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頑張って!と伝統仏教とお寺に声援を送りたい

仏教

「つらつら日暮らし」に見える伝統教団にいながら社会と仏教的に関わること

 大乗仏教は仏教ではない。日本の仏教は仏教ではない。如来蔵思想は仏教ではない。唯識は仏教ではない。禅は仏教ではない。葬式仏教は仏教ではない。霊魂など迷信に過ぎない。人は死んだら終わりだ。等々、専門的な学問の立場から、あるいは世俗的な理想的宗教を説く立場から、あるいは近代的合理主義の立場から仏教は批判の矢面に立たされています。とは言っても現実に寺院は存在し、都市部はともかく地方においてはコミューンの中で寺院は確実にある一定のポジションを獲得し、住職はコミューンの祭祀を司ると共にそのコミューンの中心的存在としての役割を果たしているのもまた事実です。そうした寺院は明治初期の廃仏毀釈の危機を切り抜け適者生存の道を歩んできているといえます。そうした寺院にとって葬式が本来の仏教の姿でなかろうが葬式を執行し、菩薩行としての慈悲と救いがバラモン教への憧れの中で仏教が選択してきたヒンドゥー的オプションであろうとも慈悲と救いを求める人々へは手を差し伸べ、村人の結婚の相談にのり、争いの調停を買って出る、そして死後の霊魂の安楽を求める人々には祭祀の専門家として祭祀を代行するのは当たり前の日常的なお仕事でもあります。

 日差しの暑い日には玄関に打ち水がされ、桶にでっかいかち割りを浮かべた水が張られさり気なく冷たいお絞りが置いてあります。お寺への用事が済み帰路に就こうとするときには玄関の履き物はいつのまにかきちんと揃えられ、石畳にも新しい打ち水。昨夜は遅くまで共にカラオケに興じ来客は眠くてしかたが無かったのに住職のこの隙のなさ。墓苑に並ぶ塔婆の頂には南無大円鏡智、その塔婆を柳の葉が擦ってサラサラと涼しげに音を立てる。音が涼しいのか風が涼しいのか、客はふと一服の清涼感を味わう。なにもかにもがありのまま。山門をくぐる来客を蜩の合唱が見送ります。このさまがハッキリ意識され、かつ意識されることすら意識されないさまをヴァスヴァンドゥ(世親)は円成実自性と言いましたが今日はそんな話をするつもりじゃなかった、いかんいかん。ともかくなんと言われようとこうして地方において仏教伝来以来、時間の最先端に仏教の顕現たる寺院は歴然と存在し時間と共に歩み続けるのであります。故に大乗仏教は仏教ではないとか葬式仏教は仏教ではないと言われたところでじゃあうちは明日から大乗をやめて上座仏教にしますとかご遺体は近所の道ばたに放置しておくことにします(*1)とかって出来っこないでしょう。自分の足下を見つめ今此処から歩んでいくしかありません。それに日本の寺院には日本の寺院だけが歴史の中で果たしてきた意義というものがあるんです。あなた方があなた方にしか果たせない役割があるように。

要するに、何も分からないということです。そもそも「健康」とは何か?そして、何故健康でなくてはならないのか?また、自らの行いごときで、地球が健康になるという傲慢さ。もちろん、ちょっとした行いが積み重なって地球にとって良いモノとなるということが言えるかもしれません。それはそうです。されど、そのための方法として示されていることは、そんなに良いモノでもないから、拙僧は「何も分からない」と言うしかないのです。つらつら日暮らし 反・ロハス論(3)より

