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負け組チェックシート

熱出して寝込んでしまいました

f:id:lovelovebear:20080106145729g:image暮れからお正月にかけてのやるべきことをすべてこなして、さあこれから少しのんびりするぞと言うときに緊張が解けてしまった故か熱を出して寝込んでしまいました。5日の夜から猛烈に体温が上がってなんにもやる気がなくなって先ほどまで布団を被りっぱなし。頭を使う気もまったく起きない。年末からなんとなく考えていたアーガマの法の存在というブッダのことばに意図性を見いだすというインド言語学の伝統を敢えて避け、自性という記号化された変わりゆく本質を語源探求と論理学をもって普遍的で常住なるものに祭り上げた上で否定せざるを得なかったナーガールジュナの論述は、議論の対象としての思想と議論を維持しイメージしていくそれぞれの論客たちの態度によって連鎖の如く連続していく言わば時間そのものである議論の経緯を寸断し、議論を比縁性の場所そのもの移行した如何にもヒンドゥー的作業でもあるのだが、ブッダの五蘊非我の思想をヴァイシェーシカなど他学派との論争からアートマンは無いという無我の思想へと糊塗して行かざるを得なかった仏教のヒンドゥー諸派への議論での敗北が前提になっているならば、一人ナーガールジュナの背後に潜むヒンドゥイズムを論うよりも、ブッダの死と共にスタートした仏教全体のヒンドゥ化を洗いざらい俎上に挙げて考え直して行く他はあるまいと考えている。中観こそが正統な仏教などとナーガールジュナすら望まぬであろう権威主義と観念主義に落ち着いていられるほど僕は楽観主義者ではないし、学問は我々に対して安住の椅子を用意してくれるほど甘いものではないと思うからである。

f:id:lovelovebear:20080106145834g:imageでも今日はまったく頭がまわらないので言葉の遊びでお茶を濁してみることにする。その目的にピッタリの材料を発見してしまったからである。なにしろ頭がまわっていないので大してしてものも考えずにナーガールジュナのモノマネをして見ただけなので非礼はお許しいただきたい。その材料とは木走さんが取り上げた藤井厳喜氏の「負け組チェックシート」である。このシートの質問に答えることで「負け組」にならずに中流にとどまれる可能性を見いだせるそうだが、そもそも負けない可能性を示す(負けない根拠は示されない)だけだったら質問内容とその結果とにに関連性を見いだすことが出来ないレトリックに過ぎないというのが真っ当な論理学の世界だからこの本書いたヤツはバカだなと思いながらも、少なくとも質問に論理性があれば少しは藤井某なる著者を見直し、情感に訴える意図性を含んだ卑怯な質問であればこの藤井某を単なるバカとしてとりあえず今後は話題にしないことにしよう。どちらにせよ「勝ち組」「負け組」ということには僕は興味がないのでどうぞ頑張ってくださいというしかないけれども。あと残念ながら文字化けは木走日記のママでなんの操作もしていない。euc-jp でも utf-8 でもマトモに表示は出来なかった。MSDOS でも走らせれば見えるのかも知れないが益することないのでそこまでして確かめることはしなかった(笑)。

「負け組チェックシート」をナーガールジュナになったつもりでやって見る

<?>2005年9月に行われた総選挙で小泉自民党に投票した

f:id:lovelovebear:20080106145834g:image白紙投票をした。

<?>よく見るテレビはフジテレビ(フジ系列)である

f:id:lovelovebear:20080106145724g:imageよく見るとはなにをもってよく見るというのか?5分の番組を一日5本見るのと30分の番組を1本しかみないとしても後者が前者にもつ優位は時間の長さにおいて歴然である。仮に前者がNHKで後者がフジ系列だとしたら君よ、なんと答えようか?この問は回答者のテレビにたいする正確な意識をなにひとつ反映することがない愚問であろう。

<?>英語は苦手で、はっきり言って話せない。また、日本にいる以上、英語は必要ないと思う

f:id:lovelovebear:20080106145726g:image英語は苦手だが、日常生活するのに必要な程度は話すことが出来るがより詳しい議論をするのならフランス語のほうがわたしは好んでいる。日本にいる以上、自らの意図を日本語もしくはフランス語で説明してくれる英語圏のひとと話をするなら英語は必要ないがわたしの英語のほうが彼の意図性を説明する日本語やフランス語より優れているなら英語は必要不可欠である。それ以上でもそれ以下でもない。この質問はなにをその判断の基準にしようとしているのか?それともそれを推し量ろうとするトリックなのか?わたしにはまたも愚問である。

