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高齢者体験 即今、此処、自己では出来ない体験

即今、此処、自己しか問題にしない禅を考える

 電車に乗っていたら「高齢者体験中」というプラカードを表示しているその鉄道会社の方がいた。同じ駅でおりて杖をついて階段を下りていった。目には視野を狭くして見えに難くするような眼鏡をかけて、足腰の動作を鈍くする重りのついたベスト、握力を弱める手袋などを身につけて高齢者の疑似体験をしているらしい。鉄道会社の職員の方がそういうことをすることは良いことだと思うし、くまも機会があればやってみたいと思った。高齢者の方の不自由さを体験するとはどんなだろう。視界が狭いと言うこと。膝や腕が曲がり難く一挙手一投足に時間がかかると言うこと。若い日のことに思いを馳せて反芻してみればなんとももどかしく感じられるのだろうか。

 若いときには当たり前のように出来たことが出来なくなる。高齢者にはまだ日があるくまにとっては想像することしか出来ないが、このような高齢者体験をしてみれば、より明確に「ことば」で想像出来るに違いない。そして現在の自分と比較検討してみれば歳をとることの辛さや不自由さが、未来を正確に予測するように想像出来ることだろう。そうすれば則今の自分がもっと具体的にお年寄りに優しくなれるのではなかろうか。

 そんなことを考えながら「高齢者体験中」の鉄道員さんを眺めていたが、ふっと禅では即今、此処、自己しか問題にしないということを思い出した。自分もかつてそうだったが、禅宗のお坊さんや禅学者は信者さんの前や座禅会などで「禅では即今、此処、自己しか問題にしない」と良く説教をたれる。その反面、高齢者や障害者への思いやりを説くときは「仏教では自分が一番愛しい。人はこの世で自分が一番愛しいこと自覚するから他人にもそのまま優しくなれるし、他人を大切に出来る。むしろ他人も大切にせずにおれなくなる。それを慈悲というのです。」とそういう話の時には主語が禅ではなく仏教に変わる。

自己を護る人は他の自己をも護る。それ故に自己を護れかし。しからば彼は常に損ぜらるることなく、賢者である。Anguttara-Nikaya 増支部 中村元訳より

 ひょっとすると本覚思想が仏教ではないと批判される前から禅者はこころのどこかに禅と仏教の矛盾を抱き続けていたのかもしれない。則今だけしか問題にしないのであれば、過去を振り返り、自分の誤りを正して、「ことば」で自分が変わっていくことも出来ないし、高齢者体験をして、その体験を振り返り、「ことば」で未来を想像しながら、より、高齢者を思うことは出来ようはずもない。しかし真摯に仏教徒たらんとしている禅宗のお坊さんだって、前述のように想像を働かせるからこそ、高齢者を思いやれるし、優しくなれる。「ムー、ムー」と切り込んでいって湧いてくる妄念を捨てながら宇宙と一つになるような格儀仏教の心の拡大と、自己の体験を「ことば」で振り返り、より良い未来を想像していくことは同時には絶対不可能なことなのだ。

 ならば釈尊の説かれた仏教とはどうであったか。心と身体と意識を整え、自らの危機的な時間としての縁起を過去を振り返りながら逆順的に観察し、縁起の法が無我、無常であることを知り、自らの無知を知って、正しい「ことば」で考え、正しい「思惟」をし、正しい「選択(正しい行)」をして行くことではなかったか。そして聖者は常にその道を歩む。それは即今、此処、自己ではないのだ。過去、現在、未来の三世が釈尊の教えには歴然と存在する。そうでなければ高齢者の辛さも不自由さも想像すら出来ない。だからこそ慈悲も出る。平和も願う。そこに「ムー、ムー」が入り込む余地は無い。やっぱり禅は仏教ではなかったのだ。本覚思想や如来蔵思想まで持ちださなくとも、こんな簡単な日常の働きの中に禅僧自ら「禅は仏教ではない」と語っていたのでした。「高齢者体験中」の鉄道員さんを眺めてこんなことを思いました。


Part1 PartII に寄せられたコメント

けいさんけいさん 2004/11/29 21:51

あれれ?横線ーつきまくってますよ。

それはともかく、だいぶわかってきた感じです。

19世紀以後の欧米思想は、人間の可能性の限りなき拡大に基礎を

置いていた。J・S・ミルにしてもマルクスにしても。

しかし、20世紀に人間の可能性が拡大すると、今度はその限界が

意識されてきた。

生産の拡大は大量廃棄物を生み

寿命の拡大は延命問題を生み

人口増加は食料問題や資源問題、民族問題を生んだ。

人間は自分で枠をはめなければならないこと、あるいは危機を

認識してきているのではないか。

世界で起こっている宗教回帰、伝統回帰もこういう側面ではないか?

科学においては「グリーンサイエンス」が注目されているが、

これは廃棄物をつくらないために、人間にとっての効率的な生産方法

を転換するという考えかたに基づいている。

このような思想=パラダイム変換が必要なのではないか?

デリダの「メシアニズムなきメシア的なもの」は、最終的決着を自ら

放棄するということで、可能なものの極限を考え続け、求め続けること。

釈尊の欲望を制御しながら歩んで行くことに近づいているのではない

だろうか?