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民主主義に懐疑の矢を放つ

カピラ城、ティラウラコート?ピプラワー?

 鮎川さんへの新年の挨拶でカピラヴァストゥについてちょっと触れたら非常に示唆に富んだコメントを返していただけた。この一言で古代インドについての考古学の現況がズバリと説明されているんでもう感動ですね。実際、鮎川さんたちが関わられたカピラヴァストゥ近くのブッダ生誕の聖地ルンビニーは、1990年代のマーカーストーンの発見によって考古学的にも証明され、世界遺産に登録される要因にもなったわけです。ノート代わりにこちらに転記して起きます。

ネパール側のティラウラコートとインド側のピプラワーの2説があって、ややインド側が優勢でしょうか?

実はティラウラコートの近くにはサガルハワーという遺跡もあって、釈迦族滅亡の地とも言われています。

他にもラーマグラーマ・ストゥーパ(ネパールチームが調査中のはず)やガウティハワー(イタリアチームが調査しておりました)など、インド・ネパールの国境近辺には、まだまだ知られざる仏教遺跡が点在しているんですよ。

私は11月の集まりには招かれておりませんでしたが、くまりん様とはお会いしたかったですね。

まぁいつか、お会いすることもあるでしょう。

その日を楽しみにしております。

イタリアチームも困ってましたが、インド、パキスタン、ネパールの煉瓦造りの遺構って、re-constructっていいますか、re-structって言いますか、古いmaterialを使って立て直したものが多くて、層位学を使わないと年代決定できないのが多いんです。

だから面白いんですけどね。

御存知のマーカーストーンの年代もアショカピラーを基準に、層位で推定したんですけどね。

世の中驚くことばかり!あけましておめでとうございます

 もうワクワクするようなお話しなんですけど、この発掘のあいだ鮎川さんはずっとネパールにお住まいだったわけですね。

民主主義に懐疑の矢を放つ

コメント戴いた、くまりん様のお話からの連想で、ネパールの日々を思い出す、今日この頃。

考えてみれば、私の理想とする多文化共生社会がネパールにはあったのです。

宗教の違い、社会的地位、出生の違い、民族の相違を超えた、優しい文化が。

ネパールは多宗教国家であると同時に多民族国家でもあります。

ネパーリとネワーリ、グルン、シェルパ・・・

それぞれ違う言葉を持っていて、もちろん宗教も文化も違う。

でも仲良く暮らしているんです。

ある意味、極楽みたいな国でした。

世界がネパールのようになれば・・・

と思うことしきりです。

ただ、どうでしょう、そんな世界で民主主義が行なわれたら、ただ数の多い民族が優越してしまいますよね?

私が民主主義に懐疑的なのは、そんな理由もあるのです。

世の中驚くことばかり!ビスターレ・・・

 そういえば、桝添さんも民主主義に懐疑的である旨を論じられていました。rice_shower さんもそうだったかな。民主主義が最善の政治形態であるという命題は一民族一国家の前提が無ければ成立しませんね。しかしその民族に他文化歓待と共生の理念がなければこんどは国家間の民主主義が成立しない。だから何がいいのかというと簡単にはいかないですけどね。こういう問題を形而上でなく法整備や制度の問題として論理的に提起できないのは政治学のエポケーですね(笑)政治学者には学問的良心はないんだろうかと思ってしまう。ともかく民主主義が最善の政治形態であるという命題は演繹的にも帰納的にも導き出すことは出来ません。


 アーリヤ人に古くからあるヴァルナ (種性制度、後に英国人によってカーストと呼ばれるようになる) はある種理想的な国家形成の倫理的根拠にもなるんですよね。確かに悪政国家も多数でしたでしょうけどシャーキャ族やヴァッジ族は「宗教の違い、社会的地位、出生の違い」が円融された国家を形成していたと考えられます。さらにそうした都市国家や農耕国家を集合させたアショカのマウリヤ朝やカニシカのクシャン朝で「民族の違い」も円融されるんですね。円融されるってのはヒンドゥー主義の思想的基体でもあるんだけどね。dhātu 界といいます。まぁ実際の詳細まではわかならないし政権が安定しなかったという問題はありますけど。