<?>郵便貯金をしている

f:id:lovelovebear:20080106145726g:imageいくつかの民間の銀行に口座を持つのと同様に郵貯にも口座を持っている。いくつかの決済を郵貯でおこなうがそれはネット系の銀行口座からの資金移動が簡便であると言う理由によるが、「郵便貯金をしている」という文脈に見え隠れする意図性のように積極性をもつものではない。ここまでの質問は極めて答えを誘導するような情感的な意図が背後に見え隠れする割には「負け組」に収斂させるような論理的必然性は見いだすことが出来ない。この著者は情感を頼りに論文を書き上げるような愚かな人なのか、あるいは情感に訴えることによって自らの意図に沿って回答する人を負け組へと収斂させる手法に論理を見いだして自分をその世界外存在として対置しているとするなら、それは既にアドルフ・ヒトラーの手法であってなんら新しさは見いだせない。それをあたかも自分の研究成果のごときに振る舞ってテクストを記述するなら学問の世界では大衆の無知を良いことに成果を横取りする泥棒のようなものであり、まさか学者ではないだろうとここで思う。

<?>できれば「週末起業」をしてみたいと思っている

f:id:lovelovebear:20080106145834g:image毎日の取り組みが起業行為そのもののつもりで真剣さを持つべきであると考えるわたしにどうして週末のみ「起業」をしてみたいと思うことがあるだろうか?

<?>Jリーグやプロ野球に、ひいきのチームがいる

f:id:lovelovebear:20080106145724g:imageはたしてプロスポーツのチームの存在述語として「いる」は相応しいだろうか?つっこみどころ満載の愚問だが仮に「いる」という述語が相応しいとしても女の子が変わればいつのまにか「ひいき」とは言えなくなってしまうクラブやバーを「ひいき」の店が「いる」というのは上野動物園の猿山は「ひいき」だが東山動物園の猿山は「ひいき」ではないと断言するのと同じくらい理性がない。しかし東山動物園には猿山は存在しないと思う。

<?>仕事以外でパソコンやけーたいを頻繁に使っている

f:id:lovelovebear:20080106145728g:image仕事以外に使わなければ一体なにに使うというのか?仕事で使うのは仕事のコストであり、仕事以外で使って始めてそのコストは「わたし」に帰属するから、「わたし」が使うことになるのである。ゆえに仕事で使うことは「わたし」が使うことにならないというのが正しい論理なのである。この質問は「仕事以外で上司に気を遣いますか?」というくらい馬鹿げている。

<?>「成功するための~」という類のハウツー本をよく読む

f:id:lovelovebear:20080106145724g:image「~生き残れるのか」という類のハウツー本を読む気が起きるかというのと同じくらい馬鹿げた質問である。いままでのような質問の羅列の答えを「~生き残れるのか」という類のハウツー本にまとめてしまう乱暴さが「成功するための~」という類のハウツー本をよく読んでいるにも関わらずちっとも成功出来ない多数の人々の愚かさを暴露して笑っているようなものである。読んだところで君は何を得るというのか?得たものは失わなければならないのが世界の唯一自立した法則であろう。しかるに唯一の自立などはあり得ないからこの議論は既に寂滅している。

<?>「オンリーワン」や「個性的」という言葉が好きだ

f:id:lovelovebear:20080106145834g:image「オンリーワン」や「個性的」という言葉は語源的には人は好きであるべきである。しかし君のような愚か者が言葉に意図を含め流動する象徴性の今とのズレを指摘して笑うのである。愚か者の意図を人はどうして好きであると答えるだろうか?わたしに隠し事はないよ、むしろ秘密は君のほうにある。

