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日蓮本仏論と二箇相承 日蓮宗富士門流にみる歴史・教義の改変と増広

場違いな日蓮正宗勧誘投稿

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 道元禅宗批判や達磨の二入四行論のご研究されるキリスト者花園大学松岡由香子氏のサイト『山水庵』のBBS「宗教のこと本音で語ろう!」に日蓮正宗のさくらさんというかたから日蓮正宗創価学会のかた典型の投稿がありました。詳細は原文を見て頂くとして要約すれば

「いしつの咎」ということがありますが、心に思っていることが、何も叶わなくなることだそうです。法を聞こうとしなければ、なるそうです。是非、日蓮正宗に入り、御僧侶のお話をお聞きなさいませ。
といういきなりの勧誘から始まって彼らお得意の
釈迦が最後の8年間で説いた法華経の中に「今まで説いてきた事は方便である。これから真実を説く。これまでの教えは捨てて」というような内容があります。釈迦が法華経以外は方便の教えだと言っている以上法華経以前の経典をよりどころにして教義をたてている宗派は間違っていると思いませんか?仮にも「仏教」を名乗っているのですから。
といささか苦笑をも漏らさずにはおけないパターンフレーズで『松岡氏は宗教をおわかりでない』と断言し再びパターンフレーズの『日蓮正宗での折伏は慈悲行でさせて頂いています。勧誘ではありません。』とたたみ掛けます。さらに「日蓮本仏論」と『二箇相承』を自らの正統性の根拠にされてはいくら丁寧に松岡氏が応対されても対話が噛み合うわけはありません。

 いささか大きなお世話だとは思いましたし、このようなかたと議論が噛み合うとも思えませんでしたが、日蓮正宗創価学会に見られる富士門流原理主義への執着はほとんど有害であるといっても良いし、わたしは日蓮仏教を検討するならば日蓮の仏教へのアプローチがその時代に物理的に得られる資料を精査して法華経こそブッダの真実の教えであるという結論に達した方法論をこそ我々は学ぶべきであると考えるので、かつて『創価学会を悪く書くとアンテナ登録が減る』というエントリを書いたときにおちょくるだけではなく仏教としてキチンと批判したテキストを書いてくださいよとのリクエストも頂戴していたことを思い出して、ならばとお節介ではあるかもしれませんが松岡氏への声援をかねて富士門流の教義への仏教からの批判としてコメントを書いてみました。このテキストを日蓮宗日蓮正宗創価学会、そして日蓮正宗創価学会に胡散臭さを感じる全ての方、そして故父の親友であり僕自身もいろいろとお世話になった日蓮宗大本山池上本門寺貫首酒井謙祐日慈猊下に捧げます。なを原テキストでの不明瞭な部分や言い回しは一部修正しました。

松岡由香子氏の掲示板で「さくらさん」というかたに僕が書いたコメント

さくらさんへ

 私としては道元や達磨の二入四行論のご研究成果を拝見し大いに学ばせて頂きまた示唆を頂いている庵主様の掲示板にちょっと場違いな感じがしましたので横レスさせて頂きます。「文証」として引いておられる『身延山付嘱書』ですが極めて偽書の疑いがあるとされているものではありませんか。同書は日蓮が身延で書いたとされる『一期弘法付属書』とセットで『二箇相承』と呼ばれていますが、その『一期弘法付属書』は日付が9月13日になっていて行学日朝の『元祖化導記(1478)』に因れば、日蓮は9月8日に身延を出発したとあり13日に身延山には居ないことになります。『二箇相承』を正統とするために引かれる文書は日頂の『本尊抄得意抄添書(1308)』中の「興上一期弘法の付属をうけ日蓮日興と次第日興は無辺行の再来として末法本門の教主日蓮が本意之法門直受たり、熟脱を捨て下種を取るべき時節なり」の部分ですがこれも「末法本門の教主日蓮」という不自然な記述が見られます。日蓮の真筆とされる多くの遺文では教主は釈尊となっているからです。