 ヴァルナは実際インドへ移動したアーリヤ人のみでなくインド・ヨーロッパ語族共通のものだと思うんです。例えば僕が接している限りだけどフランス人には歴然とありますね。フランス人にも土着的に円融される dhātu という概念があるんでしょうか。たしかにカソリック思想とは手を組みやすい思想には違いないと思います。神がわたしを満たし包んでくれる、あるいは神とわたしが対話するところのような場所的な概念なのかな。平等即差別、差別即平等や全同にして全別のような・・・彼らは民主主義、共和制という自国の制度の中で明らかにヴァルナを意識し、諦めていると同時に楽しんでいる様子が見受けられるんですね。勿論ヴァルナを超越したところにデザイナーや学者、料理人やレストラン支配人やソムリエ、政治家や俳優などで形成される社交界ってのが用意されているわけだけども。で友人のフランス人に聞いてもそれを認める、なんていうか無条件に受け入れていると言うんですか。それがフランスに移住したアラブ人には分からなかった?あるいはフランス社会で長く過ごしても消し去ることが出来ない、むしろ過ごせば過ごすほど実感される強烈な違和感が原因だったのではないかと思っています、去年の暴動は。個人的な経済的豊かさとは関係がないんだよね、ヴァルナを実感し、楽しむというのは。


 ヴァルナは差別として固定化されれば確かに批判されるべき制度であり思想だと思いますが、「人の価値は生まれでなく行為によって」というブッダの思想を採用すれば、その社会の歴史の中でそれぞれが尊敬を受けるべき役割という面を持つことになります。実は現代のインドのカーストにすら人々はヴァルナを受け入れ諦めていると同時に楽しんでいるところも認められるとは密教的な円融・融通の視点がお強いとは思われるけれども津田慎一博士のご意見。逆に言えば天皇家の存在も同じ問題意識を提起することになる。天皇家はもとはといえばブラフマナー、つまり大和の国の祭祀を司る祭官だったわけで。負であれ正であれ日本人の意識形成にはブラフマナー、あるいはクシャトリヤとして機能してきたわけで鈍感な日本のデモクラートの下す評価より、他者に対して敏感な海外のデモクラートが下す評価は持つべきレスペクトとして表現されることになるんだな。

元記事(ngp-mac.com/kumarin)へのコメント

ajitaajita 2006/01/05 4:27

くまりん様 

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。


ヴァルナのお話ですが、これって多分に大陸的とゆーか、日本人のメンタリティには合わない概念じゃないかなぁと思います。

少なくとも、仏教が自然に残存できた地球上でも「品のいい」地域・国家ではちょっと気持ち悪い制度ではないでしょうか?

僕みたいな単なる東国の庶民でも、父方母方を聞き取りしてみると親族ネットワークに乞食から侍従武官長まで湧いてきます。

現代の復古主義者垂涎の明治国家にあっても、いかに身分や階級の流動性が高かったか、ということでしょう。

また、江戸時代にあっても、仏教は「魚屋の倅が大僧正」という社会の流動性担保の装置だったわけで、戦国時代以前なんかはもう…。

天皇陛下だって、言ってみれば、遠い親戚ですからねぇ。


また、結果論ですが、ヴァルナが強固な社会では、結局仏教は駆逐されてしまったわけです。仏教が踏みとどまった品のいい社会では、ヴァルナは弱まって社会の流動性が維持された。表面上カーストがあるスリランカにしても、その形態はインド大陸とまったく違う。上位カーストは農民で、ブラフマナーはその下層に位置します。ヴァルナを強固化しようとする志向性に、仏教は一貫して批判的であったし、仏教が生きている限り、ヴァルナを解体する影響力を社会に与えた、ということはやはり揺ぎないのではないかな、と思います。


民主主義への懐疑、ということはもっともですが、呉智英夫子以外の呉智英チルドレンには僕は批判的です。民主主義への盲従派に「ばか」とルビを振りたいのと同じく、民主主義への懐疑派にも、「ひんせいげれつ」とルビを振りたくなることがあります(笑)。


仏教的には「政治は国民を幸福にするためにある。国民を幸せにしているならば、王政であろうが民主制であろうが評価すべき。(国民を幸せにしていないならば、王政であろうが民主制であろうが批判されるべき)」というシンプルな価値判断でいいのではないでしょうか? 


