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三省堂教科書問題の論争雑考・朝鮮語禁止問題を考える

歴史散策 Blog

朝鮮語の禁止論争に見えるモノ

 JANJAN 三省堂英語教科書の朝鮮記述[訂正]問題」での論争、どうやらそろそろ議論が出尽くした感がある。朝鮮語の禁止が日本の政策としてあったか、なかったか。「あった」派も「なかった」派も様々な資料を持ち出して議論を尽くしたようだが僕たちが考えなければいけないことはこの問題のもつ両義性だと思う。

 この論争を丹念に読み返せば安藤氏や和泉氏が主張するように確かに「大日本帝国の政策としては無かった」ということになる。だからと言って阿部氏が主張するように朝鮮半島の人たちが堂々と日本人の前で朝鮮語を話しにくい雰囲気が当時の朝鮮半島にあったこともまた事実なのだと思う。「大日本帝国の政策としては無かった」という事実を持って朝鮮語の禁止を「捏造」だと決めつける態度はあまりに歴史の両義性を無視する傲慢な態度だと言わなければならない。

 僕は少なくとも当時の現場に於いて日本人の傲慢さによるこうした他文化無視の暴力は日常的に行われていたと考える。そうしたことは石原完爾も随分と批判していることだ。「祖父の世代に冤罪を押しつけたくない」という議論は確かに当時の日本人の価値観や思想を批判するのは不毛であるという点では分からないでもないが、敢えて此処ではその祖父の世代の価値観や思想を批判的に検討することで今日僕たちが抱えている問題の解決の糸口になることもあるのではないだろうか。帝国主義列強の植民地支配時代に少なくとも現地人に対する日本の政策が欧州列強とは違い自国の文化を強要する風潮にあったのは確かではないか。朝鮮半島はいわゆる帝国主義の植民地ではないとする主張もあるが江戸時代には明らかに独自の行政下にあり、違う文化を育んだ地域(たとえ近代的国家としての体を為していなかったにせよ)を日本の近代化とともに対ロシア政策の都合で併合したのは事実である。後の台湾や満州を含めて万世一系の天皇を頂点とする道徳を強要し日本語の普及を半ば強制的に推し進めようとしたことは、ラオスカンボジアベトナムでのフランス、インドでの英国、フィリピンでのスペインなどと比較しても明らかに異質であり、他文化無視の選民思想に近いモノを感じざるを得ない。

 ならばそうした思想が日本人の中にどうして形成されていったかを考えるのも無益なことではなかろうと思う。東京大学末木文美士博士は日本人の近代的「個」の確立は日清・日露戦争の狭間の10年間の間に西欧から近代思想とポスト近代思想の双方が移入され、明治の絶対的真理との合一というかたちで清沢満之高山樗牛らによってなされた一元論は、無限的絶対者と有限的自己との対立と言うかたちで鈴木大拙西田幾多郎などの大正の二元論に発展し、そのまま和辻哲朗等の昭和の全体主義へと移行していったと指摘してる。つまりその間に、ヘーゲルのように膨大な自我の体系を構築することもなく、従って有限的自己と有限的他者のとの関係が十分に検討されることはなかったと。(*1)そして清沢、高山はともかく、鈴木、西田ですら楽観的に全体主義へ収斂されてしまう傾向があることを同じアジアの植民地への振る舞いの要素の一つとして着目しているのは卓見であると思う。末木博士は踏み込んでいないが、ぼくは其処の根底にも基体としての真理とそれと自己との合一という本覚思想が見えてくるのだ。

 そうした日本的「古層」としての本覚思想が兵士として出征した一般的日本人の中に自己と他者との関係の構築と言う点において全く意識されることなく無意識に骨の随まで染みこんではいなかっただろうか。更に浄土真宗の島地黙雷らの批判によって万世一系の天皇を頂点とする国家神道が宗教であり得なくなり、教育勅語によって道徳として独立せしめざるを得なかった帝国政府が、それが道徳であるが故に信仰の自由は保障されていると思い上がったまま日本に併合した異文化地域へその土着宗教を下に組み込みつつ強要していったことも見逃せない。それはまた現場で指揮をする日本人にとっては、自分たちが日本という国家に於いて生活しているのと同様にまったく当然のように宗教の上に位置する道徳、規範として現地の人々を管理する暴力的システムとして機能したのである。

 先日、日本の朝鮮への戦後賠償は既に終了していることを示す韓国との条約が存在したと報道されたが、だからといってこれらの問題が放置されて良いわけではない。すくなくとも多くの知識人もジャーナリズムも未だ他者や他文化との関係の構築について十分な検討を経て議論が尽くされているとは思えない。終戦を契機に僕たち日本人の思想が一挙に変化したわけではない。歴史は連綿と連続している。今回の JANJAN のこの議論の朝鮮語の禁止が「あった」派も「なかった」派にも欠如しているのは歴史の連続性とその両義性を認めて受け入れて批判的に検討していく姿勢だと思う。彼らもまた本覚思想をその根底にもっていると思えてならなかった。政治的スローガンやテキストとしての歴史の解釈よりも自己の根底にある無意識を批判的に検討しなければならない。

明治思想家論 (近代日本の思想・再考)

明治思想家論 (近代日本の思想・再考)

*1:末木 文美士『明治思想家論 近代日本の思想・再考』ASIN/ISBN:490151024X トランスビュー