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三世実有 - 過去・現在・未来は確実に存在する?

昨日まではこれくらい何でもなかったのに

 昨夜の帰り道、バス停へ向かっていくとちょうどバス停のところの車道と歩道の段差のところに人が倒れ何人かの人たちが心配そうに屈んでのぞき込んでいた。倒れているのは品の良い初老の男性だった。額を打撲したようで大きな瘤が出来てその上のところが少し切れて血が滲んでいる。僕も屈んでのぞき込む仲間に加わってみるとどうやら段差に足を引っかけて転んだとのことで意識ははっきりしているが少し酔っていた。数人で力を合わせて抱き起こそうとするが足が痛いようで自力では立っていることが出来ない。やがてバスがやってきたのでとりあえず皆で担いで歩道の上に移動した。本人はいたく恐縮して「見ず知らずの方に迷惑をかけて申し訳ない。自分は普段は酔ってだらしない人を見ると何をやっていやがるんだなどと思い小言を言う方である。それなのに皆さんはそんな小言もおっしゃらずに私を助けて下さっている。本当にありがたいことだ。申し訳ない、申し訳ない。」と繰り返された。ご自宅を伺うとこのバス停から終点の私鉄駅まで行ってそこから急行で二駅だそうである。あのバスに乗せてくれれば自分はちゃんと家に帰れるからどうかもう自分のことはほうっておいて下さい。普段なら少し酔っていてもちゃんと家に帰れますからもう大丈夫です。これ以上皆さんには迷惑はかけられないと繰り返しおっしゃった。

 バスの運転手さんも降りてきて心配そうに寄って来られたので事情をお話しして、バス停内のことでもあるのでバス会社に連絡を取っていただき最善の法を探ることにしたが、兎にも角にも自分で歩けないんじゃ致し方ない、警察官に保護してもらい救急車で病院に移送して一応打撲箇所の検査と傷の治療をお願いするということになった。野次馬の中には家を聞いて連絡を取って家人に迎えに来てもらったら?という意見もあったがご本人は家に連絡を取るのを嫌がっているし、あるいは迎えに来れるような家人もいらっしゃらないのかも知れない。さりとて皆で付きっきりというわけにも行かず、放っておく訳にもいかずバス会社の方針がよりベターな選択であるように思われた。そんなわけで警察官と救急車の到着までお付き合いしてその場を辞した。さてここで思い巡らしたのは勿論人助けに参加したというようなことではない。「自分は普段は酔ってだらしない人を見ると何をやっていやがるんだなどと思い小言を言う方である。それなのに皆さんはそんな小言もおっしゃらずに私を助けて下さっている。・・・・普段なら少し酔っていてもちゃんと家に帰れますからもう大丈夫です。」と仰ったあの初老の方の胸中である。彼の言い方から推測出来ることは少なくとも昨日まではこれくらいの酒量なら躓いて転ぶことも無かったのかもしくは転んで少しくらいの打撲を負ったとしても自力で立ち上がれないというような屈辱的なことはなかったということである。

 彼の看護に当たった人たちは(僕も含めて数人であとはほとんど野次馬だが)みな中年以上の男性ばかりだった。自分自身、若い頃に比べれば体力が衰えていることの自覚はあるだろう。あるいは目脂や耳垢も増え体臭もあからさまに強くなって心楽しまず、仏教で言ういわゆる天人五衰をその名を知らぬとしても実感している世代だろう。それでも今日突然立ち上がれずということまでは予測もしていないなっかったに違いない。それは結局ゴータマ・ブッダが観察されたように健康な人は自分が日々老い病みやがて死に至ることをすっかり忘れてしまっているということに変わりがないと言うことなのだ。だから(看護に当たった)我々はその初老の紳士の屈辱的無念さを、未来から選択すべきダルマをたぐり寄せるような思いで見つめたのではないだろうか?そこに横たわり昨日まで経験することのなかった自力で起き上がることが出来ないという悔しさ、情けなさ、あるいはその事態が訪れることを健康であるが故に忘れ去った自らの愚かさを自嘲する初老の紳士の無念さを、まるで自分の未来そのものであるように見つめたのではないだろうか?少なくとも僕にとってそこに横たわる人は明日の我身であるように思えてならなかった。ならば成すべきことは再びに過去現在にとって返し転んで横たわらない未来をたぐり寄せることなのだ。