 日蓮入滅の時を概観してみれば1282年の9月25日には池上を自ら入滅の地と定め諸方から集まった門下の人々に立正安国論の提唱を行い翌月の10月8日には弟子の日持、日頂、日向、日興、日朗、日昭を集め本弟子六人(六老僧)と定めて自らの滅後の法灯と定めました。テキストは「定」とタイトルを掲げた後「一弟子六人事 不次第」と書かれ先述した順(入門の若い順)で六人の弟子の名が連記され、「右六人本弟子也、仍テ為メ(二)向後ノ(一)所(レ)定ム如ル(レ)件ノ」「弘安五年十月八日」と記されて終わりますが、文頭の「不次第」とは法華経を弘める法器に順序差別はないという意味なのですがこれは日興が書き取ったものです(日興『御遷化記録』)。そして枕元に後の日像・経一丸を呼んで京都布教を委属しました。10月13日には入滅に臨んで大曼荼羅(現妙本寺蔵 創建1260 開山 日朗 鎌倉市大町)を掛けその前に年来随身した釈迦立像を安置して門下の読経のうち夜9寺に淑然と遷化したと日興の『御遷化記録』にあります。もし『身延山付嘱書』がその日に日興に渡されたなら記録に無いのが不自然ですし、先10月8日に六老僧を定め法華経の布教に順序差別はないとした日蓮の考え方からは、そのまえの9月13日に『一期弘法付属書』を日興に託すのも矛盾であると考えるほうが自然です。

 本覚寺(静岡県静岡市池田1379)に所蔵される『御葬送日記』によれば翌日の10月14日、午前8時に納棺され、深夜12時に弟子の日昭・日郎が導師となって葬送が行なわれました。用いられた道具に、先火、大宝華、幡、香、鐘、散華、経、文机、仏、履物、輿の棺、天蓋、太刀、腹巻、馬が記録されています。遺骸は15日、現在の本門寺の山麓で荼毘にふされて16日収骨、遺骨は遺言に従って19日に池上を発ち身延山に向かい23日に到着、26日に納骨されました。このときに形見分けが行われましたが日頂と日向の名が見ず中老僧日位の記録に因れば他行中で不参であったと記されています。当然日興は参加していたことになりますが『二箇相承』が日興の手元にあれば当然身延住持の話が出るでしょうがそういう記録はありません。かつて宮崎英修博士が西山本門寺の霊廟調査に趣いたとき日興の『御遷化記録』の裏打ちがはがれていて継ぎ目に押された花押を確認することが出来て「これらの花押は上から日昭、日朗、日興の順で他行・他行と不参であった日頂と日向のスペースを確保して最後に日持の花押があった。日位の記録には間違いがないよ。」と禅文献、やがては初期仏教に夢中になっていき日蓮教学にちっとも興味すら示さなかったのに大先輩の孫であるからとなんとかご辛抱頂けたと思われる私のような不肖の弟子を呆れずにご指導も頂き優しく語られもしましたが、いまとなって私は「署名の書式と花押は時代によって変化するから文献学には重要なポイントだよ、キミ。」というような宮崎博士の声が学恩となって聞こえてくるようで恥ずかしい限りではあります。