<?>公務員がもっとも安定した職業だと思っている

f:id:lovelovebear:20080106145724g:image「公務員がもっとも安定した職業など考えてはいけない」という改革派の主張に反して有史以来公務員はもっとも安定している職業なのである。なぜなら安定しているという形容詞は不安定なという対立的要素が想定されなければ存在しないからである。そして多数の不安定な職業を五官と推測によって人類が知り得たからこそ「公務員がもっとも安定した職業」という過去に対する観察結果が得られ尤もらしく語られるのである。人は議論をするとき、過去のことは過去の時制で、現在のことは現在の時制で、未来のことは未来の時制で語ることが出来るひとのみ議論するに値する人である。この質問は人々の過去の時制への認識へ未来の時制での推測を強引に割り込ませて混乱を誘う卑劣な質問である。質問者は論理学を理解しないか卑劣な意図性をもつかのどちらかである、ゆえに議論するに値しないので「公務員がもっとも安定した職業だと思わない」と答えておけば十分である。

<?>結婚は二人に愛があることが第一の条件である

f:id:lovelovebear:20080106145726g:imageいったい一瞬でも愛のない結婚などどこの世界に存在するだろうか?過去の政略結婚と言えども一瞬程度の愛ならその時間の推移の中に愛はあるのである。それにしてももっとも強いのは自己愛なのである。自己愛のない結婚など存在しないばかりか自己愛のない離婚も存在せず、自己愛のないマスターベーションすら存在しないくらいこの世は人々の自己愛に満ちている。否、むしろ自己愛のみが渦巻いていると言っても過言ではなかろう。それほどの自己愛の前にどうして結婚に条件など必要であろうか?

<?>こだわりのブランドがある(服、時計、バッグなど)

f:id:lovelovebear:20080106145724g:imageこだわるのはブランドをおくりだすほうの勝手である。消費者はそのおくりだすほうの何らかの意志とその連続としてのこだわりにある種の信頼をおくのである。その結果がブランドという記号の元に収斂される。この時間的関係性は不可逆である。消費者がブランドにこだわるという行為は先人たちの経験値にたいする推測値による信頼性を言っているの過ぎず、連続した信頼性の提供を因とする果としてのブランドという時間的関係性を逆転するものではない。従って「こだわりのブランドがある」という命題は自立しない、ゆえに存在しない命題である。

<?>海外旅行にも行くが、どちらかといえば国内旅行のほうが好きだ

f:id:lovelovebear:20080106145728g:image海外旅行には行かないが、国内旅行のほうが好きだという答えが簡単で良い気がするがそれではウソになる。しかし国内旅行で書生のようなホテルのアテンダントに会えばタイのホテルが恋しくなるし、宮元博士のようにインドでどこの飲食店が衛生的かを判断する特技がないわたしだけれども、フランスではどこのビストロが美味しいかを間違いなく自分と同行者の希望によってかぎ出すくらいのことは出来るので、ニースでフェラーリでも借り出して海岸線からリヨンへドライブというのも楽しい。しかし雨でも降ってしまえばまるで歯痛を我慢してボキューズでディナーなんてことになるのでメルツェデスのほうが快適だ。最近は新幹線のグリーン車にも子供が増えて騒がしいのが難点になってきたけれど誰にも干渉されない移動の時間は思いの外仕事が進んだりする。やっぱり海外も国内もどちらとも言えないよね。海外旅行にも行くが、どちらかといえば国内旅行のほうが好きだという文脈にブランド志向を持たせようというのは君よ、おろかなことだ。国内旅行のほうが好きではない。

<?>ワード、エクセルはできるがパワーポイントはできない

f:id:lovelovebear:20080106145726g:image以前大学や研究機関がオープンソースプログラムを見直し移行していこうとするとき、マイクロソフトが現役の大学生を対象にワード、エクセルのコンクールを開催して失笑を買ったが、パワーポイントのマニュアル、すなわち最もパワーポイントが有効である筈の仕事をマイクロソフトのエンジニア達は Macintosh 版の Adobe Illustrator で行いヘルプファイルとしての pdf 化まで Illustrator で一貫していることを無防備なのかそれともエンジニアの良心なのかは断定し難いにせよパワーポイントのヘルプファイルのクリエイターを参照すれば少しだけ他人より好奇心のあるひとなら誰でも確認することが出来た(現バージョンでは出来ないかも知れない)ものである。ワード、エクセルが出来て鼻をヒクヒクしているひとはキャリアを積んでいるわけではなく単なる事務職へまっしぐらという具合だから(いまどきそれがキャリアになるなんて錯覚しているバカはいないと思うけど)どうぞ頑張ってくださいと労うしかないが、パワーポイントでするべき仕事は Illustrator でやったほうが遙かに旨くいくことはパワーポイント自身が教えてくれているのにどうしてパワーポイントをできるようになる必要があるのだろうか?羊頭狗肉な愚問である。

<?>日本車より外車のほうが好きだ

f:id:lovelovebear:20080106145724g:imageカローラよりはシビッククーペが好きなんだがシビッククーペよりボルボの旧40シリーズが良かったりして、ボルボの新型40の特にシャシーが気に入っている。でもラクチンなのは結局レクサスだったりしてな。こういうクルマはいったい日本車なのか外車なのか?

