KumarinX Kaneko Ryogen Jean Michel Kaneko Photography MacOSX
読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ブッダ論理学五つの難問

Culture 仏教

ブッダ論理学五つの難問

 うーん、うちの読書のエントリはアマゾンと直結している(*1)のでアマゾンのコンピュータがこの石飛道子氏の「ブッダ論理学五つの難問 (講談社選書メチエ)」を自動的にうちのサイトのお薦めとしてピックアップしてくれています。実は僕自身もこの本をちゃんと取り上げようと去年から思ってはいたのだけど未だに実現できていません(^^;。そこでとりあえずこの本について昨年の12月にマニカナエムさんこと石飛道子氏ご本人のブログブッダ論理学決算報告: 管理人エムのカレーな一日のコメント欄での僕とマニカナエムさんとのコメントラリーを紹介します。このあと場所を旧「くまりんが見てた!」に移して話はウッディヨータカラとディグナーガの論争などへと盛り上がりを見せたのですがこちらのほうはサーバー障害で無くなってしまったのが残念です。Google のキャッシュにも残ってないんだよなぁ。

以下、ブッダ論理学決算報告: 管理人エムのカレーな一日より引用 - - - - - -

先日はコメント有り難うございました。

「ブッダ論理学」大変に画期的なご研究成果だと感じております。

 一つは今までの昨今の研究が認定的 (constative) な文献学的方法で〈理性的ブッダが説いた哲学としての仏教〉という理念を極端に推し進め、曖昧さが排除され明晰判明となった〈仏教〉という認識の観念をもって信仰体系そのものを批判しようとする試みであったため、輪廻や業など所謂形而上学的な問題が排除されてしまったうえに更に観念的になってしまったことが否めないのに対して、研究と対象との転移的関係をその行為の遂行に関わりながら仏教を明らかにしていく立場としての遂行的研究 (performative scholarship) がなされ、パーリ仏典を全て仏説とする前提のもとに〈理性的ブッダが説いた哲学としての仏教〉がいちど木村泰賢博士と反対派の和辻哲郎博士や宇井白寿博士の議論まで押し戻された上で、新たな地平で豊かな構造とともに明らかにされて提示されていること。

 二つめは「十二支縁起はブッダの形而上学」との解釈を示されたこと。(一)については宮本啓一博士のご研究についても言えるのですが、わたしが抱いていた宮本博士の主張に対する疑問 -- (博士のご主張には大いに啓蒙され賛同して支持する部分が多いのですが、パーリ仏典を全て仏説とするとされているのにもかかわらず、ご自身が前世の想起を体験されなかったことから、仏典の不可思議な記述部分の解釈が左右されブッダが成道時に前世の煩悩として想起した無明と行などを、「超常的な洞察力などとする神秘主義的な考え方」として否定されているのは如何なものかと思っておりました )-- を十難無記のアーガマの構造のなかでの位置づけを新たに提起され「十二支縁起はブッダの形而上学」とされることで、宮本博士に代わって論理的にも哲学的にも明らかにされている(少なくともわたしにとっては。それと宮本博士の新刊はまだ机の上で積み重なっていて未だ読んでないのですが)ことです。

 それのみならず「十二支縁起はブッダの形而上学」は仏教の発展と変容を考える上で非常に重要な意味を持つものだと思います。なぜならパーリ仏典を含む口伝が記述されたものに該当する初期仏典は、仏伝と言うよりはブッダと出会うことによって人生をコペルニクス的に転回し得た様々な感受性や能力をもつ声聞たちの後世へ刻印(勿論彼らに刻印したのはブッダ自身なのですか)であると言えるので、時には矛盾する様々なその刻印の変容と思想分化の源流は「十二支縁起」に求めるべきであるという論拠を補強し、後の部派、大乗と連鎖する仏教思想の変容の課程の見通しをより良いものにしてくれるのではないかと思えることです。そのためには後に分化していった思想をもとにブッダの刻印→それを直接受けた声聞による後世への刻印としての初期仏典の周辺は「十二支縁起はブッダの形而上学」とセットでより検討するべき課題が残されているように思います。

