KumarinX Kaneko Ryogen Jean Michel Kaneko Photography MacOSX

神の死、信仰の解体と脱構築、あるいは36億人の人間宣言

神の死

 メリークリスマス!「ホー、ホー、ホー」とサンタの笑い声が聞こえてくるような。クリスマスに因んで今日はキリスト教の話をしてみよう。僕たちが哲学や宗教に向かおうとするときニーチェから始まった「神の死(*1)」は現代の精神状況を示すシンボリックな言葉としてそれはいつも僕たちの前に立ちはだかる(*2)。だけど「神の死」をキリスト教の伝統の「無限者を有限者は認識できない」という論理で反論してしまったら論理としては成立するもののそのまま原理主義を成立させてしまうことになりはしないだろうか。絶対的な無限の他者である神がドンと居座っていれば他者論が展開のしようもないけれど、現実的に西欧世界で他者論が展開されたのは「神の死」という状況が生み出した(*3)ものだ。そこにデリタが出てきて無限である絶対他者を偶像化することを批判したからといって、「メシアなきメシアニズム」は重層に複雑化された絶対他者である神を捨象してより本質的な「神」を抉り出し、炙り出して「メシアニズム」そのものからの脱却は出来るのだろうか?ということでラフではあるけれど「神の死」について思うことをつらつら論じてみたい。

 もし造り主としての「神」が否定されるということを乗り越えても「神」存在していると主張するならばそれは現象学的に見えることの法則性を認めてそれを「神」の意志と見なし、故に僕たちに災難をもたらす自然現象や事故を「神」の怒りと見る極めて土着的なアニミズムに回帰せざるを得ない。例えばそれは大乗仏教の「本覚思想」に見られるように「山河草木悉有仏性」や「無情説法」の如く、春咲く花も夏のホトトギスも、秋の紅葉も、冬の雪も、そのまま仏陀の法を説いているということと共通性を持つ。これはまたカントの言うような『たんなる理性の限界内の宗教(*4)』ということにもなるのかも知れないが、そこに神や仏の存在を「私」が感じることが出来ても、信じるということまで、その感じることを積み重ねて「確信」することが出来るまでになるのだろうか。

宗教を最初の起源や内的可能性によって区別せず(この区分では自然宗教と啓示的宗教に分けられるが)、宗教をして外部への伝達ができるようにしている性質よって区分するならば、二種類の宗教がありうる。すなわち(現存在さえすれば)誰もが理性により確信できる自然的宗教か、あるいは学識を用いてのみ他人を確信させうる学識的宗教か(他人は学識のうちで学識をとおして導かれなくてはならない)、そのどちらかである。?-この区別はきわめて重要である。普遍的な人間宗教としての適・不適については、宗教の起源だけに基づいたのでは何一つ推論できないのに、普遍的に伝達できるかどうかという性質にもとづけば推論はできるし、外部への伝達ができるようになっているという性質は、いかなる人間をも拘束するはずの宗教の本質的特色をなすのである。

[??:title=カント『たんなる理性の限界内の宗教』より]

信仰の解体

 「神の死」を迎えてしまったキリスト教がカントの言う前者なら仏教は後者であると思う。釈尊が説いたのは「神」を信仰することではなく四苦八苦の人生は「苦」であるということ。そしてその要因とされる「縁起」「無常」そこから論理的に成立する「無我」と「空」であるとされる。そこで信仰は何に対して持つものかということを考えるとき仏教では釈尊の教えとその人格的表現である釈尊そのひとということになる。幸いなのか当然なのかは此処ではひとまず置くとしても、仏教ではこの世界の造り主、全知全能の神を否定した。当時のヒンドゥー教の神々や儀式、時間や空間を超えてその根底に超越的に霊的に存在するとされたアートマンを仏教は否定してしまった。しばしばカントの純粋理性の弁証論と比べられるように、人間の悟性を超え、現象的経験の範囲では肯定も否定も不可能な事象、すなわち形而上学的な原理を否定した。しかし仏教自らが形而上学的原理の否定というかたちで釈尊の説いた「苦」「縁起」「無常」「無我」と関わるとき「苦」と「縁起」「無常」はまったく普遍的に自明のものとされるし、ちょっと振り返れば誰でも基本的に依存は無いはずだ、が「無我」はそれほど単純ではない。「無我」は誰でもが簡単に頷けるほど自明に僕たちの経験には現れない。故に「無我」とそれにまつわる存在論を言語と記号あるいは表象の問題に還元する「空」の論証は後の仏教哲学者の大きな課題になって紆余曲折し、そこに複雑で晦渋な「インド哲学」が生まれた(*5)が、それは既に大衆を引きつけるだけの力を持ち得なかった。その反省から大乗仏教が運動として興るが仏教が宗教として存続するためにヒンドゥーアートマンと手を組み、時間や空間を超えてその根底に超越的に霊的に存在する「真理」「仏性」を認め、神話的表現で永遠の仏陀を説く大乗経典が成立した。大乗経典には様々なグループがあり、功罪があるがここではそれを問題にはしない。少なくとも仏教がカントの言う前者、『誰もが理性により確信できる自然的宗教』へと展開する先鞭をつけることになったことだけを挙げるに留めよう。しかし「神の死」は明治以降、近代ヨーロッパの風(*6)と共に再び僕たちを仏教の原点に立ち戻らせる契機となった。

