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禅文献に見えるゴータマ・ブッダの嫡法と授記

その1 釈尊の布教と入滅について

 つらつら日暮らし 禅宗的釈尊伝について(1) で tenjin95 さんが所謂僕が述べるところの〈理性的ブッダが説いた哲学としての仏教という理念〉から見た人間としての釈尊伝によって「様々な宗派によって、色々に彩られてきた釈尊像が貧弱なものとなってしまう」と危惧されて禅宗文献に示される釈尊伝を考えるということをテーマに『景徳傳燈録』の釈尊伝の解説を試みられている。なんだお前はいつも人のテキストを題材にしかブログが書けないのか?と非難されることを覚悟の上でどなたかに文才の無い小説家は身の回りの出来事をつなぎ合わせて小説を書くという見事な開き直りの言葉があったことを楯にして浅学非才の僕には他人のテキストを題材にするくらいしか能がないのよ!と開き直って(自爆)禅宗文献にあらわれる釈尊伝は決して貧弱でもないし奇妙でもないという視点からエールを送ってみたいと思う。エールなどと偉そうなことを言ったが要するにこのテーマは今の僕の興味のテーマであると言うことなのだ。本来なら全ての項目についてコメントすべきではあるのだが膨大な雑文になってしまうのがオチなので【釈尊の布教そして入滅】と【釈尊荼毘に付される】というところに的を絞ってお話ししてみたいと思う\(^O^)/

さて、釈尊の最初の説法「初転法輪」から、入滅までのお話しですが、どこで誰に説法したなどの詳細な伝記は載っておりません。ただ、特に付法の弟子となった摩訶迦葉尊者については詳細に書いております。禅宗では、教えはただ文字のみならず、それこそ全人格をも受け継いでいくものですが、ここでは釈尊から「清浄法眼涅槃妙心・実相無相微妙正法」が授けられました。後に示される伝記になると「正法眼蔵涅槃妙心」という記述に変わっていくのですが、禅宗でも釈尊の大法をどのように表現するかで、その都度変遷があったことを窺わせます。また、この一段は後に『大梵天王問仏決議経』という偽経によって、「拈華微笑話」ということにもなっていきます。道元禅師はこの「拈華微笑話」こそが、釈尊から摩訶迦葉尊者に法が伝わった機縁であるとして、『正法眼蔵』の中でも繰り返し採り上げられますが、最たるものが「優曇華」巻ということになるでしょう。しかし、この『景徳伝燈録』で用いられているのは「多子塔前話」というお話しですね。多子塔の前にて金襴という輝ける御袈裟を授けながら、法も付属したという話です。つらつら日暮らし 禅宗的釈尊伝について(1)【釈尊の布教そして入滅】より

 実際の所ゴータマ・ブッダ亡き後教団をまとめて指導していったのは摩訶迦葉尊者(マハー・カーシャパ)に違いない。器から器へ一滴も漏らさずに全人格的嗣法を絶対視し信の拠り所とする禅宗が、インドの原始経典の中にゴータマ・ブッダからマハー・カーシャパへの成仏の授記をするシーンを描いた経典が見あたら無かったからと言って改めてそれを自らの文献に書き表したことは決して禅宗のみに帰せられる逸脱とは言えないと思う。根本説一切有部律に依れば当時のインド仏教の修行方法において禅定と経典の読誦が二つの柱であった。禅定とはアビダルマに基づいて徹底的に思考を廻らし自らと自らを廻る法・ダルマを観察し認識していく禅定である。これはゴータマ・ブッダが十二支縁起を観察して目覚めた人となったことに由来している。そしてもう一方の読誦は経典を読誦することで教団を支える在家の信者達の要請に応え、真実の言葉であるマントラを唱えて仏塔に今でもましますと信じられた仏に供養することでその功徳を教団に、比丘に、そして施主である在家菩薩とその家族に、あるいは時によっては国王や大臣に廻らし廻向し振り向ける法師としての実務をそつなくこなすことへの訓練であったのである。そしてそうした規則を定める律文献や行為に向かう倫理を要請するアヴァダーナにはおおよそゴータマ・ブッダ在世時代には考えられなかった物語が頻出する。後で少し詳しく触れるが仏の「三十二相八十種好」という形容句による人間の指導者としてのゴータマ・ブッダから神がかった存在への昇華と言う逸脱も既にインド文献である律やアヴァダーナ、ジャータカに既に見られるものなのである。偽経である『大梵天王問仏決議経』「拈華微笑話」の記述でさえその原型は律文献やアヴァダーナに見られるパターンを採用していることに注意を払わなければならない。ブッダが微笑する時が弟子に対して成仏の授記をする時であることは既にパーリ文献中にも認めることが出来るし、更に光を発してその光が三千大世界を遍く照らして再びブッダに帰入する様子は有部系文献の定型句にもなっている。そして有部系文献よりは些か簡素ではあるものの大衆部系の『マハー・バストゥー』にも見られるゴータマ・ブッダへの賛嘆なのである(*1)。もし『大梵天王問仏決議経』にその定型句である放光の模様が記述されアーナンダが右肩を現して仏足に礼拝したのちその因縁について質問するような事細かな記述が挿入されていればもう少し文献学者を悩ませたかもしれない(笑)。