<?>女性は身だしなみとしてお稽古事(お茶、お花、ピアノ)の一つぐらいはすべきだ

f:id:lovelovebear:20080106145729g:imageみだしなみならお稽古事よりも「~生き残れるのか」というような藤井某の作文でも斜め読みして妄想を膨らませた方がこうした作文書きに喜ばれもするし、会社では負け犬街道まっしぐらのオッサン上司にはインテリと勘違いもされて、さらにご自分は悩まなくてもよい問題に更に悩んでお肌の美しさを保つのにもいいかもよ。こんなに楽しいお稽古ごとがあるのにわざわざお茶、お花、ピアノの一つぐらいとてすべきではない。

<?>一生独身でいる生き方もあっていいと思う

f:id:lovelovebear:20080106145716g:imageそろそろ嫌気が差してきた。プラトンの『国家』から引用するのに止めておく。ああこれも宮元先生の受け売りかぁ。

『どうですかソポクレス』とその男は言った。『愛欲の楽しみのほうは?あなたはまだ女と交わることができますか?』ソポクレスは答えた。「よしたまえ、君。私はそれから逃れ去ったことを、無上の歓びとしているのだ。」(プラトン著・藤沢令夫訳 『国家』(上) 岩波文庫、21ページ)

一生独身でいる生き方があっていいと思うならソポクレスのようには行くまい。

<?>教育にお金をかけるのはムダだと考えている

f:id:lovelovebear:20080106145724g:image勝ち組になるためにお金をかけるのはムダだし、このような質問を纏めて「新・階級社会」neo class-society を論じるような頭脳を作るためならムダな投資に終わるだろう。しかし君よ、「新・階級社会」neo class-society であろうが、負け組であろうが人は考え思索するのである。思索のすえ生は苦であり老死は苦であり執着は苦であること人は識り、その苦に左右される自己は我がものではなく無常であると人は識る。そうした真実を見たとき生存への欲は滅ぼされ一切の苦は消え失せて戯論は寂滅するのである。いまだかつて聞いたこともない法において人に眼が生じ、智が生じ、光明が生じる、よって「新・階級社会」neo class-society 、はい頑張ってくださいと言うしかない。そのために教育にお金を掛けるのならこれほど有益なことはないではないか。よって教育にお金をかけるのはムダだと考えない。

<?>ホリエモンや村上世影氏のようなビジネスのやり方には賛成できない

f:id:lovelovebear:20080106145728g:imageビジネスは元来それぞれの人が自分勝手に、ただ自分の金銭的成功の為にのみやるものであるから世俗法という制約はあるものの、それから逸脱しなければそれぞれの人が自分勝手にただ自分の金銭的成功の為にのみやるものであることに疑いを挟む余地はない。どうしてその他人のやりかたを賛成だとか反対だとか言うのであろうか。君よ、「~生き残れるのか」というような作文も君の勝手なビジネスであろう。はい頑張ってくださいと言う以外に(作文の出来不出来を論じるのはともかく)どうして反対だの賛成だの言えるであろうか?

