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仏教とは対極にある教え「以信代慧」 - 日蓮正宗の信徒さん

日蓮本仏論と二箇相承 日蓮宗富士門流にみる歴史・教義の改変と増広に反論がきました

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 まえに取り上げた花園大学松岡由香子氏のサイト『山水庵』のBBS「宗教のこと本音で語ろう!」に日蓮正宗のさくらさんというかたから日蓮正宗創価学会のかた典型のコメントがあって僕が勝手に松岡氏に助け船をださせていただいたんですが、その僕のコメントをこちらのサイトでも日蓮本仏論と二箇相承 日蓮宗富士門流にみる歴史・教義の改変というタイトルで若干の加筆をしてエントリとしてアップしました。お節介とは思ったものの創価学会を始めとする富士門流お得意の場違投稿に唖然としての行為だったので松岡氏から丁寧なお礼をいただいて恐縮していました。

 ところがその『山水庵BBSのほうに日蓮正宗信徒と仰るあきshitさんというかたから反論がきました。別に取り上げるほどの内容でもないんだけどあきshitさんが仰る日蓮正宗の思想はあまりに仏教と対極にあることと、創価学会をはじめとする日蓮正宗富士門流を信じる人たちがあたかも自分たちが仏教の正統であるかのような主張をしその行動が社会的にも有害でさえあるケースが見られる今日、その思想を仏教からは異質なものとして峻別してこのサイトの一般の読者に提示しておくことは微力には違いなかろうが人がカルト教団の餌食になることを少しでも食い止める一助にでもなれば仏教の側のみならず一般社会にも有益であろうと思います。結局批判は日蓮正宗富士門流に留まらず「信」重視の大乗仏教にも及んでしまっているのは本来仏教は「信」重視の思想ではないということでお許しください(笑)。


でも富士門流が正統  投稿者: あきshit  投稿日:10月26日(水)16時51分33秒
突然割り込んですみません。僕もさくらさんと同じ日蓮正宗信徒です。くまりんさんは、御書を良く読まれているようでなかなか歴史的にも詳しいですね。しかし、さくらさんの仰るとおり「文証」「理証」「現証」の三証の整足した富士門流が正統の仏教なのですよ。僕も、さくらさん同様、信仰の違う人でも世法的に優れた方は尊敬しますし。自分達が正法を信仰しているからといって自分が偉いとも思いません。ただ、僕は今年、祖父母をあいついで亡くしました。実は二人とも新興宗教「解脱会」の強信者でして、僕にもっと強盛な信心があれば亡くなる前に破折できたのですが、残念ながら下種すらできませんでした。仏法では臨終の相を説きます。うちの祖父母は、新興宗教などを信仰したが為に見るも無残な相を現じてしまいました。正宗信徒の方のように安らかで、今にも目を覚ましそうなふっくらとした好相はしていませんでした。日蓮正宗のおしえは、「以信代慧」であり、「信を以って、慧に代う」教えなのです。いくら、御書を学ぼうが、歴史を学ぼうが、そこに信の一文字がなければ、大聖人様の御書、御宗門の歴史を正しく掴んでいくことは出来ないのです。「身延山付属書」「日蓮一期弘法付属書」が後世の偽作だと否定される方がいるのは知っていますが、総本山富士大石寺に連綿と伝わる大聖人さまの仏法は本物であり、信あってこそ、少しずつ理解して行けるものなのです。ましてや、この末法は冥益の時代なのです、難解難入な大聖人様の仏法を信じても功徳すらなかなかに解らない程に私達の命は濁っているのです。僕も昔は教学にのめり込んだ時期がありますが、それだけではやはり道を間違えてしまいます。信あっての信心なのです。
突然失礼いたしました、誤字等ありましたら勘弁願います。

 この僕への反論に対してはあちらの掲示板ではもう管理人の松岡氏の手を離れるべきものであろうと思うので最小限のコメントに留めました。しかし僕はあきshitさんが言われるように御書を良く読んでなどいないし、日本仏教の歴史なぞは門外漢で詳しくもありません。知れば知るほどに我が身の無知を知らされ恥ずかしい限りではあるんですが少なくとも一つの宗教の正当性を証明するために歴史書から我が妄想にマッチするものを選び出すような作業はしないのであきshitさんよりは読んでいるかもしれません。それにしても「文証」「理証」「現証」のうち「文証」は切り崩して差し上げたのだからその反証もせず何を仰りたいのかと思えばおーっと出ましたぁ掟破りのメタ論理。『日蓮正宗のおしえは、「以信代慧」であり、「信を以って、慧に代う」教え』なんだぁ!でそうなれば「文証」「理証」「現証」すら関係ないんだということをこの方は跳(?)論理を以て示されているんです(爆笑)。

