KumarinX Kaneko Ryogen Jean Michel Kaneko Photography MacOSX
読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

禅は仏教ではないのか? Critical performative scholarship の奨め

はじめに

 僕の文章は罵詈雑言にあふれ、皮肉めいていてあまりお行儀のよい文章とは言えないと自分では思っている。そこで今日は襟を正しお行儀の良い文章へと趣向を変えて末木文美士、下田正弘両博士の著作(*1)に誘発され最近格闘してみた論文について若干の感想を記してみることにする。ここでの直接の議論にはならないかも知れないが過去のこのタイプのテクストのエントリがヨソ様のBBSなどへ話題を提供してきたことを思うとサイレントマジョリティティーのほうも向いておかなければと考える次第。そのサイレントマジョリティーとは此処を読んでくださっている禅僧の方々である。このテクストを以て〈如来蔵思想〉は仏教に非ず、臨済の一無位の真人は ātman であると突きつけられて沈黙を守ってきた禅仏教が〈批判仏教〉を乗り越えて行くためのささやかな試みとしたい。末木文美士博士の着眼(*2)には大いに刺激を受け、思考方法、フレームワークは下田正弘博士のご著作(*3)に大きく依存させていただいていることは改めて表記しておく。

仏教研究の方法論的多元主義 Bernard Faure の二論文

 その論文とは右に掲げた Bernard Faure の『 The Rhetoric of Immediacy (直接性の修辞学) : A Cultural Critique of Chan/Zen Buddhism 』とそれに続いて発表された『 Chan Insights and Oversights (禅の洞察と看過) : An Epistemological Critique of the Chan Tradition 』であり後から刊行された後者が前者の前提にもなっているべきテクストで、それはあたかかも袴谷憲昭の『批判仏教』が『本覚思想批判』より約一年遅れて刊行されたことと似通っている。著者の Faure は滞日経験も豊富で、柳田聖山など、日本の禅研究の第一人者に学び、これまでにも中国の初期の禅文献や『正法眼蔵』などの研究や翻訳を、主にフランス語で発表してきた人でエコール・ドゥ・ジャック・デリダ Ecole de Jacques Derrida の流れにもいる人である。この論文は極めて難解でこれを批判的に検討するなどという作業は僕の能力を遥かに超えるが、ブッダが救済者として讃嘆され続け、儀礼的な問題や崇拝・神祇も含まれる複雑で混沌とした仏教との関わりの中で論じられる〈頓〉と〈漸〉の錯綜をそのまま記述してdéconstruction (脱構築)しようとする研究態度には記述された英語の背後にフランス語を想定していくべきであろうが、その作業自体は漢文からサンスクリットを想定していくような作業にも似てなかなか楽しくて過ぎ去っていく時間さえ忘れてさせてくれると言えなくもない。が僕のような浅学非才の徒にとって消費されてしまった時間の割には目の前の詳細かつ膨大なテキストに圧倒されてしまうのはなんともむなしいものだ。

