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What is on mind,now? 田口汎氏のブログ

仏教 Blog

安住るりさんのご主人という色眼鏡をはずさなければいけない

 JANJAN 記者の安住るりさんのご主人、田口汎氏がブログを始められた。以前 kei さんから質問 があって「 田口汎さんって共産党なんでしょ?」と聞かれてちょっと揶揄するような応え方をしてしまった。「マンダラ・パワー 仏教究極の教え」などという著作ではなしにそのブログを目の当たりに拝見させていただいて、その時の失礼をまずお詫びしなくてはならないと思った。安住るりさんのご主人という色眼鏡を持って田口氏を見てしまった浅はかさを深く恥じるとともにここに謹んでお詫び致します。それくいらい安住るりさんのパワーは大きかったのかと思うのだが安住さんとてこうしてネットでのテキストでの会話だけではなしに実際にお会いしてお話ししていたら仲良くなれるような気もしないでもない。ああした強烈な思想の方はテキストだけでの会話ではなかなかその人格までは見えてこないと考えるからだ。だからといってその思想までに共感するものではないが、池田大作氏を批判するジャーナリストが会ってみれば池田氏のファンになってしまうという話もまんざらではないように思えた。

 田口氏のテキストからは共産党だとか唯物論者だという臭いは感じられない。論理的で極めて冷静、そして議論は中道を行くものである。勿論、氏による逗子の市政批判についても奥方の長島逗子市長への jANJAN での批判記事『学歴底上げ術講座』のようなこえださん曰く の「憎悪に満ちた」た感情など微塵もない。以前こえださんが僕宛にくださったメールの中で『やった人間でなければ分からない途方もないお金が出て、労力がつぎ込まれ、勝っても負けても人を変える力を持つのが「選挙」だと思っています。私には自分の経験に照らし合せて考えてみても、この田口るり氏の怨嗟は理解が出来ます。』と安住さんのこの記事を評しておられたのだけれども、このようにこれが尊敬する夫への妻の愛だと考えれば、善し悪しは別として僕としては納得がいってしまうほど田口氏のテキスト素晴らしい。かつて丸山真男が『丸山真男講義録 第4冊 東京大学出版会 ISBN 4-13-034204-5 - 第5章 鎌倉仏教における宗教行動の変革』において親鸞を取り上げ『人間行動のあらゆる領域にわたって信仰の原理が浸透するのでなければ、彼(親鸞 引用者挿入)は一つの人格として信仰をもっているとは言えないはずである。したがって、宗教は政治や道徳と次元を異にするにもかかわらず、宗教行動は政治的秩序や倫理的秩序と交差し、そこに宗教の立場からする政治や社会の批判が不可避となる。』と論じ徹底的に内面の問題に立ち向う『非政治的な態度』が最終的に権力と世俗道徳からの自立という形で『政治に関係づけられる』と親鸞の信仰とそれに連なる一向一揆を力をこめて論じたが僕は田口氏のテキストが政治・権力批判に連なるのは丸山の指摘するような極めて仏教的な信仰から来るものではないかと思った。

 勿論、僕が主張しているように仏教とは釈迦の教えであり分別的な智と言葉による当時の宇宙との合一を目指すバラモン教的な一般的なインド哲学批判であると規定するならば田口氏の仏教は少し異にして本覚思想をも含む大乗仏教的な要素もあるのかもしない。しかしその問題は今後展開されるであろう田口氏の論理の展開を拝見させて頂いてから論じてみたい。田口氏と同じく中村元博士門下、國學院大學宮元啓一博士は『ブッダ─伝統的釈迦像の虚構と真実 宮元啓一、光文社文庫 ; ISBN: 4334726704』を始めとする最近の一連の著作・論文で『釈迦の教えは第一義的には厭世を促す教えである。仏教の最終の目的は、そして釈迦その人が到達したところは、生存欲を断つこと(=生のニヒリズム)である。そこに到達すればこの世に生きることに何の意味も見いださず、何の価値判断を下すこともない。』と釈尊への憧憬による研究の結果をこう論じている。永井俊哉博士の『ガウタマ』の思想は『自発的去勢』であるが人生の送り方の真理の候補の一つであるという主張に通じるものがあるが、宮元博士のように『悟り』は直感的体験に基づくものであり、 むしろ仏教の肝要は十二支縁起を逆順に観察し理解する経験的な分別智よるものであるとなってくると、そこには所謂信仰は認められず、松本史郎氏の『危機的な宗教的時間としての縁起』(縁起と空 如来蔵思想批判 大蔵出版 ; ISBN: 4804305181)すら解体してしまう。そこまで突き進む原始仏教の研究の成果は再び僕たちを救済の宗教である大乗仏教へ向かわせることにもなろう。そんな訳で田口氏の仏教を少し見つめていたい気持ちなった。

 特にこのブログでは出版社の都合で没になった『仏像の誕生』【ガンダーラかマトゥラーか】という記事が連載されだしている。仏像の誕生は定説のガンダーラではなくマガタのマトゥラーであるという新説とともに仏教美術の専門家としての氏の既存の学説へのアンチテーゼと疑問が投げかけられるがまだ始まったばかりで今後の展開に期待したい。仏教における仏像の誕生は信仰対象としての無限的絶対者である仏の誕生を意味し、それはまた普遍的な救済宗教としての大乗仏教の成立とも大いに関連がある。ルカ伝やマルコ伝に伝えられる「寡婦の両線物語」を想起させる「高僧法顕伝」に見られるクシャーナ王(月氏王)が奪い去ろうとしたプルシャプラの巨大な仏鉢への貧者の布施する僅かな花が満開になって鉢がたちまち一杯になるけれども大金持ちが花で鉢を満たしても鉢は満たされることはないというエピソードはキリスト教と仏教の相互の影響を思わせるがそれもまた大乗仏教の成立には欠かせないテーマでもあり、まさに田口氏が語ろうとしているガンダーラの物語なのだ。これらの点については田口氏の連載の進捗をまってまた考えてみたいが、田口氏の説の新展開を楽しみにしながら学ばせて頂くところは素直に学ばせて頂きたいと思う。また田口氏は葬式仏教を堕落であると口を極めて批判しておられるが、それは僕も含めて葬式を生業とせずに生活が成り立つ僧の特権的論理に堕落しないように気をつけたいものだと思うようになった。

■何が問題か?What is on mind,now?