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くまくま方丈記

気まぐれ Air"H と山と温泉

f:id:lovelovebear:20080106145729g:imagef:id:lovelovebear:20080829234735g:image:right東京からちょっと離れた温泉地に来ている。こちらで昼間はちょちょっとした仕事が続くのだが、このチャンスに都会の喧噪を離れた処にいろいろな方の論文や本を持ち込み勉強しながら思索を深め、気分転換にのんびりブログの投稿だけはしようと思っていたらおおいに思惑とは外れる現実に直面した。都会生活に慣れきってしまうとこんなことにすら想像力が働かないことに情けなくなった。滞在型のホテル式コンドミニアムにはネット接続のインフラが付帯していないことは分かっていた。が、フロントの近くまで行かないと携帯電話が通じないのは元々の思惑通りで良いのだが、頼みの Air"H がまた気まぐれなのだ。PHS の電波は天候や風の強さに影響されるなんてことはあるのだろうかというくらい通信の確立が気まぐれなのである。

f:id:lovelovebear:20080106145726g:imageネットへの接続生の悪さには閉口するが生活は極めて快適である。朝の山道の散策は清々しいし、風呂は24時間入り放題。朝食のクロワッサンとハムが旨い。先頃一斉に桜が咲いたと思ったが月初めの雨で無惨にもあっというまに散り果てた。しかし今度は斜面一面若々しい緑で、その中を少しだけ肌色で嘗めるように色づける葉桜がいかにも暖かくなった春を印象づけてくれる。まさしく無常迅速の風情である。なるほど無常説法とはよく言ったものだ。平安や中世の人はこの様を見て切なく哀愁の想いを抱いたのだろうか。山河草木悉有仏性は仏陀への憧れと強烈な安心への訴求だったのか。

f:id:lovelovebear:20080106145724g:image常に動的に宙ぶらりんのまま自己の縁起だけを見つめいて行けるほど人は強いものだろうか?古人たちにはその仏陀の教えを行ずる人として保護してくれる絶対他者としての「神」が必要だったように思う。その裏返しが法華経の久遠実成の釈尊や西方の阿弥陀仏ではなかったか。如来蔵思想や本覚思想が仏教ではないなんてこの時代の先人達にはとてもではないが僕は言えないだろうと思う。しかし釈尊はそんなことは認めなかったのだ。だとすれば我々は一人細々と不安定で宙ぶらりんな人生を送りながら「神」を待つしかない。古人たちが久遠実成の釈尊や西方の阿弥陀仏をすがるよう信仰したように仏教学が僕にとっての「神」ではないのか。仏教学にのめり込むことで安心を得るならば僕もまた如来蔵思想そのものではないか、とちょっと自分を疑ってみる。すわっ、大疑団現前かと雖も坐禅で見性したくらいで仏になんぞなれるものでもなく、大事了畢は旦那芸ではないぞ。

f:id:lovelovebear:20080106145834g:imageこちらで生活しだしたのが3月の24日でその後叔父の逝去にともなって一週間ばかり東京へ帰ったが、今は週一のペースで東京に出かけるという感じである。最初 Air"H は問題なく継ながっていた。それが今思えば今月初めの春の嵐のような一日のあとこういう状態になったのだ。山のどこかでアンテナが吹っ飛んだのだろうか。先に二月分の料金を払って契約してしまているのだから今更宿を変えるわけにも行かない。いろいろ考えたが此処での生活の趣旨は研究を進めることであってブログではないので電波の気まぐれに任せて更新していくことにした。それもまた風流なことよ。そんなわけで戴いたコメントへのレスポンスが悪いのをお許しいただきたい(笑)。くまの方丈記でした。