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一人フレンチで何が悪い!Brassrie Bec 篇

一人フレンチ実践報告

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 今日は代々木上原の Brasserie Bec での一人フレンチ実践報告。実は「一人フレンチで何が悪い!」というMixiのコミュがある。一応を挨拶入れて参加しているが殆ど ROM 専門である。そこでたまには投稿してみようと一人フレンチ実践報告を書いてみることにした。

今日のメニュー

  1. 01 Fleurie, Les Roches de Vivier グラスでいただいていたんだけど結局一本飲んでしまった
  2. ウズラのパテ、アンクルート ピーナッツオイルのさっぱりしたソースとこってりしたウズラが絶妙の組み合わせ
  3. ほろほろ鳥胸肉のソテー、ポーチドエッグ添え ジューシーで熱々なシンプルな一品。
  4. デザート
  5. 自家製パンとタルト

 「一人フレンチで何が悪い!」コミュは初めのうちは一人フレンチを楽しむための情報交換の場に過ぎなかったが最近「一人フレンチ不可の店」の情報が交換されるようになり、比較文化論まで登場するに及んで俄然楽しいコミュになってきた。敵なる一人フレンチ不可の店として「シェ・イノ」「レカン」「レ・クレアシオン・ド・ナリサワ」が槍玉に挙げられて攻撃されているが投稿される諸氏のご意見はもっともなものだと思う。悪いのは攻撃されているレストランの方なのだ。「シェ・イノ」の井上旭ごときは拙の知り合いの女性に一目惚れしたのか調子に乗ってロマネ・コンティを呑ませて迫ったと言うくらいだから(彼女に因れば訴え出れば多分逮捕されるだろうってくらいに)だから。このコミュの諸氏によってこれらのレストランが『他文化の 表面の目に見える形だけを輸入して 本質を見る力がない あるいは都合よく無視する と云う 「舶来品移入文化」の典型例(閣下さん)』だと切って捨てられるのは仕方が無いことだと思う。

 もうそろそろ 合理的説明のない あるいは できない顧客差別行為から足を洗って戴かないと 日本の業界はいつまで経っても 国際標準から乖離した鎖国状況から 脱皮できません (閣下さん)』とはまさしくその通りだと拙は思う。まさかジャン・トロワグロが気にいった女性客がいるからと言って彼女にロマネ・コンティーを振る舞い他の客が帰るのを待って店に鍵を掛け彼女に迫るなんてことはなかったんじゃないか?そうした論外のレストランはさておけば、実際美味しい料理を一人で食べる楽しさは好きな書を読むことに似て一人の時間を圧倒的に豊かにする。この店は良さそうだと照準を定めたら一度は季節の定番の皿をいただいておいて次回はアミューズをつまんでシャンパンを呑みながら旬の素材を自分好みに調理して貰い、ピッタリのワインを選んで貰うためにまるで農村が都市を包囲するようにジワジワ責めるのが楽しい。性欲はどんなに極めても粘膜経験への固執に過ぎないが調理は食欲という本能を超え、いわゆる人情をも越える知性と論理の賜なのだと思う。

 フランスのゴーミヨガイドでおなじみのクリスチャン・ミーヨによればスーパーシェフという人種は時には想像もつかないキチガイじみたことをするという。一羽の鴨のために3羽の鴨を潰してソースにしてしまうなんてことはざらだそうで、素材と加熱の媒体とで調整する(ここで言えば鴨肉と焼き汁が溶け出たバター)のがアカデミー・キュイジン・フランセーズ(学問としてのフランス料理)基本だがそんなことはここでは簡単に放棄されているかに見える。しかし美味しさを積み重ねて撚り美味しくしていくという強靱な意志は、旨味の成分の観点からも、風味の観点からも論理的に構成され、かつ材料を使い切って無駄にしないことで生かし人間の原罪を赦免してしまうところなど宗教的にも完結してしまうフランス人の中華思想の賜なのだ。

 余談だが、料理を宗教や文化と絡めて論じれば早稲田大学・福田育弘教授の学際分野としての「飲食表象論」が優れた問題提起であろう。学際からアプローチして落としどころの学問へのオプションが豊富に用意されている。「一人フレンチ」は対象を客体化して考えることではなく遂行的研究に位置すると言えるので、なにもアカデミー・キュイジン・フランセーズが持つ豊富な方法論と調理論のみならず文化としてのレストランを体験しながら観察する楽しさもある。まさしくギャルソンやソムリエ、時にはシェフとの対話を通じてたぐり寄せるべき時間は重層的に多元的に、にもかかわらず論理的に記述されたフランス料理と言う目の前の皿を心ゆくまで楽しむ時間であるのだ。ブラッスリーベックでホロホロ鳥をいただきながら福田教授のアイディアをお借りして仏教史を仏教表象論として構成し直して出発点とし、学生自身が問題の設定をして仏教的視点から他の学問を自由に選択、学んでいけるようなカリキュラムを組めればもう少し根本的なところから仏教が社会に貢献できるのではないかと考えたりもした。