 翌年正月23日は百ヵ日にあたるので諸弟子は身延に詣でて身延山久遠寺守塔月々の輪番を定めました。このときも日頂と日向は不参でした。この輪番調は池上と富士西山本門寺に残されていますが六老僧それぞれ輪番帳を持ち、日興が一筆でこれをしたためたと伝えられています。こうして合議の結果身延山久遠寺は六老僧を中心とする長老たちによって運営されることになりました。そしてその輪番は1283、1284年と定められた長老によって務められましたが鎌倉幕府法華宗への弾圧が大きくなって来るに連れて鎌倉の日朗、日昭などの長老は身延への登山が不可能になりました。さらに駿河の日持や下総の日頂も鎌倉への応援で登山できなかったようです。1284年9月、輪番に当たっている日興が身延に登ってみると廟所は荒れ墓石は鹿の蹄にかかって散々の体だった。大檀越であり地頭の南部実長と日興との間でかわされた書状(日興書状 日蓮宗宗学全書 二巻 145)によって翌1285年にかけて日興は身延山に居住していましたが、自分の弟子だけで日蓮の三回忌をつとめていったん下山、1285年9月の輪番に身延山に登って常住しはじめたのです。『日尊実録(富士宗学要集 九巻 1)』によれば日興の弟子日尊が、1284年5月に卿公日目に連れられて身延山に登った時に日興はおらず、その年10月の日蓮三回忌に初めて日興と会えたというから、最初に日興が身延山に居住したのは、富士門流創価学会に伝えられる「故聖人の御灰骨が身延山に到着した弘安五年(1282)十月末より正応元年(弘安十一、1288)まで六年間常住した」という伝承に反して、日蓮三回忌の直前の1285年9、10月ごろであることになります。もし日興が『身延山付嘱書』で相承されたように自ら自覚し別当職として常住していたならば、日蓮の廟所を鹿の蹄で荒れ果てさせることはなかったでしょうし、荒れるにまかせていたならば常住の任務を怠っていたことにもなりますが、それとて純信一徹で妥協を許さぬ厳格さを持つと言われた日興の態度としては極めて不自然です。このことから推測しうることは日興は『二箇相承』の存在を知らなかったか、あるいは『二箇相承』はもともとなく後代の創作ではないかということです。むしろ日興は、病気のために登詣できず、廟所が荒れたことを嘆き、鎌倉の長老たちが身延に登れぬ事情を察して自ら身延常住を決意したのではないかと私は思います。

 『二箇相承』などもともとなく後代の創作ではないかと述べました。ならば何故創作される必要があったのでしょうか。それは歴史の改変です。そのような改変は富士門流が正統な日蓮の法脈であると主張する必要性が無ければ行われないでしょう。そしてさくらさんが根本的違いと言われる日蓮本仏思想もその正統性を主張するための後代の改変でしょう。余談ですが中国で思想形成がされた禅宗は別ですが大乗仏教では菩薩は菩薩位にとどまり現前するリーダーとしては仏になることがないので珍しい思想です。ところで日興が監修し日順が記した『五人所破抄(富士宗学要集 二巻 1)』というテキストがあります。そこで日興は次の様に述べています。


日興公家に奏し武家に訴えて云く。
 日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり、所謂大覚世尊未来の時機を鑒みたまい世を三時 に分ち法を四依に付して以来、正法千年の内には迦葉・阿難等の聖者先ず小を弘めて大を略す竜樹・天親等の論師は次に小を破りて大を立つ、像法千年の間異域には則ち陳隋両主の明時に智者は十師の邪義を破る、本朝には亦 桓武天皇の聖代に伝教は六宗の僻論を改む、今末法に入つては上行出世の竟本門流布の時なり正像已に過ぎぬ何 ぞ爾前迹門を以て強いて御帰依有る可けんや、就中天台・伝教は像法の時に当つて演説し日蓮聖人は末法の代を 迎えて恢弘す、彼は薬王の後身此れは上行の再誕なり経文に載する所・解釈炳焉たる者なり。

