KumarinX Kaneko Ryogen Jean Michel Kaneko Photography MacOSX
読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

さぁ、さぁ、随処為主立処皆真、自分の死を想像してみよう

仏教 Blog

死ぬときはホスピスがお気楽かな?

 いつも頑張ってこの仕事はオレじゃなくちゃなんて思いこんでいて他人には任せられないでいる人に誰にでもひたひたと平等に迫ってくる死について真剣に想像力を働かせてみることをお薦めしたい。生きとし生けるものに確実に瑕疵されているのはなんせ死ぬこと以外に何もないのだから実はオレがいなくったって世の中は何も変わらず変化し続け同じように時間は流れていくものなのだ。まぁ他人に勧める以上まずは自分でやってみよう。今年の人間ドックでは何も出なかったけれど僕の父親は癌で亡くなっているし、叔母にも癌で亡くなった方がいるから以外と僕も癌が発病するんじゃないかと思っている。父親も叔母も肝癌だったから僕も肝癌かな?などと思ったりする。二人とも告知を受けずに自分の本当の病気と治療方針を知らされずに死んでいったし、家族も本人の為にはそのほうが良いと思っていたのだから仕方がないか僕はそれについては大いに疑問を持っているのだ。

 果たして生きる希望だけを与えられ医者や家族の言うようには一向に改善しない自分の体調とのギャップや元気になるはずなのに遠い親戚や古い友人まで見舞いに来る現実と彼らはどう闘ったのか?いやその不条理をどう受け止めたのであろうか?自分から話すことも出来なくなったときに、かすかに聞こえる家族や主治医の会話をどう聞いたのか?迫り来る自らの死を前に接続された生命維持装置をうっとうしく思わなかったのか?ならば少なくとも自分に意識があり、話が出きる状態の時に自らの死を受け止めたかったのではないか?自らの死を自覚したときに自分の意志を家族や医師に伝えることの出来ない無念さは想像するにあまりあるのである。

 本人の知らないところで治療方針が決められ死を迎える本人が蚊帳の外であるなんてことは許されるはずがない。ましてや「煙草はダメだ」とか「酒は飲むな」など本人に告知をせずに家族が言うとしたらそんなもの家族のエゴ以外の何ものでもない。告知をし、本人が自らの死を認識したうえで「酒は飲むな」なら「いや、あなた方には悪いが私は酒が飲みたいのだ」と言えば済むことだが、そうでなければたいして生きられもしない命を「直るから」といわれて生きて、延命の為の摂生が残りの限られた時間をつまらなくしてしまうではないか。有意義に自分の人生をなぞる権利は誰にでもあるはずだ。それにはまず自分が目の前の自分の死を自覚せねばならないのである。

 何しろ人間は生まれた瞬間から老いが始まりその死に向かって突き進んでいるのだから全く人ごとではなく、老いと死は我がことなのである。僕を含めた"なんびと"も死から逃れることは出来ないし日に々々老化しながら生きているのである。今日もまた一日分老化し一日分死に近づいているのである。そう死はひたひたとラストコーナーを廻っていよいよ近づいて来るのである。死という今生との別れが人生の最終目標なのだから人間は今生を努力して自己実現をしようと頑張れるのであって、死がなければ頑張る必要もなくなってしまうから全くの拍子抜けだ。

 ところである日突然背中に激痛を感じて病院を訪れると早速検査が必要だと言うことになり、予約をいれてそそくさと超音波だ、なにやらだと検査を済ませると主治医が「入院が必要です。肝臓がかなり弱っているから造影剤を注入して様子を見たいと思います。私達も頑張りますから、あなたも一緒に病気と闘いましょう」などと言われれば「僕は癌なのですか?あと何日生きられるのですか?先生正直に仰って下さい。僕は死ぬまでに整理しなければならないことが有るのです。」と申し上げようと決めている。そのとき主治医がこの患者にはきちっと告知をしようと思えるように、こちらも説得力と冷静さをもって当たらなければならない。もちろん「申し上げた血管造影が成功すれば3ヶ月は生きられると思います。当病院の血管造影の成功率は90%以上です。でもここで血管造影をしなければ一週間ともたないかもしれません。」と言われれば大変にショックだろうけれど、きっと一晩何でオレだけが(実は別にオレだけが癌で死んでいく訳ではないのですけどね)と涙するだろうけれど、事実を受け止めて、会いたい人には連絡するだろうし迫る死に向かって自分の態度を決めることが出来るだろう。

 そこで血管造影を受けることになるのだがこれとて一割はそのまま死んでしまうかも知れないからその前に取り敢えず会いたい人には連絡し今までの厚情に対して謝意を表さなければならない。呼ばれて会いに来る人も僕が癌で死ぬことがお互いの共通の認識だから言葉遣いに気を使わずに済むし「頑張って病気と闘って下さい。退院した暁には一緒にワインでも飲みましょう」などと白々しいことを言わずに済み、堂々と泣いて貰っても差し支え無いのである。勿論僕も「今度の血管造影が上手くいけば、一時退院も出来るそうだから、そうしたらワインでも一緒に飲みましょう」とか「一回くらいSEXしましょう」とか言えるわけでこれが告知されていない患者だとそうはいかないからその場は白々しく重苦しい雰囲気になってしまう。そして意を決して主治医に賭けてみて血管造影を受けることになる。