<?>成果主義は日本人には合わない

f:id:lovelovebear:20080106145729g:image思えば戦国時代も徳川幕府も明治以来の軍国主義も現場ではいつも成果主義ではなかったか?捕虜の首を何個連続で切れるかの成果を毎日新聞が絶賛し、皇軍大進撃のウソの成果を朝日新聞が叫び続けてからいったいどれだけの時が流れたというのか?その無反省からか珊瑚礁にキズをつけて、北朝鮮から蘇我さんの住所を教えて貰ってまで特ダネにしなければ記者として一人前ではありえず、放火した建物を自ら取材して視聴率に一喜一憂すようなマスメディアの体質は無反省という絶大なる成果を含めてどこが成果主義ではないというのか?行政がからむ大型の設備投資ははっきり言って避けたいと社員に明言させるような巨大鉄道会社は 60km/h の速度オーバーで曲線に進入し107名の死者と555名の負傷者を顧みずに数分の遅れを取り戻すことを運転士に強要する。これのどこが成果主義と合わないのか?60%程度の構造コストで低価格マンションを販売し続けた会社やそれを指導し続けた研究所もまた素晴らしい成果主義のたまものであると言える。成果主義はこんなにもピシャリと日本人と共に怪物のように歩み続けているではないか?少なくとも寿陵余子が苦しんだ邯鄲の歩みよりはずっと自家薬籠中のものとしているように見えよう。どうして成果主義は日本人には合わないなどと言うことが出来ようか?

ナーガールジュナには謝らなきゃ

f:id:lovelovebear:20080106145729g:image結局このチェックシートに応えて見てますますこの本を読みたくなるということはまったく有りませんでした (笑) がこの人もビジネスなんでしょうからあんまり邪魔をするのも失礼ですな。しかしこんな作文の作者よりもナーガールジュナには申し訳のないことをしました。おそらく彼が今の時代に生きていてこのチェックシートを見ても僕がやったように理屈を並べることはしなかったでしょう。おそらく「フン」と一別して破り捨てたに違いありません。少なくとも僕は少しは面白おかしく書いてやろうという煩悩が働いて仏教では議論する必要のない、もしくはしてはいけないとされていることまで論じてしまいました。しかしそれにしても一応は仏教の立場から「○」と「×」を決めて行きましたが20項目中「○」は0。だけど中流にとどまろうが、転落しようがどちらでもよいこと。そんなことを思い廻らし時間を費やすのははっきり言ってムダです。だからこの本を読む時間は全くのムダ。負けて全くの風流ということでこの話題は、はい、おわり。

元記事(ngp-mac.com/kumarin)へのコメント

Kumachan’s Web Annex DiaryKumachan’s Web Annex Diary 2006/01/09 1:09 type »Trackback

負け組チェックシート

たまに見ているBlogの「くまりんが見てた!」に情報が載っていた「負け組チェック…

ajitaajita 2006/01/10 0:05

くまりん様


>ブッダの五蘊非我の思想をヴァイシェーシカなど他学派との論争からアートマンは無いという無我の思想へと糊塗して行かざるを得なかった仏教のヒンドゥー諸派への議論での敗北…


素朴な疑問なんですが…


なんで「負けた」なのでしょうか? 


僕が知っている「無我」説は「我は成り立たない」という非常に分かりやすい教えです。色を見ても、受を見ても、心を見ても、法を見ても、どうやっても「我は成り立たない」ことに納得するのですから。


「我」説は、「我」の定義からして成り立たない、というのは別になんの矛盾も思いつかないのです。輪廻というのは、「心という流れ」に気がつけばふつうに納得できるし、輪廻という現象がなんら「我」を要請しないことは、「心という流れ」であると分かれば、アホらしいくらい当たり前のことです。


だいたい、非我も無我も原語は同じですから。ブッダは別に漢文で議論したわけではないし。「我」の定義は当然、当時の沙門バラモンにリサーチしたものでしょう。じゃないと議論がなりたたない。で、なんで「負ける」のか分かりません。


「我」の定義がインドで歴史的に劇的に変わってしまって、(ブッダではなくて)後世の仏教徒が、その定義の変化に対応できなかったんでしょうか? 僕は、仏教が「負ける」としたら、そういう原因しか考えられないのです。


では、お幸せでありますように。

鮎川龍人鮎川龍人 2006/01/10 8:04

お風邪を召されたのですか?