 仏教はこの世界がいつからあるとか、誰が造ったとかいうことを問題にしない。この世界は無常であり、すべては縁起によって成立しているからそれ自身自性のあるものは無く、故に無我である。縁起とは時間軸に於ける他者との依存関係そのものだ。僕たち自身も縁起によってこの世に生まれ、縁起によって自意識が形成される。故に僕たち自身も無常であり無我である。そこに自意識を持ち込み、自意識で物事を判断するから人生は苦であると認識されるのだ。自らの無知を知るということはこの縁起によって生起する無常で無我の世界へ、そのまま自分を放り出すことだ。自分自身のの喜びも悲しみも縁起によって生じ、縁起によって滅する。それはまた僕たちが歩み続ける純粋持続の時間軸の上で展開されていく。僕たちが自分自身の純粋持続を逆順に観察すれば他者の大いなる力と、その他者との網の目のような関係に基づいて今の自己が形成されてきたきたことが解るだろう。そう観察したとき、僕たちの喜びはより大きくなり、悲しみはより深くなる。そして、そう他人を観察したとき自ずから他者を尊重する慈悲が生まれる。自己の苦しみを他者へ投影して想像力を働かせてみれば、自己は既に他者に於いても自己を持つ。故に他者を尊重し、また批判せずにはいられなくなるし、他者の自己への批判も真摯に耳を傾けざるを得なくなるんだよね。そうして自分自身が変わっていくと同時に他者も変えてさせていただくお手伝いも出来るのだと思う。「禅」で言う「般若(プラジャーニャ=智恵)の自発発展(*7)」とはまさにそのことを指す。どんなに孤独な人生を送ろうが他者が全く不在な人生などないじゃないか。

信仰の脱構築、あるいは人間宣言

 こういう教えを説いた釈尊を信じることが仏教の信仰なんだと思う。だから信じられるのは釈尊(仏)と僕に釈尊の教え(法)を伝えてくれた人たち(僧=サンガ=仲間)ということになる。仏法僧の三宝とはこういう事だ。『「ことば」を発明し、「ことば」でものを考えるようになり知性で立ち上がった人間にとって、信じるには明確さが必要だ。』と袴谷憲昭教授が『本覚思想批判(*8)』で述べられたように少なくとも実在論的には僕にはなんだかよく分からない「ことば」で論ずることの出来ない言語表現され得ない崇高なものを信じるなんてことは出来ない。デリタが言うように「神の死」が『信仰一般に打撃を与えるはずもないし、打撃を与えることはできない』なんてことは本当に西欧社会ではそうなのだろうか?信仰に打撃を与えたからこそ、西欧で新しい思想が生まれたのではないか?『無限者を有限者は認識できない』で片づけるほど、この世界の造り主である神は近代的な自然科学の前に全知全能でいられたのだろうか。不在になった「神」の遺言が、自然科学に対するアンチテーゼとして一人歩きを始めていないか。自然科学の発達に対する揺り戻しが原理主義なのではないか。「神の死」の前に無力にも大乗仏教は解体した。残ったのは儀式、典礼かたちだけ?いまある宗派も教団もその残骸であるかに見える。その揺り戻しが新興宗教となって興り、人々を恐怖に陥れた。その前に僕たち仏教者は徹底的に無力だった。オームや法の華創価学会(オームよりはずっとまともですが)などの教学を取り出して批判してみたところでどれほど生産的なことがあるだろう。仏教教団は徹底的に自己批判をし、曖昧な信仰を解体して、自ら再び「ことば」で立ち上がらなくてはならない。それは仏教の人間宣言とも言えると思う。