 日本で〈批判仏教〉が深刻な問題を仏教者に突きつけていた頃、すなわち現代の視点から仏教の起源に純一なものを措定して理性的ブッダが説いた哲学としての仏教という理念を抽出し、例えば輪廻や業などの現代人から見た曖昧さが排除され明晰判明となった仏教という認識の観念をもって仏教自身を批判しようとする試みに、仏教界が揺さぶられていた頃、その主体が曹洞宗の研究者グループであり、〈禅は仏教ではない〉というテーゼへの回答をむしろ看話禅の本家・日本仏教の総府であると自認していた臨済宗側は沈黙、あるいは無視というかたちでその論争に参加しなかった。しかし現実はいささか違ったように思う。臨済の側にとって坐禅に取り組まない曹洞宗の研究者グループによる〈観念的〉な議論に辟易したというのもあっただろう。実際、臨済録の〈無位の真人〉は ātman を指しているという批判は Sarvāstivādin (説一切有部)や南方上座部の〈心・心所〉を ātman だと決めつけるくらいに馬鹿げている。当時の臨済宗側の研究者にとっては〈批判仏教〉が推し進める理念が明晰に〈観念的〉と意識されたかどうかは分からないが、言うまでもなく今日仏教学においての〈批判仏教〉は〈批判〉ということを正面から問題にする貴重な試みだったとしても〈仏教学〉を問い直そうするのではなく、むしろ近代仏教学が前提とする〈理性的ブッダが説いた哲学としての仏教〉という理念を極端に推し進め、曖昧さが排除され明晰判明となった〈仏教〉という認識の観念をもって仏教自身を批判しようとする試みであり、近代仏教学の見出した〈仏教〉という観念をさらに観念化するような作業に思えると下田正弘によってやんわり批判はされている。しかし臨済禅にとって〈批判仏教〉の繰り出す〈観念的〉批判よりもより深刻な〈批判〉があったのである。そしてその批判の方法論は〈批判仏教〉のような〈理性的ブッダが説いた哲学としての仏教という理念〉での批判という明晰さを持たず、自己の問題が解決したのにもかかわらずブッダが救済者として讃嘆される流れの中で、夢、魔術師、死、遺骨、神々、セックス、そして儀礼的な問題も含まれる複雑で混沌とした仏教をそのまま記述した批判であった。それが『 The Rhetoric of Immediacy: A Cultural Critique of Chan/Zen Buddhism 』と『 Chan Insights and Oversights : An Epistemological Critique of the Chan Tradition 』だったのである。 Faure の研究態度は結章に簡潔に示されている。

禅の学問的なディスクールの東洋主義的な周辺から踏み出して、私は伝統がその実践について中心的であると主張してきたいくつかの問題、例えば〈頓と漸〉の論争などを検討しようと試みました。……禅は直接性を主張し、あらゆる伝統的な媒介を否定することによって、他の宗教的潮流から区別されます。しかしたとえこれらの媒介がもっとも強く論破される場合でも、そしてまさしくその場合にこそ、常にその伝統的な媒介が現前することは明らかなのです。私は、夢、魔術師、死、遺骨、儀礼・神々などに対する禅の態度を提示することによって、この欠陥とされる方面をたどってみたのですが、それは通常 ー 伝統それ自体によっても、伝統に従う学問によっても --- 二つの真理のような観念によってきれいに説明されたり、沈黙させられたりしてしまっています。熟達した達人によって〈直接に(媒介なしに)〉究極的真理として (その段階で) 知覚されるものが、凡夫である信者の未成熟ゆえに、隠されたり、慣習的な真理として、その段階で〈方便〉によって間接的に顕わされるのだと、通常言われています。・・・この偽装が、直接性の教義の補完物としての儀礼の使用や媒介物を再び導入することを説明するものなのです。(-p305)

理性的ブッダが説いた哲学としての仏教による仏教批判

 こうした研究によって明らかにされるのは単なる研究対象としてではなく生きた宗教として機能している仏教を豊かにしていく作業でもある。〈批判仏教〉が〈~は仏教ではない〉と既存の仏教者に死刑宣告を下したのと違い、仏教と世俗社会の関わりにおいて仏教の側が世俗社会に形而上学的負債を構築しない、あるいは既に構築してしまったものを脱構築していく試みでもあるのではないかと思う。この態度は目的をいささか異にするとは言え下田正弘が『涅槃経の研究』で表明した態度でもある。Faure は言う。〈頓〉と〈漸〉は分れるわけではなく、両者は錯綜しており、純粋な〈頓〉の立場など、所詮抽象物にすぎない。禅と民衆宗教の関係についても、単に禅が外から民衆宗教の影響を受けて〈不純〉な形に変容したと言うのではなく、禅自体がそうした展開の必然性持つと考えられる。禅思想の指導者たちは不立文字・教外別伝を標榜しながら実際には文献主義的な方法を以てそれに合せて自らの禅体験を哲学的に考察するという方法 (例えば、京都学派の哲学〕によって、禅の核となる思想・体験をピュアな形で抽出することを目的とし、それ以外の要素は來雑物として排除してきたが実際は禅はもともとさまざまな儀礼や崇拝を含んでおり、それらを非本質的な來雑物ではなく禅が成立の段階から含んできたのものである、と。こうした態度は禅が仏教であろうとする意志と、その意志が僧伽・在俗信者を照射しながら歩んできた歴史を複雑なまま記述して符合させることが出来る。ここまでの僕の問題提起で明らかになるものはなにか。禅が日本の近代化の過程の中で選択した〈六祖慧能が説いた純粋な〈頓〉の哲学としての禅仏教〉こそ〈理性的ブッダが説いた哲学としての仏教という理念〉による〈批判〉的方法論として〈批判仏教〉に引き継がれたある種の観念的な仏教の先駆けであったことである。