 方便心論のご研究成果も非常に刺激されます。ナーガルジュナの思想を既定の路線である〈無自性〉からではなく〈論理〉から切り込んで行かれたことと、ご成果の方便心論の訳文はナーガルジュナが大衆部の〈非時間的な世界〉と〈時間的な世界〉の二世界観から出発しているのではないかということを示唆させてくれます。ショペンが言うところの『党派心の強い説教術を持つ小さな戦闘的集団の一員で』あるナーガルジュナは「四方僧伽・全教団」に制約される仏教から飛び出してしまっていることを推測させますが、その後の中観派の形成と彼らがあくまで「四方僧伽・全教団」に制約される仏教のなかで論争をしていたことを考えますに有部との熾烈な論争もあくまで「四方僧伽・全教団」に制約される仏教のなかで行われなければ不自然だからです。岡野潔の「マハーヴァストゥ」「ラリタヴィスタラ」の研究成果と組み合わせていくことで、ナーガルジュナと大衆部の思わぬ接点やら、あるいは有部律と摩訶僧祇律のそれぞれの破僧定義や他部派で出家した比丘に対する処遇などの連鎖の中でのナーガルジュナの活動なども理に適って見えてくるような気がします。(しかし外れたら研究時間の大いなるロスになるわけですが - 笑 -)

 本当は自分のブログで書こうと思っていたんですが、(勿論、拙ブログでももう少し詳細に書いて宣伝させていただきますけど、)

>>無視されているのかもしれないわ(そりゃ、ありうる)。

>>それとも

>>感心されているのかもしれないわ(そりゃ、ない)。

というのに釣られて私見を述べさせていただきました。マニカナ エムさまは哲学と論理がお好きで、わたしは弟子や在家者も含めた仏教史のほうが好きなのでちょっと視点はずれてるかもしれませんが、それはご勘弁のほどを。

********

- お幸せでありますように -

投稿 くまりん | 2005/12/29 19:03:44

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

くまりんさま

ご丁寧に、そして、長文のご感想をいただき本当にありがとうございます。

3回拝読いたしました。自分の書いた内容以上に、とても深く読んでいただいて、恥ずかしいようなうれしいような気持ちでおります。

『方便心論』に取り組んで、「信仰の体系」の何たるかを垣間見ることができたとき、ようやく書いてあることの最初の一言が自分の頭の中に入ってきました。観念的な学問研究では、仏教の世界はわからないと、そのときようやくわかりました。

宮元(こちらの元です)先生もよく「自己の主体性を賭けて研究する」ということを強調されますが、その姿勢がなければ、仏教も含めてインドの哲学は理解されないのだろうと思います。

ブッダのすべてに興味があります。十二因縁説は、こう言っては何ですが、ものすごくおもしろい学説ですね。ブッダはいろんな解釈をその中に秘めてあらゆることに対応できるように整理しまとめ上げているように思います。読むたびに、発見の喜びがあります。

そして、部派の仏教と大乗の仏教は、対立するところもありながら、いずれも、ともにブッダの直系であると思います。今のところ、論理で手一杯なのですが、仏教史にも関心があります。いま、なぜ部派から大乗へと仏教が変遷していかなければならなかったのか、考えているところです。あ、でも「論理的に」という観点からですけど(笑)。

大衆部との関連性ですね。これから気をつけて見てみます。アドヴァイスありがとうございます。何かでるといいなぁ。がんばります。

またどうぞ、ご意見ご感想ご指導をいただきますよう。どうもありがとうございました。

もちろん、幸せでした!

くまりんさまも、お幸せに。

投稿 管理人エム | 2005/12/29 22:26:53

  - - - - - - - - - - - - - - - 以上引用終わり

 と、この会話を読んでこの本を読んでみようと思っていただけたでしょうか。実はこの本には続編のテキストがあってマニカナエムさんはその続編でブッダが如何に自らの形而上学として輪廻を語ったかをしっくり解き明かしてくれます。輪廻転生が仏教であるとかないとかという論争がインドから仏教のみを切り離してなされている不毛な論争でありブッダにとってそれは対立軸に据えるような問題ではなかったのです!大乗を仏教から切り離すことも実はナンセンスであり、インド人が言語に寄せる意図性や比喩性、そして暗黙の自己である「わたし」や「僕」を廻る仏教を含めたインド諸学派の論争、そしてそうしたインド的言語表現の根底を支えるインド論理学へのベクトルなしに仏教は語れない。ブッダが弟子達に残した刻印がどのようにインド的に荘厳されて宇宙大にまで膨らんできたのか。そうした視点から仏教と仏教史を概観するとき石飛氏と互いに畏友と呼び合う宮元啓一博士のご主張は既存の仏教にどっぷり浸かってしまった僕たちに新しい視点とヒントを与えてくれる。とこちらも必読!!

ブッダは輪廻を説かなかったか(上)

仏教と輪廻(下)  ブッダは輪廻を説かなかったか

ブッダ論理学五つの難問 (講談社選書メチエ)

ブッダ論理学五つの難問 (講談社選書メチエ)

*1:旧サイト「くまりんが見てた!Part II」のことを言っている