 教外別伝・不立文字を標榜する禅宗が経典に依らざるが故に他の中国仏教に比して自ら最も多くの論書を残したのは、全人格的なさとりによる嗣法を月と見なし、その月を差す指のありかた、すなわち指月の方法論を示すテキストとして教育者たる師家による一箇半箇の弟子育成への想いが込められた大悲の情意の上に立つ老婆心に満ちたテキストが師家の個性に応じて量産されたと考えれば必然の帰結であると思われる。半箇の弟子育成も出来ない禅家は黄泉の地獄へ堕ちると信じられたということもあるが、しかしそればかりには留まらない。中国の歴史の変遷、すなわち政権交代の歴史でを見れば儒教文化が大手を振るう中国での政権交代は天に代って徳があると自負する次世代の政権候補者が徳のない現世の政権に天罰を下す大義名分のもと、打ち倒された徳の無い政権は取って代わった政権の下克上を正当化するため実際以上の悪者、徳のない政権として歴史に刻まれることになった。そうした背景の中で科挙試験という儒教的教養を試された知識人達にとっては大義名分のもとに教条主義的に書かれた文献よりも文献を超えるもの、つまるところ道教の〈道〉に通ずる言葉では表現し得ない真理が崇高なものとして尊ばれ支持されたのである。そして政権の交代に際しては安穏としてはいられない中国仏教史の中で仏教の総府であると自覚していた禅家たちの多くが出家前は知識人であり、彼らは出家後には外来思想のモダンな知識人として在俗の知識人達のニーズに応えるかたちで教外別伝・不立文字の宗風を立て、直指人心・見性成仏というスタイルで布教を続けたのだった。故に先述したように書き著されたテキストは言葉に表すことの出来ない真理を指し示すおおよそ指月に留まるものになったのである。自派の正当化という内輪の事情も当然作用したであろうが、弟子の教育のためにもその老婆心から書き直される度に嫡法の歴史を綴る傳灯録系の文献さえも師から弟子への師資相承のぶつかり合いの両者の境涯を月と見立て、それを差す指のスタイルで記述され、それ故に膨大になったという事実は儒教国中国という歴史の中で遂行的に考慮されなければならないだろう。だからこそ禅定と読誦が二本柱でありその継承という点において誰が見ても明らかに教団を引き継いだ後継者たるマハー・カーシャパのインド文献での扱いとは大いに違って、師である釈尊から直にその心を指さされて師資相承を瑕疵される摩訶迦葉尊者の嗣法・授記の記述が中国で有るが故に禅仏教では絶対に必要な要素だったのである。

その2 釈尊の荼毘について

釈尊荼毘に付される】の項については興味深いので長くなるが以下に全文を示す。

 (一度棺に入れられた釈尊は)また棺から立ち上がり、母のために説法をされました。特に二本の足を示して、老婆を導き、そして「無常偈」を説かれました。『諸行は無常であるし、これは生じては滅するという法則である。生滅は滅しおわって、寂滅をもって楽とするのだ』と。そして、多くの弟子は香木を薪として競うようにして釈尊を荼毘しました。そして、ひとしきり炎が燃えさかると、金色の棺はまだ元のままでした。

 そこで、修行僧達は、仏の前で、その徳を讃えて『我々凡俗の炎如きが、どのようにして世尊を焼くことが出来ましょうか。お願いでございますから、その素晴らしき三昧の火を以て、御身をお焼き下さいませ』というと、金色の棺は『7ターラ樹』ほどの高さとなって、空中を往復するや炎が出て、そして灰になってしまいました。これは、つまり穆王の52年(紀元前950年)の2月15日でした。