偶の高熱は、体内の不用な雑菌やガン細胞が死んで良いそうです。

ゆっくりお休み下さい。


ところで木走さまのエントリは私も大笑いさせて戴きました。

まったくユーモアのある方です。

日本に生まれて日本に住んでいるだけで、世界の60億の人口の中では勝ち組なんですよね。

くまりん様のエントリも愉快です。

特に英語のところが愉快でした。

いつの時代も、言葉が通じないところでコミュニケーションを成り立たせることが、一番重要ですもんね。

これは日本国内でも同じですね。


ではまた、お元気になられますように。

トリルトリル 2006/01/10 18:44

人の世は、概念を正しい論理故に受け入れられるとは限らなくて、どちらかというと情実や願望によって支持したりします。

アートマンは無い」は結局人の心の弱さ故に広く世間的には耐えられない発見ではなかったか?と思います。

kumarinkumarin 2006/01/05 14:42

ajita さま。

 当然 ajita さまからこのような文脈のご批判、もしくはご提言があるのではと思っておりました。今回のわたしのテクストは以前からの考え方を変更したものではございません。従ってajita さまの仰る「無我説」をブッダの弟子達への刻印によって初期仏教が採用し続けようとし、それが正しい仏教理解であることにも異論はありません。ならば何故仏教がヒンドゥー諸派との議論での敗北というような提言を敢えてしたのかというところに今年のわたしの抱負があります。これはひょっとするとマニカナエムさまのご成果を少しお待ちして、わたしのほうで纏めたことと比較検討していく作業になるかもしれません。まだアタマがボーッとしていてフラフラしており、うまくまとまる自信がないのですが、いずれ正式なエントリにはするつもりではあるのですが、殴り書きのようになっちゃうかも知れませんがこのエントリの一段目を廻るわたしの考え方の背景を綴ってみたいと思います。また宜しくご批判下さいますようお願いいたします。


 インド思想がある時点から開祖を頂く思想を含むようになったとき、すなわち仏教と言う類い希な独創的思想が誕生してから聖典の「ことば」には常に一切智者であるブッダという〈人〉が想定されており、そこにはブッダの説いた教えの核心である〈思想〉を基準にした TPO での〈意図〉が予想されるようになりました。それ以前のヴェーダの場合、言葉の背後には「人」が存在しないから、本来的に「意図」を問題にする必要はなっかたのです。仏典における言語表現の決定要因は、その指し示す対象の有無のみならず、話し手の意図 (prayoktrii vivak.saa) にあるとされ、意図はときに通常の語用 (laukikii vivak.saa) を外れた用法をも正当化することになります。ブッダが時には倫理的要請から積極的に aatman を説きながら、それは五蘊において我がものではない所謂外道、バラモン思想の aatman とは異なっていることを、 aabhipraayika (意図性)、neyaartha (未了義)、という概念を用いることによってまずはパーリ三蔵はすべてブッダのその人の口から発せられた「ことば」であるとする解釈が循環参照的に整合性を持つようになると考えることができると思うのです。そうした仏弟子たる三蔵編纂者たちの仏典への態度は已にマハーパリニッバーナ経 パーリ語ヴァージョン 第4章 第11偈『比丘たちよ。それ故に、~~ その文脈を、経典にひき合せ、戒律に参照吟味してみて、経典に合致し、戒律に一致するならば、結論としてこのように決定すべきである』に見ることが出来ますし、それが説一切有部のヴァスミトラによって意識され『異部宗輪論』で宣言された了義・未了義 ( niitaartha/neyaartha )による aagama アーガマの選択・峻別の思想へ発展していくのですが、ダルマキールティ はその話し手の意図 (prayoktrii vivak.saa) におけるこの vivakssaa を言葉と言葉の第二次的意味 (lakssa.naa )をつなぐ hetu 原因とし、縁起論に基づく比縁性へ収斂させ仏教論理学へ積み重ねて行こうとします。マニカナエムさまのアドバイスによれば vivak.saa と lakssa.naa については後代ニヤーヤ学派でも論じていて何がどうなっているのか、そのうち仏教論理学との論争をチェックして下さるとのことです。