また、くまりんさんもよく言及されるジャータカ・パーリですが、動物が主人公という設定には「牧歌性」よりもむしろ、人間社会への批評的な意味合いもあるのです。ジャータカ・パーリでは、よく動物の菩薩が、人間の王に政治の何たるかを説法するでしょ? あれは、「政治くらいのこと、動物のほうが人間より上手くやってる。サルでも犬でも完璧にできる政治すら、できないお前(王)はよっぽどの阿呆だよ」という批評です。


実際に、「同胞の生存確保と幸福の実現」を政治の仕事とすれば、動物は完璧にやっています。人間という動物だけが、妄想におぼれて政治に失敗しているのです。政治のおかげでいたずらに不幸になっている種というのは人間だけではないでしょうか?


では、お幸せでありますように。

トリルトリル 2006/01/05 12:31

あけましておめでとうございます。

またよろしく御願いいたします。


自分には難しいことは分かりませんが、此処で言われてるのは現民主主義云々と言うよりその成立土壌や条件がおよそあるべき民主主義を語るには歪で特殊ではないか?という事でよね。

チャーチル議会制民主主義をして必要悪、ベストではないがベターというニュアンスで発言してからもほとんど制度的に発達していないのはご都合主義でしかなく、あるべき民主主義を指向しているなら怠慢以外の何ものでもないという意味なら理解できます。

また全く不完全で目途もない民主主義制度が真理のような物言いや立場から他の制度を見下し批判する態度はやりすぎだと自分も思います。

カースト制といわれるようなモノは社会の安定に寄与し見る方向を変えると社会の硬直装置でもあるんですよね。

職業の専門性能力や個人の矜持はそういう縦糸とは別の横糸のベクトルで評価され影響力を持つので、シーンのよっては縦糸のヒエラルキーを凌駕するし、既に経済力という物差しは既存カーストを浸食し近代社会は貧富の拡大が制度的に無視し得ない影響を持ちますよね。

カースト制はある種のスタッフとラインの関係に近代的に還元できないでしょうかね。

天皇制を足下のおぼつかない戦後民主主義制度下で云々してもこんがるだけでロクな事がないだろうという感じは全く同意。

すみません。付いて行くのがやっとです。

kumarinkumarin 2006/01/05 14:42

ajita さま。

 あけましておめでとうございます。こちらこそ、宜しくお願いします。


>>仏教的には「政治は国民を幸福にするためにある。国民を幸せにしているならば、王政であろうが民主制であろうが評価すべき。(国民を幸せにしていないならば、王政であろうが民主制であろうが批判されるべき)」というシンプルな価値判断でいいのではないでしょうか? 


 まったくその通りでそれ以上でもそれ以下でもありません。ただ今回は凡夫の煩悩を巡らしてみました。『「人の価値は生まれでなく行為によって」というブッダの思想を採用すれば』などとブッダを持ち出したのがいけなかったのかも知れません。仰るように仏教原理を発展させれば『仏教が生きている限り、ヴァルナを解体する影響力を社会に与えた、ということはやはり揺ぎない』のは同意です。しかしブッダの教えを実践するという凡夫の立場に引き下ろして考えれば、差別思想を根絶するために自我との内なる闘争が、しかも相当に容易ではない因果律に基づいた時間的な熾烈な闘争が要請され、「みんな平等、他人にたいする思いやり」などというような自己を円融してしまうような甘っちょろい軽薄なヒューマニズムなど「おととい来やがれ!」みたいな熾烈な自己否定闘争を引き受けなければなりません。


>>仏教が踏みとどまった品のいい社会では、ヴァルナは弱まって社会の流動性が維持された。表面上カーストがあるスリランカにしても、その形態はインド大陸とまったく違う。


 これは面白い視点だと思いました。実際出家としての僧伽はヴァルナから超越したところにありました(テーラワーダについては現在もそうですね)から、そういう意味ではフランスの社交界はそういう機能を持っているのかもしれません。当然フランスでの社交界へのデビュは世俗的な熟練や個性が社会に評価されるためのかなりの努力が要請されますが、出家という家族も財産も欲望も捨て去る聖なる道も世俗的には熾烈な努力が必要ですから同じ努力なら苦を滅する出家のほうに軍配が上がるのはブッダの論理ですね。なるほど世俗で何をどんなに努力しても不還に留まるってのはその通りだなぁ。イスラムに駆逐、あるいは虐殺されて絶えてしまったというのはやはり熾烈な自己否定闘争を成し遂げたうえでの他者に対する絶対歓待を仏教が育んでいたことを示していると思います。ヴァルナが強固な社会だったからということがどれほど関与してくるのかは興味深いところではありますが・・・