 そして、世尊が滅したあと1117年にして、その教えが中国に至りました。これがつまり、後漢の永平10年(67年)のことです。

    『大正蔵』第51巻205頁下段、拙僧ヘタレ意訳

とりあえず、亡くなったならそこまでの記述にしておけば良いのに、何故その後まで書いてしまうのでしょう・・・この「金色の棺」って、UFOですか?確か、イギリスの政府機関でもUFOは宇宙人の介入は否定されていたと思いましたがって、これじゃ釈尊=宇宙人説を信じていることになってしまうかも実は、釈尊というか仏陀の身体的特徴を集成して「三十二相八十種好」とか言うのですが、これを本当に図に書いてみると、宇宙人のイメージそのものだったりします。なので、昔「釈尊=宇宙人」説を出した人がいるのですが、まぁ、いたずらに地球外生命体を前提したい気持ちは分かりますが、存在を実証されていない仮説ですので、悪しからず。。。

しかし、火で焼いたけど焼けずに、自ら燃えてくれってお願いするという弟子達も奇妙です。今回「禅宗釈尊伝」と題して、その伝記を追ってみましたが、非常に変わった内容だという実感を得て、このログを終わりたいと思います。つらつら日暮らし 禅宗的釈尊伝について(1)【釈尊の布教そして入滅】より

 「無常偈」が釈尊の入滅シーンに取り込まれるところなどは既に『景徳傳燈録』が著されもした11世紀にはジャータカの漢訳も大いに読まれ流布していたことを思わせる。一般の読者のために記するならばこの「無常偈」が含まれる物語は我が国の法隆寺にある玉虫厨子の左側面に描かれる施身聞偈図の元になった雪山童子の説話である。「施身聞偈」の説話では釈尊は、前生においてバラモンの修行者としてヒマラヤに住み次の生に仏となるべく菩薩行を積んでいた。ある時、羅刹が清々しく唱える「諸行無常、是生滅法」という偈頌を聞く。「諸行無常」にハッとした菩薩はこの句には結びがあるに違いないと、その羅刹に結びを教えてくれるよう嘆願する。羅刹は「自分は腹が減っている、お前の肉を食わせてくれたら教えてやろう」というので、「この身体をあなたに捧げよう」と約束をした菩薩は結びの「生滅滅已、寂滅為楽」を教えてもらう。その句の意味を深く味わい、岩にその句を書き込み、約束どおり、我が身を与えようと崖の上から身を投じると、そのとたん、羅刹は帝釈天の姿となり、空中で菩薩を抱きとめて救い「あなたこそ真の道を求めるひと、求道者である」と讃えたという物語であるがこれは大乗『涅槃経』「聖行品」に引かれもする。むしろ著者の永安道原が親しんでいたのは有名な「一切衆生悉有仏性」を高らかに謳う大乗『涅槃経』のほうかも知れない。そもそもパーリ文献に残るオリジナルのジャータカにはこの「施身聞偈」に見られるような苦行を賛美するような説話ばかりではなく「ワニジャータカ」のような、なによりも徹底的に智者であるブッダの智恵を全面に押し出す説話もあるが、仏教が北西インドへ伝播していくころには「施身聞偈」のように肉体を提供しても寂滅を楽とする清浄なる心を得ようと苦行に勤しむ森林遊行者を賛嘆する思想が打ち出され、清浄なる心は苦行に因って汚れを落とすことによって永遠なる真実なる真如としての自己が顕れる如来蔵思想が既に胎まれているのである。そうした森林遊行者がインドでは禅師と呼ばれていたことも永安道原がこの「無常偈」を選択したことと関係が有るのかも知れない。どちらにせよこの「無常偈」はインド大乗思想にとっても苦行の結果不浄なるものを捨てて清浄なる霊魂を手に入れることによって通インド的な梵我一如思想に後押もされながらではあるとは言え、巻き返しを図るバラモン教に対しても仏教が在俗から尊敬と信頼を受ける重要な要素であったことには違いない。また雑阿含経(大正大蔵2 No.99(1997),325b-c)の禅定への入定によるブッダ入滅のシーンにブッダその人ではないもののシャクラが「無常偈」を説くシーンがある。シャクラの「無常偈」を受けて娑婆世界の王ブラフマンが「この世界の全ての生あるものは遂に身体を捨て去る・・・」と偈頌を説く。ジャータカは大乗経典に取り込まれるばかりでなく7世紀インドで絶大な人気があったと義浄の『南海寄帰内法伝』に記されているから永安道原がこの「無常偈」を採用したことは後述した雑阿含経をヒントに義浄の『南海寄帰内法伝』を踏まえつつ大乗『涅槃経』の記述を取り込んだものではないだろうか。インドより流行が後れる中国の当時の事情を反映していると考えてもよいと思うのである。