 こうした観点から無我説を説くパーリ律蔵マハーヴァッカ 第1章 6 初転法輪 38 ~ 41を再度検討いたしますと ajita さまが仰るように『色を見ても、受を見ても、心を見ても、法を見ても、どうやっても「我は成り立たない」』という趣旨以外つまりブッダは『五蘊のいずれもが我がものではない』という論旨以外語っていません。ブッダの〈意図〉が自己は存在しないというところに想定されていないのは明らかです。しかし仰るようにブッダは漢文で法を説いた訳ではなくマガタ語で説いたわけですからことばはひとつサンスクリットで言えばアートマンとアナートマンで同一なわけです。同一なわけなのですがこれをサンスクリット文法学的に見ると否定辞 a- が加えられた時には二通りの意味の否定(prati.sedha)が想定されます。一方はその名詞によって指示されているものが存在するのを否定する動詞否定のケースと、もう一方はその名詞そのものを否定する名詞否定のケースです。これらのケースをそれぞれアートマンに適用させていえば、〈アートマンが存在しない aatmaa naasti, naatmaasti, naastiy aatmaa 〉というのは前者の動詞否定であり、絶対否定 (prasajyya-prati.sedha) と定義され、〈アートマンではない naatmaa 〉というのは後者・名詞否定であり、相対否定 (paryudaasa-pati.sedha) と定義されます。これらの定義は、ディグナーガ以降は仏教論理学上の重要な規定を伴った用語として採用されます。ここで、〈アナートマン an-aatman 〉を前者で解釈する場合には、〈アートマン 〉は存在することが否定されているだけで、相対的に他のものの肯定を含んでいるわけでは全くないという意味において絶対否定なので、〈アートマン 〉は全く存在しないという主張になりますが、後者で解釈する場合には、あるものを〈アートマンではない 〉と主張しているだけで〈アートマン 〉の存在を否定することにはなりません。


 宮元博士の言葉を借りれば『ゴータマ・ブッダは、この、自己は世界外存在であって知ることが不可能であり、世界の何がしかを自己だと見るのは最悪の錯誤だとしたヤージュニャヴァルキヤの説を、もっとみずからの実存に引きつけて、五蘊非我ということを強調しました。 – 中略 – 「私」「の」「身体」および「私」「の」「心」ということばの構成を見れば一目瞭然のように、「の」という所有を示す助詞が介在しているがゆえに、「私」と「身体」および「心」とはまったく別物なのです。これが分からないと、私たちは、自分の身体あるいは心を自分の本体、すなわち愛おしくあるはずの自己だと錯覚してしまいます。これをゴータマ・ブッダ流に言えば、執著の最たるもの、つまり我執に他ならないのです。なお、ゴータマ・ブッダは、だからといって、自己を探求しようなどとはまったく考えません。「自己」ということばを、ゴータマ・ブッダは、常識的な文脈では何の注意も施さずに用いていますが、「自己とは何か」という、「自己」ということばを主語にして立てられる、決して経験的な事実から出発し得ない議論に首を突っ込むことはなく、また、弟子たちにも、そうした議論にかかずらうことを戒めました。(仏教かくはじまりき パーリ仏典「大品」を読む p96)』ということです。 an-aatman ということばを発するブッダの〈意図性 aabhipraayika〉は後者で解釈する相対否定 (paryudaasa-pati.sedha) としての an-aatman でありその an-aatman の vivak.saa は「五蘊のいずれもわがものではない」であって、倫理的要請として aatman を語るときにのみ通常の語用 (laukikii vivak.saa)で lakssa.naa として想定されて aatman は語られます。その aatman は所謂外道、バラモン思想の aatman とは異なっており、「自己とは何か」という、「自己」ということばを主語にして立てられる議論は字義通りの意味が neyaartha (未了義)として捨て去ら (mukhyaarthabaadha) れ、二次的意味 lakssa.naa が実質的に一次的意味(バラモン思想の aatman )と切り離され、発話者ブッダの意図 (prayoiana) に従いながら、排中律を守って「アートマンでないならば非アートマンか」というように厳密な論理展開を重ねていきさえすれば絶対否定 (prasajyya-prati.sedha) から誘発される絶対無の思想に陥ることなしに、倫理的要請たる善業の積み重ねと連動しながら時間的に不可逆な縁起論に添って苦を滅していくブッダの教えを実践していく主体的な思想の根拠となると思います。そういう意味においてはブッダの無我説は非我説と翻訳するのがブッダの意図に適っていると考えるのです。