 一読でおわかりのように天台の経相判択の極めてシンプルな概略を挟んで日蓮が上行の再誕であることを繰り返し述べています。日興が日蓮を本仏と考えていないことは明らかです。先述の宮崎英修博士によれば富士門流西山本門寺を開創した日代(1394寂)の弟子日任が「五人所破抄」を日円に譲るに際し「応永二十二年正月廿九日、日代聖人御筆、大事書也、可レ有二重宝一也(21)」と本書に奥書していることと、富士門家碩学の耆宿広蔵院日辰が永禄四年(1561)6月23日の見聞記に本書をもって日代の作と決していることを指摘して、この書は日順のものではなく100年後の日代の作としています(宮崎英修「富士戒壇論について」『仏教の歴史と文化』仏教史学会30周年記念論集)。というわけで博士の後成果に依れば富士大石寺日興門流に「宗祖日蓮本仏思想」が持ち込まれたのは日蓮没後 100 年以上後と言うことになりますが、さらに博士に依れば「宗祖日蓮本仏思想」を見ることが出来る「五人所破抄」の解説書である妙蓮寺日眼(1384年寂)の著作とされる 「五人所破抄見聞」は奥書の日付の記し方が室町時代には見られない書式であるとされていますが、なるほど「署名の書式と花押は時代によって変化するから文献学には重要なポイントだよ、キミ。」という博士のアドバイスの重要さが身に染みます。さらに「宗祖日蓮本仏思想」が富士門流にのみ起きる思想史的検証からもっと後代の西山本門寺八世日眼(1468寂)以降の偽書であると論証されています(宮崎英修「五人所破抄見聞の価値」『棲神』四十一号)。

 さて、では西山本門寺八世日眼のころに当時の富士門流のリーダー達は派祖である日興に弓を引くような教義の改変と増広をしてまで自分たちの正統性を主張する必要があったのでしょうか。この問題については当時の日蓮宗系全体の流れを検討することで明らかにすることが出来ると思います。日蓮没後鎌倉幕府の滅亡とともに建武の新政、さらに足利幕府の設置と政治の中心は京都に移ります。かつて幼名経一丸といい七歳で日蓮のもとに投じて日朗のもとで研鑽を積んだ日像は鎌倉を離れるや佐渡に渡って師日蓮の遺跡を巡拝し京に向かう途中能登真言宗石道山天平寺の満蔵法師と宗論を論じて論破し改宗させ嫡法して日乗と名付けました。日乗はそのご滝谷妙成寺の基礎を築きましたが妙成寺はそのご藩主前田利家の外護によって寺勢と経線を拡大します。日像は入洛し大商工業者の帰依を受け都で経線を拡大します。やがて比叡山の圧力を受けるものの朝臣の間に相当数の信者や同調者がいたのでしょう、比叡山を始めとする諸宗の抑圧と陳情から土佐国へ流罪となったものの洛南の山崎に留まり比叡山に反撃、やがて足利氏が幕府を開く頃には綾小路大宮に妙顕寺を開きました。これを四条門流といいますが日像没後も都に確固たる基盤を築き宗風を鼓舞しました。そのころ日朗門下日印の弟子日静が上洛し六条堀川に足利氏の外護のもと本国寺を開きます。また天台の学僧であった日什は諸国を行脚し会津富士門流の教義に接し日蓮宗富士門流に改宗しますがやがて富士門流に疑問を抱き日頂門下の中山門流に改宗、上洛すると関白二条師嗣に宗義を上奏し師嗣の外護のもと妙満寺を開きます。では富士門流はどうだったでしょうか。日興の意志を奉じ山陰で経化を振るっていた日尊(そうです、日興が身延に不在だったのを見つけてしまったあの日尊です)を一度富士に呼び戻し案内として日目と弟子の日郷とともに京布教を目指して富士を出発しました。日目は既に74歳、日尊は69歳、他流の京都での成功を見ながら富士門流の京都布教の決意は凄まじく日蓮譲りの不惜身命の道念は驚嘆に価します。しかし老齢の日目は途中美濃国垂井で病に倒れ遷化、日尊と日郷は日目の遺骨を奉じて上洛します。しかし不幸にも彼らの熱意は都の人々に伝わらず、他の流派のように拠点を築くことは出来ませんでした。このように日蓮没後百年、海外布教を目指して大陸に渡った日持を除けば日興を除く他の四人の長老達の門下生達は都京都でしっかりと日蓮宗の市民権を獲得したのです。