 引用したテキストは tenjin95 さんのつらつら日暮らし 反・ロハス論(3)からですが、このなかで「自らの行いごときで、地球が健康になるという傲慢さ。」というところがとっても好きです。じつは今回の tenjin95 和尚のこのエントリ、昨今はやりの『LOHAS』運動というものがどういうものであるのか明瞭簡潔に説明してくれると共にその問題点を極めて仏教的に抉り出して見せてくれているんです。この方のスタンスは「日本の寺院だけが歴史の中で果たしてきた意義」をしっかり踏みしめながら自らの「足下を見つめ今此処から歩んでいく」というスタンスでとても共感が持てるものです。仏教伝来以来の時間の先頭の顕現たる寺院がいまの日本社会とどう関わっていくか。都市部の寺院を含めると問題は山積しています。その答えを模索しながらの言論活動がこのかたのブログでの発言といってもよいと思います。僕は寺院に住職していない(*2)ので日本仏教に対してかなり自由に発言ができます。だからこのブログでも批判的な発言が多い。しかしもし自分が住職していれば自分のことをタナに挙げたような批判は出来なくなる。だからそう言う点でも彼のような方には頭がさがります。

我々はやはり「ロハス」自体をよく知らなくてはなりません。だからこそ、本の最後に「究極の呪文」を載せるようなことがあるような運動であってはならないと言うべきなのです。その「究極の呪文」とは「LOHASな人は、先が読める人です」(214頁)という言葉です。いい加減、我先に飛びつかせるような、消費拡大についての言葉を載せるのは止めるべきでは無かろうかと思います。「先」とは、誰にとってもどのようにも起こりうることであり、結局は何の事実も保証していないということです。同じように、拙僧だって「LOHASを早く止めた人は、先が読める人です」とも言えます。このように「未来」を担保にすれば何とでも、自らが望むように相手の活動を行わせる言葉を言い得てしまうのです。だから「究極の呪文を使ってはならない」と言えるのです。つらつら日暮らし 反・ロハス論(3)より

 この部分には暗に無宗教であると胸をはる近代的合理主義に浸った人々に対する批判もちらほら見え隠れします。まさしくこの現代でも言葉を掲げたり言葉を声に出して唱えることはその言葉の内容を実現するチカラを持つと信じられているのです。例えば朝日新聞の記者たちには記事を捏造しても言葉のチカラによってそれは本当のことにすることが出来ると信じられているようですし、近代的合理主義の最先端を行く企業の工場には「安全第一」という言葉が掲げられ、営業部門のオフィスには営業目標が言葉で掲げられています。企業の朝礼ではそうした言葉が声を出して唱えられます。もっとも知性を売り物にすべき大学でもそうです。「セクハラを撲滅しよう」と張り紙された言葉にはうちの大学ではセクハラをいつか撲滅することができるという心のどこかにある言葉のチカラへの信頼が託されているのです。こうしたことはなにも日本だけに見られる現象ではありません。アメリカでだって欧州でだって日常なんの疑問も持たれずに推奨されるべきこととして行われているのです。その論理と思想構造は先ほど述べた墓苑に並ぶ南無大円鏡智と寸分のかわりもないし、豊作を願って生け贄を差し出し言葉で豊作を請う呪文を唱える古代インドのバラモンとも変わりません。だからといって誤解なさらないでください。現代人が古代人程度の論理と思想構造しか持っていないと揶揄しているのではありません。むしろ古代人のアミニズムは既に現代でも通用する言葉に対する論理と思想を持っていたと考えるべきであると思うのです。結局、無宗教であると胸をはる近代的合理主義に浸った人々は霊魂こそ迷信であると否定しさったものの、言葉への信仰はいまだに捨てることが出来ず、神や仏ではなくかわりにブランドや科学の可能性を信仰しているに過ぎません。

ロハス実践者にこれだけはお願いしたい。「エゴとエコの融合」なんていうあり得ないような「呪文」は今後使わないで欲しい。それはエコ=自然をバカにしすぎている。我々は自然の一部であり、かつ全体であり、自然の実態に気付くには「エゴが解消されて、初めてエコになる」のです。

