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禅門の異流 売茶翁高遊外

仏教

考慮し直すべき禅門の異流たち

f:id:KumarinX:20071119105327j:plain高遊外売茶翁図 佐賀県立博物館蔵

 近頃の和の思想ブームにのって「煎茶」「茶道」界隈の人々から取り上げられることが多くなったのが売茶翁高遊外(1675 - 1763)である。多くのお茶のメーカーや問屋、あるいは茶人のサイトでの取り上げ方を要約すれば『煎茶を普及させた第一人者としてあげられるのは売茶翁の愛称で親しまれた柴山元昭である。大きな籠の中に、茶を煎じる道具を入れ、自分一人でそれを背負い、山林の風情に富んだところ、水や石の清らかなところで茶を煎じ、そこを訪れる人たちに飲ませていた。身分の貴い人や賎しい人の差別をせず、また代金を払おうと払うまいと気にかけず、いろいろな世の中の出来事などを、のどかに語って聞かせるので、みんなはこの翁に慣れ親しむようになった。流儀にとらわれない自由な煎茶道の精神、方向を示した事で、この道の祖と仰がれ尊敬、敬愛を受け、あっという間に文人や芸術家の間に広まった。』などとその生涯が描かれている。しかし僕たちは売茶翁がまた売茶という風顛(風狂)な行為と残された詩偈によって完っき円の和の思想を根底においた日本、中国の仏教の批判者たろうとしていたことも見落としてはならないと思うのだ(*1)。

 徳川家康の命によって仏教組織を国家の行政機関に再編成したのは「黒衣の宰相」「徳川の知恵袋」と言われた臨済宗南禅寺の金地院崇伝(1569 - 1633)と天台の比叡山大僧正天海(1536 - 1643)であるが、そもそも非仏教的な基体思想 dhaatu - vaada (*2)を根底思想に置く広義な意味での「本覚思想」であった日本仏教が時の権力と手を組むのは朝飯前のことであり、その集大成として1671年に制度化された寺檀制度によって徳川幕府の行政機関に組み込まれると共に、飴としてはお布施という安定した収入源が与えられて安逸な方向に走った仏教界の中にあって明僧隠元(1592-1673)の渡来に誘発されて江戸の中期から後期にかけて既存の仏教のあり方に異を唱えた盤珪永琢(1622 - 1693)、白隠慧鶴(1685 - 1798)、本居宣長(1730 - 1801 *3)も、風狂の人として故郷に遊んだ良寛(1758 - 1831)も、その師から受け継いだ法、すなわち縁起のなかに生きることによって、非仏教的な dhaatu - vaada を明確に意識していたとは当然言えないものの、その非仏教的な論理矛盾に陥ること自ら戒め、ゆえにおかしさをどこかに感じることとその程度は各人各様であれ、ともに既存仏教への痛烈な批判者でもあったことには注意を払わなくてはならない。故秋月龍みん(王+民)老師はかつて「禅門の異流 一休・正三・盤珪良寛」(筑摩書房 )原版(*4)の前書きで

 ひとたび禅経験を、わがものにしてからのちの、禅者の生き方は、まことに自由で、多彩を極めている。そこにわれわれは、真に文字どおりに"個性的"な人間の生き方を見ることが出来る。

 いまここに、日本の禅の、そうした独創的・個性的な禅者たちを数え上げれば、一休宗純(1394 - 1481)・石平正三(1579 - 1655)・盤珪永琢(1622 - 1693)・大愚良寛(1758 - 1831)らがある。本書はこれらの人々を『禅門の異流』なる一巻にまとめた。

 これら一群の禅者達に通ずるところは、ひたすら自己に忠実に、時の権威を眼中におかず、禅の本流の腐敗・堕落に敢然としてプロテストして(そのプロテストの仕方は各自さまざまではあっても)、独自の道を歩んだ、日本禅の偉流たちであったことである。

(アンダーラインは引用者)

 と述べている。秋月老師は白隠こそ禅の本流であると自他共に認じていたかたであるから、そういう認識はないだろうけれども僕に言わせれば白隠もまた当時の臨済禅へ口をついて罵るようなことは無かったものの静かな批判者でありその実践者であった言えるのではないかと思っている。また時代は遡るものの老師が本流の中に位置づけようとされた道元は本流どころか当時の看話禅の否定者であり、撥無因果の禅は仏教ではあらず仏教は深信因果・縁起に依らなければならないと主張(十二巻本正法眼蔵 *5)し、いわゆる禅宗の批判者であったのである。そして宣長もまた仏教の否定者ではあらず、当時の神仏習合仏教、すなわち本覚思想の批判者であった。宣長はともかく置くとしても、僕は「禅門の偉流」にこそ道元白隠、そして売茶翁高遊外を加えなければならないと思う。さもなければ秋月門下の徒として「いまだ臨済にも会せず、白隠にも会せず。」であろう。