 このような状況に自分たちこそ日蓮門下の正統派であると富士門流のリーダー達が焦り考えることは自然なことです。そして歴史や教義を改変と増広して自分たちの正統性を主張するのは部派仏教時代から見られる極めて人間らしい微笑ましい行為なのです。例えば根本分裂などは無かったのではないか?それぞれの部派が違う事件を根本分裂と称しているのではないか?という仮説を提示されている花園大学佐々木閑博士のご研究(『インド仏教変移論』)は極めて示唆に富んだものと思います。あるいは現在16000ヵ寺の寺勢を誇る曹洞宗も、道元亡き後教線を拡大するために土着信仰に迎合する必要が生じて本覚思想を否定した十二巻本正法眼蔵を隠してしまったのではないかと主張されるちょっと過激な袴谷憲昭博士のご研究(『道元と仏教 十二巻本「正法眼蔵」の道元』)も当時の歴史的主体を担おうとした曹洞宗のリーダー達の奔走ぶりを思うと微笑ましくもあります。禅宗とて中国では自分たちに都合の良いように歴史を書き換えてきました。日蓮宗が同じことをしたとしてもなんの不思議もありません。しかし本来宗教は思想で決着をつけるべきであるのに、むしろご都合主義的に通俗的習慣が思想を飲み込んでいくような改変と増広であるのは世俗的で人間的で微笑ましいとは言え本来なら知性で分別すべきとするブッダの論理には反すると思います。真理の探求者として自らの無常な時間を顧みて縁起を逆順に観察し根本的生存欲を制御する智慧を醸成しようとするのがブッダの論理です。

 そもそも法華経ですら永遠の神を認めなかったブッダに弓を引いてブッダを永遠の存在にしてしまっています。しかし『根本説一切有部律』によれば仏塔や香室にはマジカルで全能な仏がおわしますと在家信者に信じられているからこそ、飾るべきであり荘厳にすべきであり、その芸術的装飾による荘厳さを在家者に説明が出来る比丘が配置されるべきであるとされています。なぜならそれによりさらなる財施が期待できるからであり故に僧団の長老達は法華経を説く法師グループがブッダを永遠の存在にしてしまっても僧伽の運営の為には目を瞑ったことでしょう。そして子供が泥遊びで仏塔を造る功徳など法華経に書かれていることはその殆どが『根本説一切有部律』や仏伝に書かれているエピソードです。ナーガルジュナが悲痛に大乗の仏は認められるべきであると著したように法華経成立とされている一世紀から二世紀当時のインドでは大乗は認められないどころか必要も無かったでしょうしむしろ軽蔑されていたのかも知れません。なにしろ在家者を施主とする仏塔への礼拝と廻向の儀式は説一切有部や法蔵部の僧たちによって大いになされ、また寄進も多額に渡っていたことは当時の出土する碑文によっても明らかです。布薩にさえ参加していれば僧伽の一員であることが認められるように律は改変されていましたから有部のアビダルマの哲学者たちは王族や金持ちから金品を授受して懺悔滅罪と作善の儀式を出家として在家菩薩達のために慈悲という大義名分のために執り行っていく比丘を「功徳」の根拠をそのなす人の「心(cita)」にさえ求めなければ同じ僧団の比丘として拒絶したわけではありません。ただし「功徳」の根拠たる表業を実有と主張したものの、後に華厳思想に進化していくような「功徳」の根拠たる表業を「心(cita)」に求めようとした比丘達は既にその時点で非人情な真理の探求とは自ずと違う人情に訴えようとしたのであるから既にそれを「他宗を止め己が義を顕わさん」と仏教ではないとしました。故に二乗、三乗は方便であって一仏乗こそ仏の真意であるような方便品や常不軽菩薩品の記述は当時の仏教僧団のなかにあって三蔵に反する論理には批判を加え大乗をコケにするアビダルマの哲学者にたいする法華経制作者たちのおべっかであるように私には見えてきます。単体で読めば美しい文学書であり一部の方々には信仰の対象でもある法華経はそうであるばかりでなく『根本説一切有部律』に非常に良く対応しますので当時の他の文献や通俗的習慣と組み合わせて考えてみれば大変に都合良く自分たちの主張を正当化すると同時に僧団の他の比丘と順応を考慮したむしろ当時の僧団の状態を教えてくれる歴史的資料でもあるのです。このように仏教教団の歴史は通俗的な部分ではそのまま自らを正当化すべく、あるいは世俗社会と順応するべくの改変と増広の歴史であった極めて人間的な歴史です。