つらつら日暮らし 反・ロハス論(3)より

 と tenjin95 さんが述べるように「エゴとエコの融合」なんて『単なる自我拡大の限界内の無宗教*3)』に過ぎません。おっと自分の記事を宣伝するってどうよ。実は google キャッシュを保存しておいて、ようやくこのエントリを復活するのだけれど、同じテーマを扱った tenjin95 さんの 反・無宗教論 もとても興味深い考察であります。以前この tenjin95 さんとうちのサイトの畏友でもある ひじる日々 東京寺男日記 の ajita さんが感情的にバトルになりそうでハラハラしたときもありましたがそれも立脚する今此処が違うので致し方のないことでしょう。僕は臨済で育ち今は寺では生活せずに初期仏教に憧れている人間だし、 tenjin95 さんは曹洞宗のかた、ajita さんはテーラワーダのかた、考え方や意見が違うのは当たり前のこと、それでも僕はお二人から学ぶことは等しくあると考えています。そして tenjin95 さんのように伝統仏教教団の寺院にいながら諸問題と格闘している方にエールを送りたいと思います。

- 生きとし生けるものが幸せでありますように -

元記事(ngp-mac.com/kumarin)へのコメント

tenjin95tenjin95 2006/6/11 7:12

> 管理人様


はじめまして。

今回リンク及びトラックバックを頂戴しましたのを機に、コメントいたします。


まずは、ブックマークを頂戴しておりまして、ありがとうございます。お礼が遅くなってしまいました。


それから、批判精神に溢れた記事をいつもいつもありがとうございます。刮目しながら拝見しております。


そして、今回のログですが、当方としましては何事かの解決法に特効薬はないという観点から、まるでロハスがすべてを解決してくれるという方の意見を批判してみました。多分、その辺に共感していただけたのだと思います。


当方にしてみれば、今後これをただの批判のための批判で終わらせないようにするために、どのような方策を採りうるか、その可能性の中心を探っていきたいと思っております。


取り急ぎ、リンク&TBの御礼までですが、以上のようなことを申し上げ、失礼いたします。


 つらつら日暮らし管理人 tenjin95 合掌a

kumarinkumarin 2006/6/11 16:54

ようこそ、tenjin95さま、初めまして。

 こちらこそ「必読」などと取り上げていただいて大変有り難く思っています。改めて御礼申し上げます。


>>まるでロハスがすべてを解決してくれるという方の意見を批判してみました。


 仰る通りだと思います。仏教者として世間の方々にエゴを滅せ!とまでは申し上げられません。なにしろ自分だってちゃんと出来ていない。でもせめてエゴを顧みよ!とは申し上げられるし、また申し上げ続けなければならないと思うのです。

 そうして持続して行くことが微力ながらも「批判のための批判で終わらせない」ことに繋がっていくと考えておりますし仏教者の在り方であろうと思います。


 もちろん闘いは一人でするもの、徒党を組んでやれ最初と違うとか、こんな筈じゃなかったとか自分を棚に上げて他者を罵るならしない方がマシかもしれません。しかし全面的に自分が責任を負う覚悟を決定して向かうなら他の方の言論や運動を支援しあるいは援護していくことは仏教論理的にも十分可能だと思いますし、言論活動において仏教はブログをそのように活用すれば少なからぬ成果もあるのではないでしょうか。たとえそれぞれの思想や主張は違っても「エゴを顧みよ!」と世間に言い続けることでの一致は仏教者なら出来ると思うのです。


 tenjin95さまもそうでしょうが学者、研究者として歩む前から上座仏教的に言えばかたちばかりかも知れませんが私たちは得度し戒を受けて沙門として歩みだしているのです。そんな観点から tenjinさまのブログにエールを送らせていただきました。


 丁寧なコメント、有り難うございます。ますますのご活躍をお祈りいたします。


~では、お幸せでありますように~



*1:初期仏教教団が葬式をするようになった経緯をショペン教授の論文から紹介。根本説一切有部律の研究から。当然釈尊が登場するが仏教教団が教団として葬式をするようになったのは部派分裂後の部派仏教時代の世俗社会の要請によるものと考えてよいだろうと思う。→くまりんが見てた!Part IIIくまりんが見てた!Part III

*2:僕も僧侶としての教育は受けているのでまるっきり葬式や法事をしないわけではない。そんな経験を元にした半分実話の物語→くまりんが見てた!Part III

*3碩学諸家の著作から宗教と無宗教についての概論を自分なりにまとめて著したテキスト。旧サイトに掲載して消えてしまったものを google キャッシュから復活しました。→くまりんが見てた!Part III