 次ぎに「金色の棺」と「亡くなったならそこまでの記述にしておけば良いのに、何故その後まで書いてしまうのでしょう」という点について考えてみたい。こうした問題を考察するのに下田正弘博士の『涅槃経の研究 - 大乗経典の研究方法試論』と言う非常に優れたテキストがある。博士は釈尊の荼毘を特に取り上げているわけでは無いが遺骨崇拝に関する考察の中で所謂小乗の初期涅槃経群からこの問題を取り扱い原典や大正大蔵から縦横無尽にテキストを引かれているのでここは博士のご成果を活用させていただいて『景徳傳燈録』の釈尊の荼毘についてその一々がインド初期仏典を原典にしていることを確認してみよう。特に全く同じ表現についてはアンダーラインを入れた。(以下の囲い内は全て下田正弘『涅槃経の研究 - 大乗経典の研究方法試論 (*2)』による。『』のあとに原典と同書内でのページ数を示す)

『わたしは重ねて思惟した。如来の身体は金剛のたぐいである。この身体を砕いて、芥子粒ほどにして世間に流布させよう。後の世の信心篤い信者達は、如来の姿を見ることが出来なくとも、それを供養すれば、その福徳のおかげで四姓家、四天王家、三十三天、梵天、自在天、他化自在天に生まれるだろう。このおかげで、欲界・色界・無色界に生まれるだろうし、このおかげで預流・一来・不還・阿羅漢・縁覚、そして仏にさえなるだろう』雑一阿含経(大正大蔵2 No.125,750b ff.)と力士移山経(大正大蔵2 No.135,857c ff.)P77

『彼ら五百人の pratyekabuddha はその声を聞いて、七ターラ樹の高さの虚空に昇り、炎と燃えて、火界定に入って涅槃した。彼らのピッタ、カパ、骨、筋、血などは全て燃えてつきてしまい、清浄なシャリーラのみが大地に落下した。』Lalitavistara P79

『そのとき長者は尊者の遺体を香木で荼毘に付し、乳をもって火を消してから遺骨を集め・・・』大乗『宝積経・入胎蔵界』P80

『||もろもろの煩悩によって焼かれることのなかった聖者の遺体において、皮と膚と肉と毛と四肢とが焼けたのち、バターと毛織物と薪とを用いたのにもかかわらず、火は骨を焼くことが出来なかった(75)||

 ||それからお亡くなりになった偉大なお心のお方の遺骨を、最高の水で清めて後、やがて賛嘆しつつ、マッラ族の者たちは町へ、さまざまな金の壺に入れてお運びしたのである(76)||

 ||これ(金の壺)は大きな山の宝の鉱脈のように、至福に満ちた偉大(な遺骨)を保存している。諸天における最高の神の界が、劫末の火によって損なわれることがなかったように、遺骨は火によってそこなわれることはなかった(77)||

 ||慈愛に満ちあふれたこれら(の遺骨)は、執着の火によって焼かれることは無縁である。彼に対する尊敬の力によって保持されている遺骨は、冷たいけれどもわれわれの心を焼く(78)||

    ~ 中略 ~

 ||自らの光輝によって’第二の太陽の如く輝かれ、彼(自ら)の光輝によって地をお照らしになったそのお方の金色のお体は火によって骨を残したのである(81)||』アシュヴァ・ゴーシャ(馬鳴)『ブッタチャリタ』第二十七章「涅槃の賛嘆」P82~83