>>あれは、「政治くらいのこと、動物のほうが人間より上手くやってる。サルでも犬でも完璧にできる政治すら、できないお前(王)はよっぽどの阿呆だよ」という批評です。


 これは面白いです。興味深いです。逆に言えばパーリ仏教圏がブッダの言うとおり政治とは常に一線を画していたということでしょうか。その視点から見ればサンスクリットやガンダーラ語仏教圏は政治と深く関わっていたから動物に政治を揶揄する台詞を言わしめなかったとも言えますね。ヴァイシェーシカニヤーヤ、仏教に政治が関われば当然「権威」が意図されるからその論争は信仰を突き抜けた論理であるけれども常に「権威」が意図されていたことを含めて考えないといけないかも。たしかに説一切有部アビダルマなど「権威」の積み重ねでもあることは間違いありませんが・・・


トリルさま。


 

 あけましておめでとうございます。こちらこそ、宜しくお願いします。


>>チャーチル議会制民主主義をして必要悪、ベストではないがベターというニュアンスで発言してからもほとんど制度的に発達していないのはご都合主義でしかなく、あるべき民主主義を指向しているなら怠慢以外の何ものでもないという意味なら理解できます。


 じぶんが朧気程度にしか意図していなかったことを政治学のエポケーからここまで引き出してくださると嬉しいやら恥ずかしいやらです。有り難うございます。


>>また全く不完全で目途もない民主主義制度が真理のような物言いや立場から他の制度を見下し批判する態度はやりすぎだと自分も思います。


 そうです、そうです。だからといってご推察の様にカースト制が良いと言っているわけではないんで、冗長で稚拙な僕のテクストから、微妙なところをご理解いただけたのは心強いです。偶然なのですが、パーリ文献では僕より遥かに碩学な ajita さんがジャータカ・パーリについて興味深い視点を提供してくださいました。ワニジャータカもこの新たな視点を含めるとますます面白いかも知れません。『付いて行くのがやっと』なんてことは全然ないですよ。むしろ僕の分かりにくいテクストを完結かつ明瞭にまとめていただいたみたいでとても嬉しく思います。


お二方へ。

 ajita さんが仰るようなヴァルナの持つ多分に大陸的であるというところですが、つまり仏教の説く時間的因果性を持たないんですね。ヒンドゥー的な、あるいはカソリック的な時間軸から飛び出した場所的悟性というんですか、円融されちゃうような場所に立った相互依存的な関係性を結ぶ場所に立っての平等観なんだと思います。人間個人としては熾烈な時間的な自己否定を経験すること無しに、懺悔して自分を投げ出して愛だの思いやりだのとスローガンを立てておけば、神やらブラフマンやらが常に常住の倫理的規範になって人間すら規制してくれる場所、こんなラクチンなのは無いですからね。勿論こうした思想構造に立ちながらも神に明け渡す自己の領域を拡大することを通して真摯に時間的な自己否定に立ち戻ろうとされるキリスト教徒の方はこれも多数いらっしゃると僕は信ずるのでこのモノイイは決してキリスト教ヒンドゥー教を否定しようという意図はありません。


というわけで『民主主義への懐疑』というのは熾烈な自己否定闘争を引き受けたこともないようなヤツが否定的に天皇制云々をするんじゃねぇよといういつもの僕の毒吐きです(笑)。


貴重なご論考とアドバイスを有り難うございました。

では。

お幸せでありますように。

鮎川龍人鮎川龍人 2006/01/05 15:28

こんにちは、くまりん様。

のんびりした雑談をエントリーにして戴いて光栄です。

建築の方は御専門のようですので、ちょっぴり遺構のことも書いて見たのです。

天皇制≒ヴァルナ的認識というのは面白いです。

あの不自由なご一族の生活をずばり表現しているでしょう。

上位者ほど自由がなくなる矛盾。

お読み戴き、感謝です。


ajita様。

はじめまして。

そして、あけましておめでとうございます。

ジャータカ・パーリについての考察、興味深いですね。

本能でコントロールされていない不完全生物である人類は、政治だの法律だの、つまらないツールを必要としているのですよね。

民主主義といい、君主政治というも結果を導くのは為政者の質の問題であるのも、ご指摘の通りです。

どのようなシステムを仮想しても“人を人たらしめる”枠を超えることはできません。

しかし、言葉というフィルター、概念というフィルターを通してのみ、世界を認知できる人間という存在は哀れではありますが、一方では自己という存在の不完全性を認知することもできるようです。

