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一生懸命ということ

一生懸命の人が正当に評価されるべきである

 耐震診断などという仕事をして複合ビルの裏側などを歩いていると思わぬ光景に出くわすことがある。最近も某ショッピングセンターの倉庫エリアでアパレル系の女の子が涙ながらに上司に談判しているシーンに出くわした。立ち止まって聞き入るわけにはいかなかったけれど耳にとまった言葉の断片から推測するとようは「一生懸命やっているひとと、適当にやっているひとのその上司の評価が公平でなく、一生懸命やっている自分は正当に評価されていない」というようなことだったと思う。上司氏は対応に苦慮していたようだがひょっとすれば自分も上司に正当に評価されていないと感じているのかも知れない。恐らく流通やサービスの現場のマネージャーというのはこういう問題にいつも直面しているのではないだろうか。僕の所属する業界ではこういう問題は起きない。いや、起きないと言うよりそれぞれが自分の胸にしまい込んで諦めているというのが本当かもしれない。流通やサービスのように現場の構成人員が若いとストレートに爆発するのだと思う。そういう環境で成果が上がらない人の一生懸命さを発見できずに的確な指導と教育が出来ない人はマネージャーとして失格だ。しかし当たり前のことだし、その当たり前が意外と守られていないのが「一生懸命の人が正当に評価される」というまるで小学校で教わるような倫理的命題だろう。

 能力主義でも死語になってしまったかもしれない年功序列でも制度の抱えるディレンマを暗黙の了解元に受け入れて生きるということは、それがそのまま最大の自己防衛になっているかに見える。新しくて公平なスローガンであった筈の能力主義は組織の要求水準を僅かにでも上回りさえするほどの成果が上げられるなら一生懸命やることを強制するわけではない。どうも最近「一生懸命」というのをバカにするような風潮が目立つ気がする。しかし能力主義の前提になるのもアメリカプロテスタンティズムの勤勉さ、マクス・ミューラーの言うところのアメリカ資本主義を発展させた倫理そのものではないだろうか。だとすれば書生のような意見で恐縮だが「一生懸命の人が正当に評価される」という倫理的原則はバカにされてはならないし、それどころか基本倫理として生きていなくてはならないはずだと思う。一生懸命やっているのに成果があがらず評価されないのでは組織にも国にも未来はない。

気分の良い部下ほど良い成果をあげる

 そんなことを考えていたらもう大昔に読んだ小林薫氏の訳で Kenneth Blanchard とSpencer Johnson という人の 『The One Minute Manager (和名=1分間マネジャー―何を示し、どう褒め、どう叱るか!)』という本を思い出した。「気分の良い部下ほど良い成果をあげる」という命題を原理に据えて「—何を示し、どう褒め、どう叱るか!」という方法論を僅か100ページに明瞭に簡潔にまとめた好書だったと思う。そんなわけで Amazon を探したらまだちゃんと健在で流通業やサービス業の自己啓発の本としてベストセラーになっているようである。この書の根底には「一生懸命の人が正当に評価される」という倫理的原則がプロテスタンティズムの勤勉さ、寛容さとして貫かれていると思う。一人で仕事をしている人はご自由だと思うけれども少なくとも組織の一員として働いている人は成果さえ上げればどんな態度でも良いような風潮は歓迎するべきものではない。成果という個人と組織に還元されるものを個人レベルのみで完結させてしまうあまりに勝手な個人主義だというものだ。それに人間はいつもそのように強くいられるほど賢明ではないと思う。倫理的要請はいま現在に留まり完結するものではなく未来に渡って人々に希望を与えるものだ。「一生懸命の人が正当に評価される」とは「一生懸命の人は良い結果を生むだろう」という未来への希望に連なる。それは組織に還元されながらも自己にも還元されるものだ。仏教の輪廻転生もまさしくそういう未来への希望へ連なる倫理的要請だと思う。