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 アンダーラインを挿入した部分を tenjin95 さんの『景徳傳燈録』の現代語訳の類似部分と対比させて見ればその原型たる思想が提示したインド諸文献に求められるということをご理解いただけると思う。そして『景徳傳燈録』では遺体となっているが阿含経群における舎利、すなわち sarira シャリーラは遺体とも遺骨とも不明な文献も存している。雑一阿含・涅槃経では遺体と遺骨は同等の価値を担わされており、やがて時代を下ると遺体を尊重する傾向が払拭されて仏身と言ったときそれが遺骨を宿した仏塔を意味するようになると、下田博士は結論づけている(前掲下田書 P89~90)。それを踏まえれば永安道原がどのあたりの文献を参照しながら記述したのかは確定出来ないものの「遺体が焼けなかった」と記していることが提示したインド諸文献との矛盾であるとは一方的に断ずることは出来ない。むしろインド思想との決定的な相違は『景徳傳燈録』には遺骨崇拝の思想が認められないことであるが、直指人心・見性成仏の禅仏教に取って嫡法こそ重要で有って如来蔵思想の基体たる舎利は、むしろ中国的な〈道〉、すなわち諸法実相の真如によってその地位を取って代わられたと見るべきであろう。それはインド人と中国人の死生観の相違に起因していると思う。ところで最後に提示した『ブッタチャリタ』の著者であるアシュヴァ・ゴーシャ(馬鳴)であるが説一切有部の学僧であり詩僧としても大いに聞こえた彼が禅宗第12祖として『景徳傳燈録』に数えられていることは興味深い。

その3 仏の三十二相八十種好について

 もう一点、『景徳傳燈録』からではないが tenjin95さんが宇宙人と形容されている仏の「三十二相八十種好」に触れておかなければならない。実はこれは大乗経典にも引かれもするが説一切有部の『ディヴィヤ・アヴァダーナ』に頻出する定型句なのである。平岡聡氏は学位請求論文を土台にした『説話の考古学』でこの「三十二相八十種好」も取り上げ「この定型句には異同は少なく、安定して使用されており、ブッダに対して用いられるのが普通であるが、MSV vi (111.26)(根本説一切有部律、破僧事のギルギット出土サンスクリットバージョン - 引用者注)では成道直前のブッダ、すなわち菩薩に対して用いられている。また同じブッダの形容でもこの定型句とは違ったものが Divy(ディヴィヤ・アヴァダーナ)に見られる」と指摘されている。なお次ぎに引用して示すうちの始めの訳文は「異同は少なく、安定して使用」されているもので平岡氏の綿密な調査によれば、『ディヴィヤ・アヴァダーナ』に7カ所、『根本説一切有部律』 前述の破僧事を含む全般に7カ所、『アショカ・アヴァダーナ』に38話42カ所に使用されているもの、後ろの段は『ディヴィヤ・アヴァダーナ』に見られる異形バージョンである(*3)。

||彼女らは、三十三の偉人相によって完全に装飾され、八十種好によって体は光輝き、一尋の光明で飾られ、千の太陽をも凌ぐ光を放ち、宝の山が動いているが如く、どこから見ても素晴らしい世尊を目にした。||

||遊行者マーカンディカは、清らかで、見目麗しく、諸根は寂静で、心も静まり、最高の心の寂静を具え、黄金の柱のの如く、目映いばかりに光り輝いている世尊が、ある木の根元に身を寄せ、眠っている龍王が食物を内にして蜷局を巻くように結跏趺坐しているのを遠くから見た。||asin:4804310541

 このように「三十二相八十種好」はまったくインドの伝統的教団である説一切有部から派生した定型的な形容句なのである。そしてこの説一切有部の『ディヴィヤ・アヴァダーナ』や『アヴァダーナ・シャタカ』に登場するのが説一切有部マトゥラー僧団のウパグプタ長老という高僧である。『アヴァダーナ・シャタカ』でのウパグプタ長老はアショカ王と対談して仏教に帰依させたといわれる。アショーカがまだ若いころガンダーラの隣接地タクシャシラーで反乱が起こり討伐に赴いたアショカは反乱をたちまち鎮圧。まだ父王が健在だった時期に北部インドのカシュミール、ネパールのタライ盆地、ベンガル地方などを手中に収めていたが、タクシャシラーを中心としたガンダーラ地方全域の総督となり勢力を増し、やがてマウリア朝第三世に即位するとインド東海岸カリンガ国を征服して、南インドの一部を除く広大な領地を手に入れた。それから、彼は戦乱による強圧的な殺戮を恥じる思いに駆られるようになり苦悩の救済を求めてウパグプタ長老と出会うのだ。その後、アショーカ王は仏跡・聖地巡礼の旅に出て、やがて釈尊の生誕地・ルンビニーに至り、石柱を建ててその表面に仏誕を記念する銘文を刻ませた。また『ディヴィヤ・アヴァダーナ』でのウパグプタ長老は悪魔と対話し、神通力を持って悪魔を平伏させるという説話が残されている。そのウパグプタ長老こそ『景徳傳燈録』に禅宗第4祖として登場する優婆掬多尊者である点は、前述した禅宗第12祖に数えられるアシュヴァ・ゴーシャも含めて禅宗説一切有部文献の関係という側面からは非常に興味深い。