たぐり寄せる実在する未来

 ゴータマ・ブッダの正統な後継者を自負していた説一切有部が過去、現在、未来が確実に存在すると主張したのも師であるブッダが現在、過去を綿密に観察し認識することによって知り得た十二支因縁、四聖諦、八聖道を実践することによって目覚めた人となって示した弟子たちにとって選択すべき、たぐり寄せるべき《さとり》という未来が有る故に他ならない。ならば未来のダルマをたぐり寄せるとは現在、過去の反省の上に立って目覚めた人となり《さとり》を獲得せんとする未来への情熱的な思い・願いでさえあるのだ。有りもしない未来を人はどうしてたぐり寄せるべく努力など為し得ようか。過去・現在・未来を三世実有と言葉に表したとき頼りない宙ぶらりんな未来は確実に来たるべき《さとり》と名付けられたダルマたる未来として意識され、たぐり寄せることが出来る実在になったのである。人は言葉に表したときその内容が言葉の力によって実現されると信じている。ならばヒンドゥー化した仏教であると言われる大乗仏教マントラすなわち真実の言葉の萌芽はすでに説一切有部の三世実有という言葉の中にあったということになる。

 宮元啓一博士は空を説くと古来中国日本で言われてきた般若心経ですら実はマントラすなわち内容を実現する力を持つ真実の言葉であると指摘されている(*1)。確かに般若心経を良く読んでみれば空を説くというのが主題ではなく、ギャーティ、ギャーティ・・・とマントラを唱えればこの経に書いてある空観によって智慧を完成した観自在菩薩と同じように、十二支因縁、四聖諦、八聖道を実践せずに智慧を完成することが出来ることを説いていることが理解されよう。般若心経を順番にちゃんと読み文脈に沿って解釈すればその通りなのである。そしてその般若経典群に続く大乗経典はまさしくそのマントラのオンパレードであることは言うまでもない。浄土経典においては南無阿弥陀仏マントラとすればその思想構造は宮本博士の言われる般若心経と《さとり》を実現する機能としては変わりがない。ならば南無妙法蓮華経マントラにした日蓮はインド大乗仏教の思想構造を非常に良く理解していた一人だと言うことが出来る。日蓮南無妙法蓮華経と唱えれば法華経に書いてあることを実現するする力を持つと考え、題目を唱えることを人々に勧めた。まさしく般若心経のマントラと同じではないか。マントラ、それは未来をたぐり寄せる力を持つ真実の言葉なのだ。

 それはまた人々のゴータマ・ブッダのようになりたいという強い憧れの情意のうえに突き動かされる真実の思いでもある。仏教各派のそれぞれの教理はひとまず置こう。それらの教理をいちいち紐解けば未来は実在しないことになってしまうかも知れない。そもそも臨済禅では未来など問題にしない。曹洞宗を含めた禅で考えても《さとり》という未来に執着することは厳しく戒められている。もし秋月老師がご存命なら「お前は何を言い出すのか!」と大目玉を食らうところだろう(笑)。そして般若心経だって《さとり》という未来に執着してはいけないと言っている。しかしそれはギャーティ、ギャーティ・・・とマントラを唱えれば《さとり》という未来がやって来ると言う前提の元に言いっているのだ。今こうして考えてみれば宇宙大に膨張した仏教という大きな信仰の流れの中の歴史においてゴータマ・ブッダが自ら実践して示した仏弟子たちにとっての未来である《さとり》は三世実有のダルマとして確実に実在すると信じられていたことになる。そう信じられなければ人々の仏教への熱狂はあり得なかったと言うことが出来よう。民衆にとって仏教を信仰するとは安らかなるブッダの《さとり》という未来をたぐり寄せるあまりに人間的な願いと行為だったのである。

般若心経とは何か―ブッダから大乗へ

般若心経とは何か―ブッダから大乗へ

元記事(ngp-mac.com/kumarin)へのコメント

ゲストゲスト 2006/6/24 19:48

>安らかなるブッダの《さとり》という未来をたぐり寄せるあまりに人間的な願いと行為だったのである。

三世の説き方で、こんなに素晴らしいお話を伺ったことはありません。

実を言えばパート1でも、良い教えをコピーして仕舞ってあります。ただ法を説くばかりでなく、グルメなところが親しみをもてます。

*1:『般若心経とは何か―ブッダから大乗へ』著者:宮元 啓一 出版:春秋社 ASIN/ISBN:4393135164 2004-04 宮元博士は〈仏教学者が書いた『般若心経』の解説書のどれを見ましても、後半部分の解説で混乱しているか、あるいは解説を放棄しているものばかりなのです。このようにして、『般若心経』は、これほどまでの人気を得ているにもかかわらず、じつは、謎の経典として放置されたままなのです。本書はこの謎を解くことを最大の目的といたします。〉と宣言し転移的にインドの時代背景を踏まえながら遂行的に言語習慣を照射しつつ極めて論理的に般若経典群の意義を明らかにする。そしてそれはまさしくマントラであることを明らかにする。