 さて血管造影が成功し肝癌に直接抗ガン剤を噴射し少しはガン細胞が小さくなったとすればしめたものである。その間にセカンドオピニオンを含め様々な治療法を検討し意識のあるまま生きられる期間をいかに延長するかを主治医と検討することになる。これも告知されない患者であれば治療方針の真実を自分で知ることが出来ないから、いっこうに良くならない自分の体と苦しみにやがて疑問を抱き、家族や医療従事者に不信感を抱くことになろう。だいたい良くなるからと医者に言われているのに滅多に逢うことのない人々が次々に見舞いにくればオレは死ぬのではないかとよっぽど鈍感な楽天家でない限り気が付くものだと思う。そういう状況で「頑張って!」などと言われるのはとてもじゃないが耐えられそうにない。臨終が近づけば親しい人たちと手を取り合って「有り難う」といって泣きたいものである。

 そこで主治医に紹介して貰ってホスピス(終末期医療施設)に入ることになる。とりあえず神のご加護はお引き取り願いたいのでやはり仏教系がベターである。無宗教系も変に生きることに声援を送られそうでこそばゆい。たとえ数週間死が早くなったとしても僕は行ってみたいところに出来る限り行きたいし、会いたい人には出来る限り逢いたい。好きな酒も飲みたい。死を迎える数ヶ月の間に今までの自分の人生をなぞり、謝意を表すべきには表し、お詫びをするべきには詫びたい。意識がある間は点滴くらいは付けていても構わないが、柔らかめのクスクスやトリュフ入りオムレツでもいいから自分の口から食べたいものだ。モルヒネが効く間は打って貰うとしても意識低下剤で半分眠らなければ痛みや辛さに耐えられなくなる頃には、是非もう一度主治医や親しい人たちに別れの挨拶をしたい。そして意識低下の注射をする前に主治医に「僕の心臓が停止しても決して心臓マッサージはしないでそっと死なせてください。廻りの人たちにも僕の意志としてこのことを伝えてください。そして意識低下したら栄養剤を始めとする点滴や一切の生命維持装置は付けないで下さい。先生、どうも有り難うございました。」と言わなければならない。生命維持装置がつけられ自分は話すことが出来なくても廻りの人たちの会話はある程度認識できるのだと言われる。そんなことに僕は耐えられそうもない。まして癌告知を受けずにそうした危篤状態に陥った人たちはどういう思いで臨終までの期間を過ごすのだろう。想像しただけでも発狂しそうになるではないか?

 僕と最後の挨拶をした主治医は僕に注射をする。その頃の僕はモルヒネも効かずもう痛みに耐えかねている。やがて意識低下状態に入り、生命維持装置が外された僕は眠るように24時間以内に死ぬことが出来るのである。何人のひとが泣いてくれるのだろうか?こうして考えると死とはなんと身近で親しいものなのだろう。臨済宗では毎年正月に遺書を書く習慣があるがなかなかよいものである。良寛さんのようにスマートにはいかないけどね。

裏を見せ 表を見せて 散る紅葉

形見とて何か残さむ春は花. 山ほととぎす秋はもみぢ葉

良寛の辞世の詩〉

********

随処に主となれば立処皆真なり。では、お幸せでありますように。

元記事(ngp-mac.com/kumarin)へのコメント

ゲストゲスト 2006/8/24 21:14

故エリザベス・キューブラー・ロス博士のお名前をご存知でしょうか。もし知らないと仰るのなら博士の著作をお読みになることを強くお勧めします。


実際に「一日10時間、週7日」死と向き合う生活を何十年とやってきた実践者と頭の中であれやこれやと想像しているだけの人との違いを思い知らされるでしょうから。

kumarinkumarin 2006/8/26 6:18

ようこそ、ゲストさん。


 アドバイス有り難く存じます。しかし「一日10時間、週7日」死と向き合う生活を何十年とやってきた実践者とあなたとの関係はどのようなものでしょうか?


 僕は喩え稚拙でも頭の中であれやこれやと想像することを選択しようと思います。ロス博士のような実践者の経験を賞賛することに異存はありませんが、そうした偉大な体験を掲げて稚拙でも頭の中であれやこれやと想像することを放棄して体験主義に逃げ込むことは人間であることを放棄するものだと思うからです。


********

では、お幸せでありますように。

ゲストゲスト 2006/9/16 22:36

さて、不思議なことをおっしゃられる。


あなたの記述を読ませてもらう限り、あなたは禅の宗派にて僧籍をお持ちであるはずです。


人生、全て自分の思う通りになるわけではない。というのが仏教の教えであるはず。にもかかわらず、あなたの文章は自己の死まで「自分の思う通り」にしようというようにしか見えません。一体、最後まで煩悩にまみれて何をしようというのです?