売茶翁高遊外の生涯

 売茶翁高遊外のその人となりは、特に親しかった相国寺第113世大典顕常(1719 - 1801)がその伝記を書き『売茶翁伝』として『売茶翁偈語』の巻頭に付した。百川、若冲等が、翁の肖像画を描いて今に伝えているが、翁の生涯を綴ったほとんど唯一のもので、他の書物の伝記の大部分がこれによっている。大典はじめ黄檗山の華蔵院に入り、臨済に転じて相国寺塔頭の慈雲寺に住し京都禅林の学僧と聞こえまた最高の詩僧と言われた。本稿もご多分に漏れず大典の翁伝から簡単にその生涯を振り返ってみよう。


 翁は、肥前国神崎郡蓮池(現在の佐賀県郊外)で延宝三年五月(1675)に生まれ、父は柴山杢之進(しばやまもくのしん)、母みやといい、名を菊泉(きくせん)といった。父は佐賀藩支城、蓮池城主鍋島直澄に仕える医師であったという。九才で父が亡くなり、11歳か12歳の時、同郷の黄檗宗龍津寺に入って化霖道隆禅師(1634 - 1720)のもとで得度、出家。月海と号し、諱は元昭。化霖は隠元の弟子獨湛性螢(1628 - 1706)の法を嗣いでいるが、元昭13才の時、京に上り獨湛に相見を許されるなど非凡なところがあった。

 元禄9年(1696)22才の時、病魔に犯され、その苦から逃れられず、修行不足を恥じて江戸から東北に向かい仙台の万寿寺に留まること約4年、月耕道念(1628 - 1701)に師事。苦行のち深い知識を身に付け、逍遥の後、近江の瑞松湛堂(1669 - 1701)に律を学んだ。33歳頃(1707)には長崎を旅したとき清人より茶の知識を吸収したようである。その後は龍津寺に帰り、以後化霖の示寂まで忠実に師に随侍した。亭保五年(1720)、四十六歳の時に師を失い境にいた法弟の大潮を呼び戻して寺を継がせようとしたが、大潮が固辞し続けたため、ようやく大潮が寺に戻る亨保五年(1722)まで寺務をこなした。

 その後佐賀にあり、57歳亨保16年(1731)の時、上洛した。61歳頃、東山に通仙亭を構え売茶の業を始めたと思われ、途中郷里(龍津寺)帰ることもあったが以後20年間の長きにおよぶその姿勢は〈茶銭は黄金百鎰半文銭までくれ次第、ただ呑みもも勝手、ただよりはまけ申さず(*6)〉と書きつらねていた。

将謂伝宗振祖風 将に謂(おも)えり 宗を伝えて祖風を振わんと却堪作箇売茶翁 却って箇の売茶の翁と作(な)るに堪えたり

都来栄辱亦何管 都来 栄辱 亦何ぞ管せん

収捨茶銭賑我窮 茶銭を収捨して我窮を賑(すく)う

(禅を伝え、祖師の宗風を振るわせんと思っていたが結局茶店のオヤジになってしまった。名誉も辱も私には関係がない。茶代をかき集めて貧乏暮らしの足しにする。『売茶翁偈語』売茶口占十二首 第一首 *7

 封建の江戸時代佐賀藩のきまりで他国に出ずるものは十年を以て限度とする藩の規則があり、十年を越える者は、帰国して手続きをとる必要があった。その煩わしさを逃れる意もあったのだろう。寛保二年(1742)六十八歳にして還俗し、名を高遊外と改め許可を得て、以後この名を以て揮毫に書き加えたのである。

 売茶翁80歳の時には、画家の高芙蓉(1722‐1784)から印三顆を贈られ、以後没年まで使用することとなった。81歳、この年茶経の陸羽、廬仝の世界を紹介した『梅山種茶譜略』を著たりしたが、体力の限界か長年使いなれた茶具を焼却し売茶の生活を終えて以後、揮毫(偈)の謝礼にて生計を賄った。宝暦十三年(1763)享年89歳にして翁の偈語を親しかった大典等によって集成した『売茶翁偈語』が印刻されたが、そこには痛烈な既製仏教や僧侶への批判が見られるがそれは後述する。日ならずして7月16日ついに代仏の南幻々庵にて入寂した。臨終の時、愛用の寄興鑵を池大雅(1723 - 1776)に贈る。遺言により遺骨は火浄し、川に流したと伝えられる。


 以上が売茶翁高遊外の略伝である。以上のことから分かることは売茶翁の生涯は三十三才までの修業時代、五十七才までの僧侶として寺務を司った時代、そして入寂までの風顛の売茶生活のおおよそ三つのステージに分けられることが知れる。修業時代、僧侶時代は殆ど資料がなく、その異流な独自性は見いだせない。最後のステージになり『売茶翁偈語』に残された詩偈によって売茶生活に入ってからのみに自由な、時に痛烈な時の仏教への批判が見られるのである。次回からはその『売茶翁偈語』から翁の痛烈な既製仏教批判を見ていきたいと思う。