まぁ逆層の岩壁を登るがごとしではありますが。


トリル様、あけましておめでとうございます。

おー!さすがです。

あるべき民主主義を思考実験として仮想することは、なかなか興味深い作業です。

また、ヴァルナをライン+スタッフに還元して解釈するというのは秀逸です。

そういえば、現実のヴァルナってのは、職位と職能の混じったような機能を持っていましたですね。


ではまた、宜しくお願い致します。

トリルトリル 2006/01/05 22:08

レスありがとうございます、皆さん。

文体からして異質で頓珍漢な感想を上げて、恥を掻いてもいいや、と思っていたので大火傷せずに済みそうで一安心してます。

で、コリもせずまた感想上げるんですよ、私は。

駄目ですね、メリハリ無く垂れ流しというのは。


>ajita さん

ヴァルナが日本的メンタリティに合う合わないというのは今後の思考をナンセンスにしかねない位置と思うので、むしろ日本はヴァルナ的なモノを相対的に必要としない社会であると思うぐらいで良いんじゃないでしょうか?

多分人口も多く広域な近似文化社会を形成する場合に、ヴァルナ的な秩序は完全な競争を阻害する代償として、必要な部分にはあくまでも例外的な登用や相続に伴う混乱を避ける効果が期待できます。

日本はそこまでしてそうする理由が無かったり、もしくは村社会で問題が解決することが多かったと思います。


>ヴァルナを強固化しようとする志向性に、仏教は一貫して批判的であった


私の間違いかも知れませんが、注意点として仏教は当時の世界の有り様としてのヴェルナには功罪を認めていて必ずしも反対してた訳ではないと思い込んでました。

私は、仏教では、人として粗っぽく粗雑なあり方に対してヴァルナ的な枠をはめて対処するのではなく、他人の痛み、世界の痛みや悲しさに想いを巡らせる事で対処しようとしたのだと捉えてます。

修行の為の出家という方法は仏教以前からあったんですよね?

で、あるならばヴェルナ的枠組みから個人としてなら逃げ出す道も存在したので、大乗的にそれ以上を必ずしも求めてはいなかったのではないかとさえ思います。

この辺自分はくまりんさんのレスコメントと同じニュアンスになるのかな?


>政治は国民を幸福にするためにある


社会があれば政治は発生しその胎動が何処を指向するかは必ずしも同定できないと思います。

つまり黒猫白猫がネズミを捕る捕らない以前に有るわけです。

また政治の場合はネズミの有る無しに係わらず社会が有れば付随し消すことができません。

為政者は全てを語り得ず又その事を正直期待されてません。この辺は動物界と一緒?

政治は結果だけが全てですが、人社会の場合は為政者はその時々で必要なら受益者を変える事でその政治的安定度を維持してますから、為政範囲の全ての人間の漠とした幸福や安全は不安定と言わざる得ず、「政治は国民を幸福にするためにある」はスローガンか願望か有るべき姿でしかないと認識すべきだと思います。

動物界でもグループ構成員が多く派閥政治が入ると途端に複雑になって集団として自損行為が生まれると思います。


>鮎川龍人さん

>あるべき民主主義を思考実験として仮想


これは仮想でも何でもなく自分が完成者でなく将来の自分に未だ至らない者と思えば、よりよく工夫し努力し謙虚だろうと、そういう事です。


>ヴァルナをライン+スタッフに還元


将軍には将軍として期待される役割や部分が、バラモンやクシャトリアにも期待される社会的役割や部分が有るんですが、必ずしも皆がその地位や身分にあった適性心情や能力を持ち合わせているわけではないですよね。