世俗の論理としても既に破綻している「以信代慧」

 しかし「信を以って、慧に代う」とは仏教とは対極にある思想です。ブッダの説いた仏教とは自らの無知を知り、縁起する無常なる自己を観察することによって無常を識り苦を滅していく智恵を醸成していく「慧」の教えなんですから。「信」というのは自ら識ることによって自らの経験を「慧」として確信していくことであり、生ある人間が時間的制約の中に常にある以上その時間的不可逆は論理的にあり得ず「私が出家してから五十年余年となった。正理と法の領域のみを歩んできた。このこと以外に道の人なるものはあり得ない。第二の道も、第三も、第四もあり得ない。正理と法の領域以外の道は空虚だからである。」というブッダの教えとは真っ向から対立するものなのです。「信あってこそ、少しずつ理解して行けるもの」とは時間の逆行であり仏教の論理ではあり得ません。仏教どころか世俗の論理としても既に破綻しているでしょうに。こういう思想を正統な仏教などと主張されると仏教の側は笑っちゃいます。あきshitさんはそれほどセクト的な物言いをされない方ですから、仏教ではなく日蓮正宗という仏教ではない宗教の信徒としてその教えをご自分で楽しんでくださいな。ただしその思想構造はオーム真理教などのカルト宗教ばかりでなく天皇陛下万歳の戦前の皇道仏教にも、十字軍の聖なる戦いと称して恥じないどこぞの原理主義にもつながりますから仏教としては充分注意を払って監視しておかなければならない思想でしょう。

ブッダは臨終の相など説きません

 ところで仏法では臨終の相をなど説きません。死んだらただの物質なんです。仏教が物質としての人間の死体をどのような契機で慎重に扱うようになったかを示唆するテキストが義浄訳の『根本説一切有部毘那耶雑事』巻18(大正蔵経24:286c-292a)と G.Schopen 教授によるギルギット出土のサンスクリット本とチベット訳の『根本説一切有部律 Muula Sarvaastivaada - vinaya』を通じての研究資料(まさにテキストを考古学的パズルのようにはめ込んでコンテキストにする画期的な仕事!)に見られるので、そのSchopen 教授によるサンスクリット本・チベット訳の合体英語訳(*1)をちょっと要約して以下に示します。


 あるときブッダ(*2)はシューラヴァスティーのジェータ林にあるアナータピンダダの園林に滞在していらっしゃった。シューラヴァスティーにはある長者の居士が居たが彼は同種の家系の妻を娶ると昼夜に渡って楽しみやがて男の子が生まれた。彼は逞しく成長すると家系に相応しい名前を付けられたが、正しく説かれた法と律のもとに出家したが、やがて四大が不調になり病気になってしまった。彼は根と茎と花と実で造られた薬で看護されたがまもなく死んでしまった。同僚の比丘たちはどうしてよいかわからず、遺体と衣、鉢を道端に捨ててしまった。やがて向こうからバラモンと居士たちがやってきてそれが出家したかの長者の息子であることに気づいた。


「みなさん、シャキャムニの弟子の比丘が死んでいるぞ。シャキャムニのもとで出家などしなかったら親族たちによって手厚く葬られてこんな目に遭わずにすんだろうに!」


 市民たちは非情な取りあつかいに腹を立て、教団を非難した。比丘たちがそのことをブッダに報告するとブッダは比丘たちに向かいこのように言われた。「比丘たちよ、それならば許可するので死んだ比丘の供養をなすがよい。」


 しかし比丘たちはどのように供養してよいか分からなかったのでブッダは「火葬にしなさい。」とお告げになられた。すると同志ウパーリがブッダに(死体に生き残った虫の心配をして)申し上げた。


「尊い方よ、世尊はこの身体には八万四千匹の虫の類がいると仰られた。それらの虫はどうなるのでしょうか。」
「ウパーリよ、人が生まれるや否やそれらも生まれ、死んだときにはそれらも死んでしまうけれども、(念のために)傷口のところで(生存している虫がいないか)調べてから火葬になさい。」