参考文献

 

縁起と空―如来蔵思想批判

縁起と空―如来蔵思想批判

 

 

本覚思想批判

本覚思想批判

 

 

 

 

 

道元と仏教―十二巻本『正法眼蔵』の道元

道元と仏教―十二巻本『正法眼蔵』の道元

 

 

近世新畸人伝 (岩波現代文庫)

近世新畸人伝 (岩波現代文庫)

 

 

*1:文中の画像は 社団法人 日本煎茶道連盟ホームページ から

*2:松本史郎『縁起と空―如来蔵思想批判大蔵出版 ; ISBN: 4804305181 ; 1989/07 なおこの論文を成果として積極的に評価し著されたものには、袴谷憲昭『本覚思想批判大蔵出版 ; ISBN: 4804305173 ; 1990/01、伊藤隆寿『中国仏教の批判的研究』ISBN: 4804305238 ; 1992/05 などがある。時間的には前後してしまうが柳田聖山・梅原猛仏教の思想〈第7巻〉無の探求<中国禅> (1969年)角川書店 ; ISBN: 404510707X ; 7 巻 1969/03 絶版(現在入手出来るのは角川文庫版 角川文庫ソフィア『無の探求「中国禅」―仏教の思想〈7〉 (角川文庫―角川文庫ソフィア)角川書店 ; ISBN: 4041985072 ; 7 巻 1997/02)において柳田聖山氏が老荘の「道」と禅の「空」の本質的相違を禅は正統な仏教であるとの立場から果敢に論証しようと試みておられる。が縁起と無我の立場からは当然ながら論証し得ていないどころか根源的な真理なるものをそれでも無我の立場に立って論証しようとすればするほど曖昧で晦渋になってしまって非論理的な時間軸無視の空間的立場に陥ってしまっているのは松本論文を前提にすれば当然のことである。この点については、以前の拙テキストを改めて手を入れて掲載することを予定しているが、柳田論文に依拠して袴谷・松本説の批判的検討を試みたときに僕の転向があったことを告白しておかなければなるまい。結果を受けた秋月老師は「釈尊その人の思想はそうであったかも知れないが大乗禅は祖師禅だから発展していてあたりまえだ。しかし全別にして全同だ。」と僕には晦渋で難解な一言をポンと投げてよこされた。言葉を解体してまるごと放り投げ、そのまるごと裸のぶつかり合いで一期一会の勝負が決まるのが禅者の力量の差ということになるのだが、そんな「全別にして全同」なら「べー」と舌をだして鬩ぎ合うことも出来るから喝することもない。それにしても老師には作業仮説的な dhaatu - vaada がなんのことかさっぱり解らなかったのかも知れない。そういえば駒大の学部生からの情報によると最近松本氏も「私も dhaatu - vaada であった。」と自省されたらしい。以上は脚注を読まれた方だけへのオフレコとしたい。

*3:周知のことと思うが此処に挙げた人々の中で宣長は「その師から」「法」を「受け継いだ」仏教者であるわけではない。しかし袴谷憲昭教授のご主張(袴谷教授前掲書『本覚思想批判』)によれば、ただ宣長は歴史上は仏教批判者のように扱われているが、宣長が批判したのは両部神道仏教の共通基盤たる本覚思想であったと言わなければならない。というのも宣長はその「ことば」の明確さと論理で主張しており胡散臭くて曖昧ななんだか分からないものを斥けたからである。宣長が槍玉に挙げたのは本覚思想であった。その意味で此処に宣長を加えた。

*4:秋月龍みん(王+民)『禅門の異流―語録<盤珪> 驢鞍橋<正三> 詩集<良寛> 狂雲集<一休> (1967年) (日本の仏教〈第12〉)』復刻版『禅門の異流―盤珪・正三・良寛・一休 (筑摩叢書)』筑摩書房 ; ISBN: 4480013636 ; 1992/02。なお僕の手元にあるのは秋月龍みん(王+民)著作集 第三巻『一休・正三・盤珪良寛 禅門の偉流たち』三一書房 絶版 のほうである。

*5:袴谷憲昭『道元と仏教―十二巻本『正法眼蔵』の道元大蔵出版 ; ISBN: 480430522X ; 1992/01

*6:伴蒿蹊 森銑三 校註『近世新畸人伝 (岩波現代文庫)岩波書店 ; ISBN4003021711; 1940/01 現在は国際日本文化研究センターのデータベースに近世畸人伝(正・続)が収録され売茶翁についての記述を閲覧することが出来る。

*7末木文美士・堀川貴司『江戸漢詩選 五・僧門「独菴玄光・売茶翁・大潮元晧・大典顕常」』岩波書店 ; ISBN: 4000920057 ; 1996/01