 そして僕にはヨーロッパもアメリカも「神の死」があって信仰が解体しているように見える。ヨーロッパ人だってアメリカ人だって「ことば」で論ずることの出来ない崇高なものを信じるなんてことは出来ないと思うのだけれどもそれは僕の誤解だろうか。僕はキリスト教のことはよく解らないけれども、仏教の「般若(プラジャーニャ=智恵)の自発発展」をアガベーとして再構築することは教学的に許されないのだろうか?というのもかつて八木誠一博士が「神」が私の傍らにいるということは「禅」の「般若(プラジャーニャ=智恵)の自発発展」に極めて近いことだと述べられた(*9)ことがあったからである。イエスが人類の罪を一人ですべて背負って十字架に架けられたから、なにをしても良いわけではない。神が「愛」そのものならば、網の目のような他者との関係の時間軸に自らを丸ごと投げ出してみるのはどうだろう。それがそのまま「神」のはたらきではないだろうか。其処には立てるべき「神」は存在せず、しかし信仰者は「神」に包まれることになる。それは「神」そのままの人間宣言だ。

*1) このテキストの原文は「ネット新聞JANJAN用Wiki 哲学・宗教の議論板」に kei さん、荏原仲延さんへの「神の死」についてのコメントとして掲載されたものを本サイトの単独記事用として加筆・修正したものです。

*2) 「神の死」についてはキリスト教内でも批判されている。「神の死」神学を批判し続けた神学者の野呂芳男氏によれば『シカゴ大学のラングドン・B・ギルキー(Langdon B. Gilkey)教授の言うことによってよく示されているように思う。ギルキー教授によると、「神の死の神学」は二十世紀のアメリカをそれ迄支配してきた近代性、つまり、科学・技術・工業・資本主義、及び、政治的民主主義への信頼に根差した文化を基礎としていたし、それについては疑いをもっていなかった。ところが、六十年代の若者たちの政治的動揺や七十年代の宗教への高まり行く関心は、この近代性が崩潰しつつあることの兆候なのである(3)。その基礎が誤っていた、とギルキー教授によって批判されている神学、そして、私自身も同じような批判をもち続けてきたこの死んだ神学について、前になしたと同じような仕方で紹介しようとの意欲が私から失せたとしても容赦して貰えるであろう。』野呂茂雄「神の死」と神 より

*3) 末木文美士「他者への隘路」『白』10 1996 『解体する言葉と世界―仏教からの挑戦』出版:岩波書店 (ASIN/ISBN:4000028294) 1998-10 に収録

*4) カント全集〈10〉『カント全集〈10〉たんなる理性の限界内の宗教』出版:岩波書店 (ASIN/ISBN:4000923501) 10 巻 2000-02

*5) 末木文美士「仏教、言語、そして文学」岩波講座『日本文学と仏教』九、岩波書店 1995 『解体する言葉と世界―仏教からの挑戦』出版:岩波書店 (ASIN/ISBN:4000028294) 1998-10 に収録

*6) 近代的仏教学は、明治になって南条文雄、高楠順次郎などといったヨーロッパに留学して近代的インド学を学んだ人たちによって我が国にもたらされた。最近再び注目され 2002 年 9 月に明治期のものとして、うしお書店から『南条文雄著作選集』が刊行されている。仏教学の定義については北海道大学の石川明人氏の説明が極めて簡潔で的を得ていると思うので参照されたい。『仏教学とはhttp://hb6.seikyou.ne.jp/home/iakito/shuukyouintetsu.html

*7) 特に「禅」では時間的にはあくまで自己の問題が先でありながら実存的には他者との問題も同時であるように禅者の純粋持続には記憶される。その瞬間が「自他不二」の神秘的、霊性的体験であると言えるが、それが因果=縁起無視、すなわち時間軸から一足飛びに飛び出した空間的境涯に陥り、権威主義的な態度と言葉を振りかざすことなきよう禅者は十分に注意を払わねばならない。そのことがまた道元による「禅」は撥無因果の立場に立つので仏教ではないとの批判につながった。道元禅宗批判については、袴谷憲昭『道元と仏教―十二巻本『正法眼蔵』の道元』出版:大蔵出版 (ASIN/ISBN:480430522X) 1992-01

*8) 袴谷憲昭『本覚思想批判』出版:大蔵出版 (ASIN/ISBN:4804305173) 1990-01

*9) 八木誠一・秋月龍みん(王+民)〓@59BC『[asin:ダンマが露わになるとき―仏教とキリスト教の宗教哲学的対話』出版:青土社(ASIN/ISBN:4791751086)1990-10