 しかし禅にとって俎上に上げるべきものとして選択されたのは松本史朗によって指摘された客観主義的文献主義の限界ではなく Faure によって指摘された文献主義のもつ客観主義の問題点とセットになった「目的論的誤謬 (teleological fallacy) 」であった。柳田聖山に学んだ Faure は日本の学界を中心とした文献学的な歴史研究の方法に対する批判に留まることなく十分にその成果を認めた上で、その行き詰まりを乗り越えうる方法論として構造主義的方法、解釈学的方法などが検討された上に、「認定的 (constative) 」な文献学的客観主義に対置されるべきものとして研究と対象との転移的関係をその行為の遂行に関わりながら自覚する立場としての遂行的研究 (performative scholarship) を提唱している。そうした問題提起が〈批判仏教〉の限界を明らかにしたうえで、〈理性的ブッダが説いた哲学としての仏教〉としての批判仏教の成果を踏まえつつ仏教学に新たな視点を提供したことは歓迎されるに違いない。しかし Faure の批判は禅にのみ向かうべきものではないだろうと思う。彼によって記述される、現象としては起源からどんどん拡大していく膨張する宇宙のように複雑で混沌とした儀礼や崇拝を含めた文化現象として禅を理解する時、それはなぜその現象をリードして信者をも含めた個人やコミュニティーを照射してきた思想が一人禅に限るものとして結論されてしまうのかを問われなければならない。僧の魔術師的性格、遺骨信仰、ミイラ信仰、葬式仏教、夢、セックス、神仏習合など、どれを取っても禅独自の問題ではなく、東アジアの仏教諸派全体の問題であり、それを禅に限って扱うとき、提起される問題の東アジアの大乗仏教に包括される全体性の見通しを誤ったものにしてしまう危険性はないだろうか。

nītārtha/neyārtha に見える大乗への連続 D.S.Ruegg のインド言語理論的視点

 仏教が複雑で混沌とした儀礼や崇拝を含めて記述されるとき、思想の多様性は思想ごとに時代ごとに社会背景や対立する思想とともに記述され批判されなければならないと思う。 Faure ほどの人を持ってしても思想の取り扱いかたに誤りを犯すのである。しかしながらこの論文によって提起されていることを我々は深刻に自身の問題として受け止めなければならないだろう。少なくとも〈批判〉よりも己事究明が大切だなどと投げかけられた〈ことば〉を無視して独坐大雄峰と居直っているわけにも行くまい。存在し続ける指摘された過去のダルマを明瞭に認識し、自己反省と自己否定を繰り返しながら、おぼろげながらも存在する未来のダルマを選び取っていくのが仏教徒の歩む道であるからだ。現代まで連綿と続き膨張してきた仏教がブッダと出会うことによってのみ人生のコペルニクス的転換を遂げた弟子達の後代へ向けた刻印を出発点とするならば〈批判仏教〉によって明確に宣言された仏教とは〈ブッダの説いた教え〉であるという定義とはまた違った視点を持つことが許されるだろうし禅の標榜する〈ブッダになる教え〉は前者に含合されると言ってよい。前者の視点に立つならば仏教は弟子たちの発する刻印としての〈ことば〉に意図された話し手の意志を含むことを前提とした上でそれを峻別し仏説と比較検討していかなければならない。それはブッダ自身の口を借りて非大乗系涅槃経に次のように示されている。

