」という二つの契機によって成り立つと考え「人間存在の二重構造」と呼んだ。この「個人」と「全体性」を和辻は対立概念として捉え、相互に否定して止揚することでより高度な「個人」と「全体性」が実現されると考えた。その相互否定と止揚のプロセスは「一つの運動」として発展していくとされ、そのことは人間存在の根底は否定性そのものであるから「絶対否定性」を意味し、その絶対否定性は和辻に於いては「空」と呼ばれる。

 和辻に於いては人間存在の根底にはこの「空」の運動があり「個人」と「全体性」の相互否定→止揚→高度化の「否定の運動」とは、「空」が自己の根源へと還帰していく運動であるとした。和辻にとって時間も空間もこの「間柄」から生まれるものだ。人間は多くの主体に分離されながらもそれらの主体との間に結合を作り出そうとする。その広がりが根源的な空間を作り出すのだ考えられ、その主体的空間性としての広がりが既存の「間柄」に規定されつつ、常に新しい「間柄」を作り出そうとしているのであって、それが「時間」の根源であるとされる。故に時計的時間は和辻にとって新しい「間柄」を作ろうとしている主体的時間の抽象概念に過ぎない。

 和辻においては「間柄」の問題が常に「全体性」へシフトしていく傾向があるが、それはまた人間存在の根底に「絶対否定性」という否定とは名ばかりの根源的存在を認めてしまっていたからなのだろうか。それとも単なる時局迎合か。が essa 氏の論調はその根底的な「絶対否定性」も認めていないように思われる。

そして、一律に大量生産される「立場」というものは消滅しつつあるが、社会の中で多くの知らない人と知らない人とが遭遇する以上、「立場」「役割」というバッファーはどうしても必要だ。

ただし、その複雑さ順列組合せが幾何級数的に増大しているので、「立場」は多品種少量生産されなくてはならない。ひとつひとつの「立場」が独特で世界で唯一のものに成りつつある。ほとんどBTOの世界だ。標準的なパーツは潤沢に供給されるが、製品の見本はどこにもない。自分の「立場」は自分が独自に組みあげなくてはならない。圏外からのひとこと 「立場」のBTO、あるいは1億2千万人の人間宣言

 essa 氏が和辻を意識しているのかどうかは分からない。しかし見事に和辻の哲学を和辻が導いて行った方向と反転させることに成功している。それは個人の主体的な歩みのみならず、和辻に於いては「間柄」の具体的な姿を人倫的組織と見なして「家族」→「親族」→「地縁共同体」→「経済組織」→「文化共同体」へと「間柄」はより開かれた「全体」へと広がって行く。最高の人倫組織が「国家」と見なされ「国家」において人間存在の「歴史性」と「風土性」があらわになり、「国家」に於いての時間の体系的統一が「歴史」であり、空間的統一が「風土」であると言う。これが日本の場合天皇制に基づく「歴史」的伝統とモンスーン的「風土」が日本という国家の統一性を形成するとされたが essa 氏はその天皇すらも新しい「間柄」の創造のために主体的に活動するパイオニアと位置づけている。

そういう人生がどれだけ大変なことなのか、ようやく我々庶民も少しづつ気がつかざるを得ない状況になっているのだ。我々が持つ、あの人たちへの尊敬と関心の中には、パイオニアであり続ける宿命みたいなものへの敬意も少しは含まれているような気がする。

我々もあの人のように、自分の立場を解体して「人間宣言」をすべき時期に来ているのである。「人間宣言」をした上で、新しい状況の中で再び自分の「立場」を組み立てるのだ。圏外からのひとこと 「立場」のBTO、あるいは1億2千万人の人間宣言

 essa 氏が「立場」と呼んでいるものは和辻の「間柄」の主体的側面に他ならない。「立場」と「立場」の対立と止揚による共同体の頂点として天皇を頂く全体のフレームワークの基盤は和辻と同じ地平に在りながら、「新しい状況の中で再び自分の「立場」を組み立てる」ことに依って否定の運動の主導権が「全体性」よりも常に「個人」の側に置かれている。essa 氏の BTO は「他者の自我の存在」を西洋近代哲学の個人主義的人間観の批判から出発した和辻を再び蘇らせるのかも知れない。