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威儀即仏法、作法是宗旨

つらつら日暮らし のなかなか良いお話し「礼拝と仏法」

 「礼拝と仏法」で tenjin95 さんがご指摘のように古来インドでも礼拝は重要な儀礼の一つであった。部派時代の根本説一切有部律でも礼拝はとても重要視されている。ことあるごとに釈尊がおわしますと信じられたチャイティアに礼拝することが推奨され、弟子が師に右肩をあらわにして機嫌を伺うという記述も多く見られるから礼拝は師から智恵を醸成する教えを受けるためにも、あるいはチャイティアにおわします仏の功徳を自らに振り向け阿羅漢果を得るためにも非常に重要な儀礼の一つだった言える。

 ■つらつら日暮らし 礼拝と仏法

 最近は仏教哲学には興味があるけど儀礼はどうもねなんて方が多くいて僕も次ぎに話を進めるのに困ってしまうようなことがあるが、tenjin95 さんの今日のエントリはなかなかよいもので「威儀即仏法、作法是宗旨」の道元の家風の面目躍如たるものがあります。仏教哲学と威儀・作法は実は不可分のものだと思う。時間的縁起思であるゴータマ・ブッダの仏教に合致するかはともかく置けば、臨済宗の考え方で言うと般若が自発的に発展して威儀・作法を正すということになる。実際には威儀作法についてはそれなりの稽古と教育が必要なのは言うまでもないが即今此処自己を第一義に置く臨済禅では過去未来は問題にしない。そこでソク啄同時ということが重要視されるから「威儀即仏法」はかつて受けた教育ではなくいまここの般若の自発発展でなくてはならないのだ。かつて秋月老師は道元の「威儀即仏法」をこのように解釈していたが「深信因果」を主張する道元をこのように時間から切り離して解釈するのがただしいのか僕には疑問があるが。

 なにしろ臨済宗が威儀や作法を細かく実践するようになったのは明僧隠元が中国から持ち込んだ厳格な修行作法に危機感を持った白隠が宋代の『禅苑清規』を見直しさらに綿密な『永平清規』を手本に雲水の教育に取りかかったからだという研究もあるくらいだから、ましてや師に付くことなく独悟したと言われる道元当時の日本達磨宗の威儀立ち振る舞いは臨済録や碧巌録宜しく仏に逢うては仏を殺すような打つ蹴るのオンパレードだったのではあるまいか? と思うのである。後に道元の法を嗣ぎ永平寺第二世となるその日本達磨宗の懐奘が道元門下に転身するのは1236年。やがて懐奘の法論が功を制したのであろう、tenjin95 さんが取り上げた『正法眼蔵』「礼拝得髄」「仏祖」「陀羅尼」が記述された 1240年から43年と言えば、懐奘の後を追うように日本達磨宗の懐鑑、義尹、義介らが深草興聖寺に身を寄せた時期なのだ。

 『正法眼蔵』は道元が弟子たちの成長状況を綿密に検討して構想された上堂の際のテキストであると考えられるので、「礼拝得髄」と「仏祖」「陀羅尼」は恐らく唐・宋代の禅籍を読みあさって独悟したといわれる能忍門下のいささか脱線ぎみの臨済家風に加えて独悟者独特の野狐風の威儀振る舞いを念頭に置いて記述されたものと考えることが出来る。実際のところ野狐満々だったであろう日本達磨宗の連中など道元にとってはけっ飛ばしたいような存在だったのかもしれない。がしかし本格的禅道場として歩み出して敵も障害も多かった興聖寺当時、大宋国の師・天童如浄からの命、一箇半箇の弟子の育成が悲願だった道元にしてみれば懐奘以下に自らの想いを託したのであろうと思う。威儀即仏法、作法是宗旨、そして唯仏与仏の師々相承の曹山、洞山、如浄一流の綿密な家風を鼓吹する道元の胸中は「私ごときが仏に替わって汝等を打つのを許してくれ」と常に自己反省を忘れなかった師如浄譲りの大悲に満ちた渾身の上堂だったのではないか。今日の tenjin95 さんのエントリを読んでこんなことを考えてみました。

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法蓮華に座し願わくは普く一切とともに仏道を成ぜんことを

元記事(ngp-mac.com/kumarin)へのコメント

tenjin95tenjin95 2006/6/14 6:52

> 管理人様


TB&リンク、そして当方へのコメントを頂戴いたしまして、ありがとうございました。


今回のログは、一般の方に教義を分かりやすく伝えるというときに、どうしてもその全貌を伝えずに、多くが捨象されやすいことについて、ちょっとした警鐘を鳴らしてみました。実際に、道元禅師は多くの場面で礼拝を行っていますし、多くの著作で礼拝法を説いてもいます。


また、管理人様ご指摘の達磨宗については非常に扱いを苦慮したようです。『永平広録』に出る懐鑑上人への言葉などを見ますと、その苦慮が透けて見えるようで、いち早く道元禅師僧団に帰投した懐弉禅師と、達磨宗を率いていた懐鑑上人と、本来は先輩後輩の関係が逆転してしまった状況で、人間関係をどうやって再構築するのか?一切が法の上でとは言いつつも、やはり人間の集団なのだと感じざるを得ません。


それでは失礼いたします。

      tenjin95 合掌 九拝

kumarinkumarin 2006/6/14 22:14

tenjin95 和尚さま。

 バブル崩壊後のショックに人生を模索してサブカルチャー的に公案の解説書などがブームになった頃なんですが、坐禅会で初心の方に指導させて戴いた折り、参禅を続ければ法話や提唱ではなく老師に相見も出来るようになるということと、その際の礼拝焼香を含めた礼の取り方などお話すると禅の哲学に興味があって来ているのに何故すぐに相見出来ないのかとか礼拝焼香がどう禅哲学と繋がるのかなどとおっしゃる方が結構いらして、こちらも若気の至りでカチンときたりしてそんなことも思い出しました。やはり一般のかたも禅門を叩く以上ここは一つ教え体得して礼拝せずにはおれないというように心が働いて欲しいですね。かたちは先輩の仕草をまねるところから入って戴いてもいいですから。


 「ムー、ムー、って切り込んでいってもさっぱり分かりません、どうやって無に入るんですかね?」「おやおや、あなたにはヒグラシの鳴き声が聞こえますか?」「はい聞こえます。」「そこからお入りなさい!」でハッとするころからそんなカチンと来るような人も変な意気込みがフッとなりを潜めて俄然生き生きしてまいります。そのころには礼拝も焼香もかたちが決まってきますね、在家の方も。


 達磨宗については勝手な解釈を垂れてしまってお恥ずかしい限りです。でもわたしには道元禅師、渾身の綿密なかつ格調高い提唱が目に浮かぶんです。「宗礼仏祖の現成は、仏祖を挙拈して奉覲するなり。過現当来のみにあらず、仏向上よりも向上なるべし。」もう圧倒的ですね。ご宗祖さまをこんな風な言い方をして申し訳ありませんが、なんか釈尊とシャーリープトラ、マハー・カーシャパの三役を一人でこなしたような凄い人というイメージがあります。それで懐奘禅師がアーナンダ。ごめんなさい。


では。お幸せでありますように。