 絶対否定 (prasajyya-prati.sedha) の〈アートマンが存在しない aatmaa naasti, naatmaasti, naastiy aatmaa 〉という思想は「五蘊のいずれも自己でないならば、どこにも自己は存在しない」という論理展開を前提に所謂後に大乗思想へと連なる「無我説」へと展開します。その思想が見られる最古の文献はこれも宮元博士の説を採用すれば『ミリンダ・パンハ』(ミリンダ王の問い)ですが、そうした思想の変遷こそヴァイシェーシカ派との議論ではなかったのだろうかと思います。暗黙の了解の自己を立てるヴァイシェーシカ派からみれば「アートマンでないならば非アートマンか」という排中律を守る仏弟子の自己論への無記は格好の攻撃材料だったに違い有りません。執拗に世界外存在としての自己以外に誰が解脱するのかという攻撃は為されたに違い有りません。(具体的な論争内容は今後の課題ですが(^^ゞ)前述の宮元博士によればヤージュニャヴァルキヤは自己に執著したわけではなく、自己でないもの(非我)を自己だと執着することが迷妄の根源であり、つまりは完全に倒錯したものである我執(自我意識)を捨て去ることこそが肝要だと言っていたそうですから、その後継者たちと仏弟子たちの排中律を守る仏弟子の自己論への無記との議論は仏教の側にとっても困難を伴ったのではないかと思います。そして対抗論として浮上したのが絶対否定 (prasajyya-prati.sedha) の「無我説」だったと思うのです。この「無我説」に立てば十二支縁起や業法輪廻が論理的に整合性がとれなくなります。そしてこの絶対否定の「無我説」と十二支縁起説を整合させるためにナーガールジュナは空性を説かなければならなかったのではないか?後に大乗教徒を僧伽に抱えることになる説一切有部がどうしてあれほどまでに業法輪廻を強調しなければならなくなったのか?そういう意味で仏教史をゆたかにすると同時に仏教の混乱のはじまりでもある絶対否定 (prasajyya-prati.sedha) の〈アートマンが存在しない aatmaa naasti, naatmaasti, naastiy aatmaa〉という思想をわたしは仏教の「負け」と書いたわけです。もちろんブッダが生きていればこのようなことはなかったに違い有りません。しかしのちにアシュヴァゴーシャが嘆き涙したようにすべてを成し遂げた幸あるお方も生ずる性質のものは滅する性質のものであるという自身の発見した真理の法則を超えることが出来ませんでした。その時点でブッダは議論に参加することも無記で通す意思表示をすることも出来ませんでした。


 こうした vivak.saa と lakssa.naa についての検討はアビダルマの積み重ねへと連なる『いまだかつて聞いたことのない法において』というダルマの存在を示唆するブッダのことばとその周辺の ruupa、svaruupa、svabhaava の用法についてや、それらのダルマが認識されるならば認識主体は外在しなければならないので、その根拠となるヤージュニャヴァルキヤから批判的に継承したであろう世界外存在の認識主体としての自己の周辺も含めて検討しなければならないと考えています。


鮎川龍人さま。

 最近はイベントが終わると気が抜けて熱が出たりします。神々がまぁやすみなさいよと言ってくれているのだろうと思うことにしています(笑)。

 木走さまのエントリは面白いです。ひょうひょうとやってらっしゃるし、メディアの現実に対する視点は、シリアスなテクストもおふざけのテクストも実は批判の視点だけはいつも定点観測でブレがないところが唸らされますね。それに対してわたしのほうはどうも政治というとどうせみんな自分の為にやってんだろ!というような冷めたところがってオチョクルような悪文になってしまうのがちょっと情けないか(^_^;


 

 それより先生の「exclusiveな国を作ろう!」には非常に感銘しました。政治もちゃんと真面目に語らなくてはいけないときもあるとあらためて思いました。コメントつけようと思ったのですがなにしろこの風邪で・・・。暫く上の方に掲げておいてくださいまし。


トリルさま。

>>「アートマンは無い」は結局人の心の弱さ故に広く世間的には耐えられない発見ではなかったか?


ajita さまにもコメントしましたようにかのブッダは「アートマンは無い」などと一言も言っていませんので・・・・

しかしブッダが言ったように「わたしのこころと身体を構成するものは一つとして我がものではない」のほうがより現実的で世俗的には耐えられない発見なんでしょうねぇ

v

みなさま、コメントありがとうございました。

では。

お幸せでありますように。

ajitaajita 2006/01/13 0:54

くまりん様


お風邪長引いているようですね。早く病の苦しみがなりますように。

病いの苦しみを観察することで、ますます智慧が開発されますように。


僕の抱いた疑問は、『春秋』(春秋社PR誌)2005年12月号、2006年1月号

に掲載された石飛道子先生のエッセイ「ブッダは輪廻を説かなかったか 仏教と輪廻」を読んで、だいぶしっくりと解消されました。


では、お幸せでありますように。