 比丘たちよ。ここで一人の比丘が次のように語ったとしよう。

「これこれの住所に、博識で、聖典を伝え、法をたもち、戒律をたもち、マーティカーをたもっている一人の長老がいる。わたしは、このことをその長老からまのあたり直接に聞いた。まのあたりうけたまわった。───これが理法である。これが戒律である。これが師の教えである。」と。

 比丘たちよ。その比丘の語ったことは、喜んで受け取らるべきではないし、また排除さるべきでもない。喜んで受け取ることもなく、また排除することもなく、それらの文脈を正しく良く理解して、経典にひき合せ、戒律に参照吟味すべきである。それらの文脈を経典にひき合せ、戒律に参照吟味してみて、経典にも合致せず、戒律にも一致しないときには、つぎの結論に到達すべきである。

「たしかに、これはかの仏・世尊の説かれたことばではなくて、この長老の誤解したことである。」と。

 比丘たちよ。それ故に、お前たちはこれを放棄すべきである。しかし、もしもその文脈を、経典にひき合せ、戒律に参照吟味してみて、経典に合致し、戒律に一致するならば、結論としてこのように決定すべきである。

「たしかに、これはかの仏・世尊の説かれたことばであり、この長老が正しく理解したことである。」と。

マハーパリニッバーナ経 パーリ語ヴァージョン 第4章 第11偈

 マハーパリニッバーナ経のこの思想こそ後に Sarvāstivādin (説一切有部)によって意識され『異部宗輪論』で宣言された nītārtha/neyārtha (了義・未了義)による āgama アーガマの選択・峻別の思想へ発展していったものに他ならないが、参照吟味の結果 neyārtha (未了義)として分別された表現は、明瞭な一義的な意味をもった経典の〈ことば〉と矛盾を起こすので当然排除されねばならない。そしてそれは隠されたより深い、決定的な意味を表示し、最後にそれは経典の話し手であるブッダの明確な意図 (vivakşā) によって規制される。方便 upāya を有する āgama アーガマは、まさにこの ābhiprāyika (意図性) としての表現を取ることを本質としていると考えられている。David Seyfort Ruegg はその著『 Buddha Nature Mind and the Problem of Gradualism in a Comparative Perspective: On the Transmission and Reception of Buddhism in India and Tibet 』で如来蔵思想系の経典や論書が、 ātman を説きながら、それがいわゆる外道、バラモン思想の ātman とは異なっていることを、 ābhiprāyika (意図性)、neyārtha (未了義)、という概念を用いた解釈法で解決を図ろうとしていることに注目する。経典の言葉はすべてが同一次元で、かつ了義なものとして捉えてよいわけではない。字義通り理解すれば矛盾を生じてしまうようなときには、そうした表現をとった意図を理解し、そのあるべき姿とへ導いていくことが必要だというわけだ。言語表現の決定要因は、その指し示す対象の有無のみならず、話し手の意図 (prayoktrī vivakşā) にあるとされ、意図はときに通常の語用 (laukikī vivakşā) を外れた用法をも正当化することになる。Dharmakīrti (ダルマキールティ 法称) はこの vivakşā を言葉と意味をつなぐ hetu 原因となした。この nītārtha/neyārtha (了義・未了義)、そして ābhiprāyika (意図性) という解釈法は、その場しのぎのものとして生み出されたものではなく、長い間に構築されたインドの言語理論、ことに vivakşā の理解にしっがりと沿ったものであると Ruegg は指摘する。Ruegg によればこの傾向は美文・修辞学 ala.mkāra-śāśtra において核となって発展し、記述するときの発話者の意図 (prayoiana) は、言葉の第二次的意味 (lakşa.nā 比喩的表示) を決定する重要な役割を果たす。二次的意味が採用される場合には条件が必要であり、言葉の字義通りの意味と、意図の込められた比喩的意味が両立不能であるため、字義通りの意味が破棄されてしまい (mukhyārthabādha)、そのとき、二次的意味が実質的に一次的意味と切り離され、発話者の意図 (prayoiana) に従うケースが顕れる。時代を下りやがて vya;njanā, dhvani という第三の意味の範嗜が議論される中では、意図 (prayojana) は決定的な役割を演ずることになる。これは、仏教における ābhiprāyika, neyārtha を用いた解釈法と、まったく同様の議論なのである。こうした視点を踏まえた上で今一度松本史郎の批判に耳を傾けて見よう。