武士は喰わねど高楊枝とか馬子にも衣装とも言いますし、義務や期待される有るべき姿というモノがある以上は人間は期待もするし期待に答えようとすると思います。

インド世界の近代化には避けて通れない問題ですが、西洋的概念にアレルギーを起こさず変化するのに結構重要な概念かも知れませんね。

前段で縦糸横糸で喩えたのもそういう解答を夢見た思考の航跡なんです。

野暮ったいのでこれ以上は各自が想像した方が良い結果を生むとして筆を折りますね。

ajitaajita 2006/01/06 23:23

トリル様


>私の間違いかも知れませんが、注意点として仏教は当時の世界の有り様としてのヴェルナには功罪を認めていて必ずしも反対してた訳ではないと思い込んでました。


仏教は出世間の教えですから、世俗社会が完璧であることはありえないという態度は当然です。しかしヴァルナの「功」を説くバラモン連中に対しては徹底的に「罪」を持ち出して反論しました。相応部経典や増支部経典のそこかしこにある激烈な表現は、自分が言われている立場(バラモン)だと想像したら、顔面蒼白になるくらい激烈です。「(ヴァルナを誇るバラモンは)犬畜生にも劣る」という表現はあちこちにあります。


やはりブッダは、「宗教的な邪見によってヴァルナを正当化する」というインド社会の病巣を徹底的に切開しようとされたのだと、パーリ経典全巻にもとづいて私は結論付けています。


>修行の為の出家という方法は仏教以前からあったんですよね?


はい。しかし、インド社会の主流派からは賎民扱いでした。そしてブッダは、出家沙門を賎民扱いするバラモンの意外とたいしたことない出自を伝承に基づいて徹底的に暴きたて嘲笑し、その行いの「犬畜生にも劣る」ありさまを糾弾して、グウの音も出ないほど叩きのめしたのでした。


ひとことでいえばブッダは、「彼が保つ道徳によって、彼の光輝はいや増す」と説いているのです。ヴァルナが社会で機能しているということは、世俗の問題であって出家は首を突っ込めません。しかし、誰かがヴァルナを「正当化」することは明らかな邪見です。邪見は、ブッダによって徹底的に粉砕されます。


*政治について


政治は国民を幸福にするためにある、というのは政治理念です。「為政者は全てを語り得ず…」は当たり前の話で、為政者の仕事の範囲で国民を幸福にしようと努力するのです。


「為政範囲の全ての人間の漠とした幸福や安全は不安定と言わざる得ず」云々というのはこの理念に対する批判としては意味がない(そんなの「僕とあんたは違う人間」という位の話で、それで理念が引っ込むなら、子供のけんかの仲裁も一切成り立たないという話になるんじゃないかなぁ)…と僕は思うんですけど、政治学の議論のルールはよくわからないので、間違っていたらお許しください。


では、お幸せでありますように。

トリルトリル 2006/01/08 2:28

>ajita様

>「邪見によって~正当化する」

中央公論世界の名著「初期仏教」なら読んだことがあります。

豊かなレトリックを交えてバラモン達の世界説明が全く理に合わないと指摘してたと思います。

私はそこに「現実に都合が良いからそういう制度を取り入れて利用しているだけであって、いい加減で偽善臭い言い訳するんじゃないよ」というニュアンスを嗅ぎ取っていたんです。

そこには明らかな偽善や邪見を排除する部分はありますが、既存秩序を否定する部分までは感じなかったんです。

つまり既存秩序は、偽善や邪見に支えられただけで成立していたわけではないと見なしていたからだと思います。

またそういうモノだけに支えられていたなら、その論理が瓦解すればヴァルナは無くなりそうなモノですが、そうではなかった。

私が使った「ヴェルナには功罪」というは個魂の輪廻的な意味ではなく、制度的長所短所という意味であるので、語弊があるなら置き換えて読んでいただきたく思います。


>政治理念

もし単に現象としての政治をいうなら、それが何処を向いてるか、思慮せずに善意的に解釈するのは間違いなく危険だと思ったんです。

まずはそれだけです。

むしろ「為政者はその時々で必要なら受益者を変える事でその政治的安定度を維持」とか「グループ構成員が多く派閥政治が入ると途端に複雑になって集団として自損行為が生まれる」という事が、単純な政治理念を阻害する現実として備わっている事を想起すれば、理念を語れば良しという風には成れないのです。

「政治は国民を幸福にするためにある」は表層をなぞるだけで言葉にする現実的意味がない、批判の対象でさえないという事でもあります。

理念としては分かり切った当然の事で誰も反対せやせんでしょう?

ただ自分はスローガンやプロパガンダ的なモノが単純化した粗暴な人間性を肯定増長するという経験は持ってます。

意図を悪意に受けようとする気もありません。

素直にああそうだろうなと当然思った上で、補足の必要性を感じたのです。


また偉そうに済みません。