 仏の「三十二相八十種好」から思わぬ方向へ話が進んでしまったが今日述べたことは昨今の仏教学において禅は仏教ではないと批判的に扱われてきた事象を再検討する意味で述べたものである。恐らくは進出して拠点となったプルシャプラやガンダーラ、あるいはマトゥラーという地において説一切有部が選択した刹那滅三世実有のアビダルマや業報輪廻の強調、仏がおわしますと在俗に信じられた仏塔崇拝での仏教の専門家としての礼拝・廻向の儀式も、〈理性的ブッダが説いた哲学としての仏教という理念〉からは大きな逸脱であると言えば言えるのかもしれない。しかしアショカとカニシカを敢えて曖昧にしアショカとの絡みが問題になってくる他部派との関係を正当化しようとする大毘婆沙論の記述も微笑ましく、そこにはゴータマ・ブッダから受けた刻印と確信、そしてゴータマ・ブッダへの憧れに連綿と突き動かされる情意の上に立った信仰というものが有ったはずである。そしてその説一切有部への批判として中観派、典拠学派(経量部)が生まれ、さらに典拠学派(経量部)を止揚するかたちで中観派の流れをも取り入れつつ瑜伽行実修行派が生まれた。この批判と論争による分裂はひとり仏教界のみの問題ではなく巻き返しをはかりながら土着のドラヴィタ人の宗教を取り込み確実に勢力を伸ばしていた正統派バラモンによるヒンドゥー教哲学との論争に起因さえするものもあって彼ら仏弟子たちがそうした仏教内外との論争を続けながら16世紀にイスラム教徒が暴力的に侵攻してくるまで仏教の法灯を絶やさず灯し続けたのは14世紀の哲人宰相マーダヴァが述べた通りである。それはまた仏教の複雑化と膨張の歩みでもあったと言うことが出来るのだが、ならばそれはインドにおける仏教の適者生存への道程の模索であったと言えるのではないか。たしかに『景徳伝燈録』での「多子塔前話」も『大梵天王問仏決議経』の「拈華微笑話」も正統な仏教からの逸脱に違いはない。しかしそれも帰化僧や三蔵法師と言われた訳経僧、そして留学僧がもたらした釈尊から受けた刻印と確信、憧れに連綿と突き動かされる情意の上に立って展開された初期中国仏教がより中国的に洗練されて禅仏教として中国の大地に根付き、中国人のために発展していくインド仏教の延長にある適者生存の論理であったのである。『景徳傳燈録』を著した永安道原が大乗・小乗を問わず様々な文献から説話を縦横無尽に引いていることを見れば大乗だ、小乗だと現代の我々が切り分けることはナンセンスでさえある。こうして考えれば禅宗の提示した釈尊伝は決して貧弱などころではない。むしろインド伝統仏教のうちに膨張した釈尊伝をベースに仏教移入から禅宗発展期における中国知識人のニーズを取り入れた堂々たる宗風の鼓揚でさえあるのだ。だとすれば「書誌学的研究で実際にインドに生きていたゴータマ・ブッダの人生を活写すること」とはこうして情意によって膨張してきた釈尊伝を現代人の合理的な視点にたって迷信やら神がかり的と思えるような部分を排除した観念的な理念に過ぎないということも出来る。それはまたブッダと出会うことによってコペルニクス的に人生を転換し得た人々の後世への刻印という仏教膨張の大きな原動力を排除してしまうことににも繋がるのではないかということが危惧されるのである。こんにちそんな仏教の複雑さをそのまま複雑さとして受け入れそれもまたゴータマ・ブッダの説いた仏教であるとの地平を切り開いて行くことが求められていると思う。

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生きとし生けるものが幸せでありますように

涅槃経の研究―大乗経典の研究方法試論

涅槃経の研究―大乗経典の研究方法試論

元記事(ngp-mac.com/kumarin)へのコメント

tenjin95tenjin95 2006/6/20 7:34

> 管理人様


それこそ、拙僧の貧弱な文章をここまで広げてご教授いただきまして、却って御礼を申し上げなくてはなりません。ありがとうございますw(_ _)w


なるほど、いわゆる初期の仏典から構成される釈尊像とは違っていても、後期インドに於ける釈尊像とは親しいことが分かり、やはりなにか“原型”があっても良いと確認できた次第です。