第三の理由は、「赤肉団上、有一無位真人」という表現自体に秘められており、それを述べることが、実は本章の大きなテーマでもあるのである。では、それは何のことであるか。それは、インドのアートマン論においては、“アートマンは心臓にある”と考えられるという重要な事実なのである。このことをわたしが明確に知り得たのは、金沢篤氏の「シャンカラとhrdaya」という論文のおかげであった。その論文を読了すれば、「赤肉団上、有一無位真人」の語に秘められている謎は、すべて解けるとさえ言える・・・(『禅思想の批判的研究』、p.248)

空海(774~835)は、『性霊集』七で、

真言大我、本住心蓮

と述べているが、ここで「心蓮」とは、シャンカラが用いる〈hrdaya-pundarika〉という語の訳語とさえ考えることが可能なのである。従って、この文章は実は、〈アートマンは元来、心臓(心蓮華 hrdayapundarika)の中にある〉と説くものに他ならないのである。(同上、p.252~253)

禅思想の批判的研究大蔵出版 ; ISBN: 4804305262 ; (1993/12)

複雑さを記述した多元主義的批判 自己反省から脱構築

 臨済の「無位真人」は ātman である故に臨済の思想は仏教ではないと彼は述べるが、これを論証するのに表現の類似性や語源的研究によっていることは明らかである。これこそ松本の「目的論的誤謬 (teleological fallacy) 」ではないか。 Faure の問題提起に従うならば、謎は「認定的 (constative) 」に語源に求められるべきではなく、より構造的な文献解釈として「遂行的 (performative) 」に発話者の意図 (prayoiana) に求められるべきであろう。「赤肉団上」で顕現すると松本が指摘する「心臓」と、 Sarvāstivādin (説一切有部)の表現を借りれば五蘊で制約される四大の上に仮に成立する場所的限定のない心・心所に相当すると考えられる「無位真人」とでは已に概念が対立しておりは言葉の字義通りの意味と、意図の込められた比喩的意味とが両立不能であるために、字義通りの意味が破棄されてしまい (mukhyārthabādha)、そのとき、二次的意味が実質的に一次的意味と切り離され、発話者すなわち仏弟子たる臨済の意図 (prayoiana) に従わなければならないのは、仏教における ābhiprāyika, neyārtha を用いた解釈法によっても当然意図されるべきであろう。      

 この観点から如来蔵思想系の文献において説かれた ātman を見直してみれば、それは空・中道という、abhidhā に対応すべき第一義的意味(仏教では nītārtha)を基本として、その neyārtha に位置付けられるべき内容を所有している。こうした言葉の解釈学の方法に厳密にしたがい、 śūinyatādŗşţi への対治という明確な意図によって大乗経典内に位置付けられた如来蔵としての ātman は、バラモンの説くātman ではあり得ないことが明瞭であるとする。śruti たるヴェーダの場合、言葉の背後には「人」が存在しないから、本来的に「意図」を問題にすることはできないが仏教聖典は、その出発点にブッダという〈人〉を想定しており、そこには〈意図〉が予想されてしかるべきだから、この聖典解釈の方法は、仏教の時間に対して本質的な連鎖である。 Ruegg は明言は避けるが、仏教における解釈学の伝統が、インド言語理論へ影響を与えた可能性を示唆している。そして Ruegg のみならず我々はマハーパリニッバーナ経から Sarvāstivādin (説一切有部)、そして Dharmakīrti へと連綿と続き発展した nītārtha/neyārtha (了義・未了義)によるアーガマの選択・峻別の思想は初期仏教から大乗までに連続した思想として見いだすことが出来るのである。こうしたパラダイムから禅仏教が見直され自己反省を伴いながら déconstruction (脱構築)されるならば禅は夢、魔術、死、遺骨、神々、セックス、そして儀礼的な問題も含まれる複雑さをそのまま記述しながら〈頓〉と〈漸〉の錯綜を止揚して〈ブッダの説いた教え〉を実践し〈ブッダになる教え〉も同時に実現するゆたかな仏教の地位を世俗社会に対して築くことも出来よう。