 しかしそれでも初期仏教教団に於いては思想が必ず習慣を照射していたと考えられます。律蔵の記述を要約すれば安吾のあとの自恣では波羅提木又を唱えたあと「僧団のみなさーん。聞いてください!もしこの安居のあいだ私が罪を犯したとおっしゃる方はことばで明瞭に指摘してください。みなさんが指摘する罪が私に明瞭にあるなら私はことばで明瞭に悔い改めます。」と三度繰り返します。他者であるブッダのことば難しいからといって自己流に解釈して虚言を言わなかったかを反省するのです。一切智者であり他者であるブッダのことばは自己流でなく出来るだけ厳密にブッダのことばになるように考えなければなりません。説一切有部の『異部宗輪論』によれば「すべてのブッダのことばが明瞭(nitartha)に説かれたものではなく、すべての経典が明瞭に説かれわけではなく、ブッダが説かれた明瞭さによって経典があるのであるから、たとえわたしたちが一切智者であるブッダに対して無知であってもブッダのことばによって知の限りを尽くしてブッダの明瞭なことばとそうでないものを区別していかなければならない」とあります(『仏教入門』袴谷 憲昭)。仏教はブッダの説いた教えであるから仏教徒はこのようであるべきだと思います。日蓮は当時の如何ともしがたかった情報量でなにが正しいブッダのことばかを考えたったひとりで法華経こそブッダのことばであるという考えに至られたのでした。日蓮法華経にブッダの教えを見たのです。そしてそれには法華経と現実の娑婆世界に起きる出来事の奇妙な一致も影響したかもしれません。そして方便品の「シャーリープトラよ、おまえたちは私を信じ心服するがよい。というのもシャーリープトラよ、如来たちには虚言というものがないからである。シャーリープトラよ、この乗は一つであってそれが仏乗である。」という如来のことばを信じると言う段階で「釈迦が最後の8年間で説いた」などということはどうでもよいし、ブッダの立場から言えばそんなことはブッダの知ったことではありません。法華経釈尊のことばと信じられて法華経という宇宙世界の中で上行菩薩という役回り釈尊から授記されたと自ら確信してその世界そのままに生き抜くことを選択したわけです。法華経に生き法華経から出ることもなかった、ゆえに虚言もせずブッダの十四無記から逸脱して自らを増広・拡大するような振る舞いもしなかったということになります。不惜身命で自らを投げ出しブッダに忠実に但惜無上道を生きた宗教者とも言えるのではないでしょうか。「南無妙法蓮華経」は当時の文盲の人たちの信仰への要求と南無阿弥陀仏に対するレトリックでもあったでしょう。しかし「南無妙法蓮華経」と唱える日蓮自身の思考の中は、勿論他者へ思いを馳せて代わりに祈ることもあったでしょうが、基本的には「祈り」ではなく、常に身の回りに起きる現世と奇妙に一致する法華経の「ことば」がありありと鮮明に去来していたと私は思うのです。そしてそれは日蓮自身の危機的な縁起する時間でもあります。本尊鈔のなかに「宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に、釈迦牟尼仏、多法仏・・・」。また顕仏未来記には「諸天善神並びに地涌、千界等の菩薩、法華の行者を守護せん。この人は守護の力を得て、本門の本尊、妙法蓮華経の五字をもって閻浮堤に広宣流布せしめんか」と、単語だけ見ればたしかに富士門流お得意の単語が並んでいますが文脈はまるで違います。これらによると日蓮法華経そのものが本尊であると考えていたことがわかります。そして法華経釈尊のことば、働きそのものであるから大恩教主釈尊法華経は表裏一体であって、それは一切智者であり他者である釈尊のことば=法華経を無知であるわれわれが出来る限り厳密に他者のことばとして考え授持するということになり、礼拝対象物としての法華経ではなくしたがって日蓮系教団が言うように曼荼羅がご本尊なんてことは日蓮の思想ではあり得ないのです。曼荼羅法華経世界を描いた日蓮の思想的投影だと思います。