そして、拙僧は釈尊摩訶迦葉の大法付属はいわゆる中国人が政権交代の理想とする「禅譲」観が投影されたものであろうと拝察しております。例えば如浄禅師などは、道元禅師に対して『宝慶記』にて、「教外別伝」を解釈し、「達磨祖師が未だ中国に来ない頃には、中国には仏の行いだけがあって、その行うべき主がいなかったようなものだ。達磨祖師がすでに中国に到ったのであるから、これは例えば、民がその王を得たようなものだ。まさにその時、国土も国宝も国民も、皆その王に属するのだ」という言い方をしておりますが、この最後の部分に、それがよく現れていると思うのです。


取り急ぎ、以上のようなご返答を申し上げつつ、心から御礼申し上げ失礼いたします。

kumarinkumarin 2006/6/21 5:14

tenjin95 和尚さま。

レスが遅くなりましたが、なるほど理想としての禅譲ですか。


中国のインテリの感覚の投影と言えばこんなのもあります。たとえば「神仙通鑑」に見える鍾離権と呂洞賓が曹国舅を還真の秘旨を授けたうえに神仙の仲間に加えたというお話し。お前は修養しているそうだが、一体なにを養っているのかと国舅に問いかける鍾離権と呂洞賓。国舅が道を養っていると答えると、道を養うとはいうものの、その道はどこにあると思っているのかと、笑いながら問い返す。国舅が黙って天を指すと、それでは天はどこにあるのかとたたみかける。さぁ!さぁ!道(い)え!道(い)え!国舅が自分の心を指すと、二人は大笑いに笑って、心はすなわち天、天はすなわち道というわけだな。お前はすでに自分で本来の面目を自得していると。どことなく「正法眼蔵涅槃妙心」に通ずるものがあると思いませんか。


 

実際これなど無門関十九則「平常是道」を彷彿させます。家風としては臨済のほうが道教に近いように思いますね。

「南泉、因に趙州問う、如何なるか是れ道。泉日く、平常心是れ道。州云く、還って趣向すべきや。泉日く、向かはんと擬すれば即ち乖く。州云く、擬せずんば、争でか道なることを知らん。泉日く、道は知にも属せず、不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不疑の道に達せば、猶ほ太虚の廓然として洞豁なるが如し。豈に強いて是非す可けんや。州言下に大悟す。」


道元禅師はこうした思想には批判的であったように思います。

では、お幸せでありますように。

*1:平岡 聡 『説話の考古学―インド仏教説話に秘められた思想』出版:大蔵出版 ASIN/ISBN:4804310541 2002-06 第5章 再生に関する思想 5.授記の定型句の成立 P317 ~ P325参照 この中で平岡氏は授記の定型句が登場する経典類を列挙しているがその数は34例に及ぶ。特にまとめとして授記や誓願の思想が有部系の文献に多く見られるのは、他部派の広律にはほとんど見られないことと検討すると、有部が業思想を過度に強調した副産物であるが授記や誓願の思想が重要視される大乗との関わりは重要であると結論づけられているが、ショペン教授が示された有部教団の中での大乗的な活動と関連を考えれば大乗仏教説一切有部内でも成立していったと推測する僕には心強い論文であった。

*2:下田 正弘 『涅槃経の研究―大乗経典の研究方法試論』出版:春秋社 ASIN/ISBN:4393111931 1997-02 第一章 大乗涅槃経前史 第一節非大乗系涅槃経 P77~80 及び 第二節『ブッダチャリタ』P80~82 P89~90 参照

*3:前掲平岡書『説話の考古学―インド仏教説話に秘められた思想』第三章 定型句を廻る問題 P173、P439 参照 本文でも触れたが氏の仏の「三十二相八十種好」の出頻度調査によれば『ディヴィヤ・アヴァダーナ』に7カ所、『根本説一切有部律』 前述の破僧事を含む全般に7カ所、『アショカ・アヴァダーナ』に38話42カ所に及ぶ。各地で出土し保管先も異なる文献からこうした調査を行うことは容易なことではない。全くもって氏の綿密で地道な努力には頭が下がる。そしてこういう成果は他者の研究にも非常に有益な資料となる。改めて敬意を表したい。