*1末木文美士解体する言葉と世界―仏教からの挑戦岩波書店 ISBN: 9784000028295 下田正弘『涅槃経の研究―大乗経典の研究方法試論』春秋社 ISBN: 9784393111932

*2:前掲末木書

*3:前掲下田書

元記事(ngp-mac.com/kumarin)へのコメント

マニカナ・エムマニカナ・エム 2005/12/30 9:39

いただいたコメントとあわせて、拝読させていただきました。

とてもおもしろいです!興味津々です。

「そうか、そうだったのかぁ」とうなずきながら読んでおりました。

くまりんさまの論点がとてもよく見えてきて、発見の連続です。


ヴィヴァクシャー、ラクシャナーについては、後代ニヤーヤ学派でも論じています。何がどうなっているのか、そのうち仏教論理学との論争をチェックしてみたいです。

ディグナーガ、ダルマキールティとウッディヨータカラあたりの議論は、それ以前の論争の歴史をしっかりふまえないといけないなとは、思っていましたが、くまりんさまの御論考を拝読してあらためて思いました。


いろいろ勉強させていただいて感謝しています。

いや、ほんとに仏教は、深いですねぇ。

マニカナ・エムマニカナ・エム 2005/12/30 10:00

コメントを入れたつもりですが、消えてしまいました。

もう一度書き込みますが、二つになっていたらごめんなさい。


たいへん興味深く、「そうか、そうだったのか」とうなづきつつ読ませていただきました。

くまりんさまの論点がとてもはっきり見えてまいりました。


いろいろ刺激を受け、ちょっと何を申し上げてよいやらわからないほどです。ヴィヴァクシャー、ラクシャナーに関しては、後代ニヤーヤ学派でも論じています。ディグナーガ、ウッディヨータカラあたりは、論争の前史をよく検討した上で、もう一度チェックしてみなければいけないなと思いました。


仏教は深いですねぇ。

わたしも、もともとはニヤーヤ学派の思想史解明をめざしていたので、その流れでそのまま仏教史の華麗な展開にのめり込んでいけそうです。

やることがますますふえてまずい!です(笑)。


それはともかく

すばらしい御論考に深く感謝しております。

kumarinkumarin 2005/12/30 18:38

マニカナ・エムさま。

 コメントが表示されない件は大変失礼いたしました。

一昨日から昨日の朝に掛けてエロサイトへの誘導トラックバック、いわゆるスパムトラバですね、が2000本ほどやってきまして、コメントとトラックバックにフィルターかけて自動的に表示しない設定にしておりました。今回設定を変えてトラックバックのみ撥ねる設定にしました。いろいろとお手間を取らせてしまって申し訳ありません。


 そして丁寧なコメント有り難うございます。先生のやることを増やしてしまったことを大変嬉しく思います(笑)

僕のほうはといえば、〈karmabheda〉〈caaturdi;sa-sa.mgha〉に制約された中で〈niitaartha/neyaartha〉〈vivak.saa〉をキーワードに仏教内外の思想との論争、影響を考え、〈internalism〉 〈externalism〉の対立とすれ違いからやがて〈Maadhyamika〉 〈Yogaacaara〉 〈Sautraantika〉 〈Vaibhaa.sika(Sarvaastivaadin)〉の四種の〈bhaavanaa〉によって優れた人間の目的を説くと Maadhava に言わしめた〈全教団〉としての仏教の豊かさを遂行的 (performative)に味わって行きたいと考えております。そんな視点から近々書評をエントリさせて頂きますんで宜しくご批判くださいませ。


 こんにちの自分の態度を形作るまでに先生や宮元先生のご研究には大いに啓蒙され学ばさせていただきました。これからも「やることが増えてまずい!」でしょうがますますのご活躍を祈念いたします。


*******

- お幸せでありますように -