 そしてブッダは「火葬のさいに柴が得られなければ、河の中に棄てなさい。もし河がなければ、地中に生めなさい。その際には地中の生き物を殺してしまわないように充分に注意を払いなさい。遺骸を供養するさいには、読経の得意な比丘に『三啓無常経』を読諦させるべきである。あわせてgaathaa(偈頌)をを唱えて、故人のために呪願させるべきである。葬儀が終了すれば、……僧院に戻れ。」と仰り、けっきょく森の奥まった場所に埋めることになってそのようにして比丘たちが僧院に去るとバラモンと居士たちは「シャキャムニの弟子の沙門たちは死体を運んで沐浴もせずに行ってしまった。お清めがないぞ。」と非難したので比丘たちはそのことをブッダに申し上げた。


「そのように去るべきではなく沐浴をするべきである。遺体に触れた者は身体と衣類を洗わねばならない。触れなければ、手足を洗うだけでよい。僧院に戻ったならば、チャイティアに礼拝するべきである。」と告げられた。


 ここに見られるのは世俗社会との良好な関係を維持せざるを得ない仏教教団が世俗の非難に呼応して今までは単に放置して捨ててしまった物質としての死体を丁寧にインドの通俗的習慣に従って扱っていく契機が述べられています。登場するブッダはウパーリによるブッダへの問いかけというスタイルを取る律蔵の伝統的な記述法に依った当時の説一切有部の長老たちの決定を教団へ照射するために登場する後世の創作かもしれないし、あるいは本当にブッダ在世以来の伝承かも知れないが、それにしてもとりあえず非難されるから道ばたに捨てるのだけはやめてあとは川に流そうが地中に埋めようがどうでもいいような投げやりな態度が伺えるし、そればかりでなく人間の死体より生きている虫の命を優先しているところなど後世の創作であれば説一切有部の、ブッダ在世以来の伝承であればブッダ以来の死体に対する見方を、死んでしまえば肉体は只の物質に過ぎないと見倣していたことを表すものだろうし、それはまた先に述べた仏教の論理にもガッチリ適うんです。だから輪廻も成立する!


 余談ですがテーラワーダスマナサーラ長老は「死んだら只の物質なんですね。そんなの拝んでもなんにもなりません。それだけじゃなくお墓なんか作っちゃって人に迷惑かけちゃって(「こころの仕組み 全5回 第5回 こころの完成」)」なんて仰っていますが、テーラワーダ仏教もまた説一切有部の死体に対する思想と同じ思想なんだと思いました。スマナサーラ長老のお話しを伺って初期仏教研究がちょっと揺らいでいる僕にはちょっと安心。やっぱり安心は自分で出して見せるものだよねなんて禅的に納得。どちらにせよ他人から見た臨終の相など仏教にとってはどうでもよいのです。自分でどう良く死んでいくかを仏教は問題にするんです。他人から見た臨終の相を引き合いに出して邪教を信じると死相が悪くなるなんて脅かすのはもう仏教としては違反ですよ(笑)。まぁ日蓮正宗はこの経を信じないと頭が七つに割れると脅かしちゃう法華経が根本のお経だからこんなものか。

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では、お幸せでありますよーに

*1:この要約中ブッダと表記しているのは原語は vhagavat =世尊である。有部系のヴィナーヤやアッヴァダーナ(律文献や仏伝)ではブッダを著す主語としては vhagavat =世尊が用いられ、イメージとしてのあるいはパトス的用法でブッダを表すときに buddha が使用されている。この差異は廻向儀礼の問題や仏画、仏像、念仏の起源とそれらにまつわる思想などを議論するときには時代や部派間に見られる用例の差異とともに厳密に検討され正しく翻訳されて表記するべきものではあるが今回の引用例には重要な意味を持たないので仏教を俗に言う「線香臭さ」から守ってあくまでも一般的に分かり易くするためために敢えてブッダと表記したことをご理解いただきたい。

*2:Gregory Chopen, "On Avoiding Ghosts and Social Censure: Monastic Funerrals in the Muula Sarvaastivaada - vinaya", Bones, Stones, and Buddhist Monks: Collected Papers on the Archeology, Epigraphy, and Texts of Monastic Buddhism in India, University of Hawai'i Press, Honolulu, 1997 なお義浄訳の『根本説一切有部毘那耶雑事』巻18は仏訳 L. de La Vallée Poussin, " Stapikam", Harvard Journal of Asiatic Studies, Vol. 2 があるのでいつも英語は苦手なので仏文のテキストはないかと言われる料理人の方々はこちらを参照されたい。