 ですからさくらさんが法華経を信じ、日蓮の教えを信じることで自らの苦を滅することが出来る方がそれで成仏なされるのであれば素晴らしいことですね。そのことについて何の異論もありません。しかしさくらさんが言われるように

>>個々が自身で判断するのではありません。自分で判断する、という事は慢心以外の何ものでもないからです。

 ならばそれは「文証・理証・現証」ではなく法によるべきであるというのがブッダの教えです。かりに「文証・理証・現証」を物差しに考えるならば『二箇相承』も「宗祖日蓮本仏思想」もあなたの提示するテキストでは私が述べた疑問によってその正しさは「文証・理証・現証」も出来ていませんし、私があきらかにした富士門流の歴史と教義の改変と増広には、たとえ我々が無知であっても法によって正邪を決し何がブッダの教えに適合するかを選択していくという仏教の思想を感じることが出来ません。むしろ日蓮の仏教へのアプローチが道元のように師について修行するというスタイルではなく独学でその時代に物理的に得られる資料を精査して法華経こそブッダの真実の教えであるという結論に達した方法論を学ぶならば我々は今現在我々が物理的に得られる資料を精査して何がブッダの教えであり思想であるのかを検討し思考することこそ日蓮の仏教へのアプローチを受け継ぐことになるのではないでしょうか。そうした努力はむしろ富士門流が批判する身延山系の日蓮宗宗学研究所や立正大学の方々には見ることが出来ますし、創価大学ですら(失礼!)近代的仏教学に取り組んでいます。近代の仏教学の成果を無視して、つまり他者の言葉に耳を傾けずに13世紀頃に成立した富士門流の教義とテキストを盾に『是非、日蓮正宗に入り、御僧侶のお話をお聞きなさいませ。』ではそれこそあなたの仰る慢心以外の何ものでもありません。庵主様、長文乱筆失礼いたしました。

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- 生きとし生けるものが幸せでありますように -

松岡由香子氏からのコメント

 上記のコメントについては松岡氏から丁寧なコメントいただいたので合わせて掲載しておく。


くまりんさん ありがとうございました  投稿者: 庵主  投稿日: 9月21日(水)17時27分20秒
くまりんさんの御投稿(横レス)、ほんとうにありがとうございました。感服して拝読いたしました。私は日蓮系の思想、歴史には疎く、『身延山付嘱書』などがどのような性質のものか、憶測だけで疑っていましたが、とてもそれを論証することは思い及ばないこと、思ってもできないことでした。御投稿によって日蓮宗の歴史だけでなく、『根本説一切有部律』と法華経の関係や、部派の問題などさまざまな問題を教えていただきました。貴重な労作を御投稿いただきまして、また、うまく答えられない私に代って、さくらさんにお答えいただきまして、ほんとうにありがとうございました。

【参考文献】

ブッダが考えたこと―これが最初の仏教だ

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インド仏教変移論―なぜ仏教は多様化したのか

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道元と仏教―十二巻本『正法眼蔵』の道元

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仏教入門

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仏教教団史論

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大乗仏教興起時代 インドの僧院生活

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ブッダが考えたこと―これが最初の仏教だ

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