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わたしほど真摯に幸せを求めるものはない

アルヌッダよ、世の中の人々はみな幸せを求めている

 さぁ、さぁ、随処為主立処皆真、自分の死を想像してみよというエントリで、父と叔母の臨終を見た体験から末期癌に自分が冒されたと仮定して告知と終末ケアについて仏教色を押し出さずむしろ世俗的な視点と半分ジョークを交えて書いたらイチャモンがついてしまった。拙のテキスト自体が確かに半分ふざけており、そのふざけた分だけ真意が伝えにくくなってしまったたのは否めないし、その拙のヘタレなテキストについては反省もあるのですがイチャモンを付けた方もどうも仏教を誤解しているように思えてなりません。告知を受け入れて遺された時間を有意義に過ごそうという意味で書いたものを『あなたの文章は自己の死まで「自分の思う通り」にしようというようにしか見えません』と言われてしまいました。たしかに有意義に過ごす例が極端すぎてふざけていると言われてしまえば仕方がないのですが (^^ゞ

人生、全て自分の思う通りになるわけではない。というのが仏教の教えであるはず。にもかかわらず、あなたの文章は自己の死まで「自分の思う通り」にしようというようにしか見えません。一体、最後まで煩悩にまみれて何をしようというのです?さぁ、さぁ、随処為主立処皆真、自分の死を想像してみよ...コメント欄より

 まずきちんと告知を受け入れるという態度が人生を「自分の思う通り」にしようということになるとは拙は思いません。この方は「人生、全て自分の思う通りになるわけではない。というのが仏教の教えであるはず」と述べられていますがまもなく死を迎えなければならない因を知り死を迎える覚悟をして人生の整理を付けていこうとすることが仏教の教えに反するのでしょうか?一切の自己の体験的世界は縁起によるもので我がものではないと知り心の平穏を得るのが仏教の教えだと思います。幸せになることを仏教は否定しないのです。快楽主義による放逸と禁欲主義による自己虐待的な苦行の、二つの極端を排して中道を歩む、縁起観によってあらゆるものの非我を知ることが智恵であり心の平穏を得る、これがすなわち幸せになる道であると仏教は説きます。勿論、そのエントリにあるような死に方がいわゆる涅槃であるなどと強弁するつもりは毛頭無いことだけは申し添えておきますが。執着を離れるのならばいま述べたような方法論で幸せになることを考えるのは仏教の教えには反しないと拙は思のです。(くりかえしますが正しい仏教であるというつもりは毛頭ありません。)

 ゴータマ・ブッダにアルヌッダという弟子がありました。両家の子息であったアルヌッダは出家生活の厳しさにかブッダが弟子たちに教えを説いているときについ居眠りをしてしまいブッダに難詰されます。その時以来アルヌッダは眠ることをしないと誓い修行に励み遂に視力を失ってしまいます。あるとき綻びた僧衣を繕おうとして針に糸を通そうとしますが視力を失った彼はなかなか糸を通すことが出来ません。彼は「世の中の幸いを求めるものよ、私のためにこの針に糸を通して功徳を積むものはいませんか。」とつぶやきます。そのとき誰かが彼の側に歩み寄って「さぁ、その針と糸を貸してください。私に功徳を積ませて下さい。」。名乗り出た声は師であるゴータマ・ブッダその人の声でありました。アルヌッダは驚き「世尊よ、私は世尊に向かってそんなことを申し上げたのではありません。」と固辞するとブッダは針に糸を通しながらこういったのでした。

わたしにも功徳を積ませておくれ。アルヌッダよ、世の中の人々はみな幸せを求めている。しかしアルヌッダよ、世の中の幸せを求める人々のうちでわたしほど真摯に幸せを求めるものはない。 阿那律白佛言。向所稱説者。謂諸世間欲求其福者與我貫針。世尊告曰。世間求福之人無復過我。 - 増壹阿含經 0125_,02,0719b01~3

 増壹阿含經のこのエピソードを持ち出すのはやや無理があるのでこじつけだとまたお叱りを受けそうですが、読者の方は拙の真意をご理解いただけるでしょうか。このコメントを下さった方は告知を受け入れて遺された時間を有意義に過ごしたいということを「煩悩にまみれて」と仰います。まぁよほど完全なる出家者として渇愛=根本的生存欲を完全に滅尽したに方に違いありません。そうでなければ恥ずかしくて「煩悩にまみれて」などと他人を批判できないでしょう。そのような方が「一日10時間、週7日」死と向き合う生活を何十年とやってきた実践者とあなたとの関係はどのようなものでしょうか?」のと拙の問いかけにまるで自己の態度をハッキリせずに人のことばかり仰るのはとても不思議な気がしました。

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では、お幸せでありますように。

元記事(ngp-mac.com/kumarin)へのコメント

名無しさん名無しさん 2006/9/26 20:52

はじめてまして、くまりんさま

ものすごく今更感たっぷりと自覚しつつ、

たまたま本日これに出会い、

気になりましたものでコメントさせて頂きました。


私も、有意義に生きる為には正しい情報を与えて

もらいたいと考えます。ですので、告知はされる方が

良いと思っております。

同時に、例え、何の予告もなしに明日命尽きるとしても、

慌てたり後悔することのないように、

日頃より精一杯生きていたいものだという考えも

あると思うのです。


くまりんさまは、もし、余命あと一ヶ月と告知された

ならば、年始に書かれた遺書の内容を書き換えられる

のでしょうか。


遺書を書くことで死と向き合い、今生きている自分の

在り方をより強く意識すること。また引用にあります

お弟子様に対するお釈迦様の言葉、今日も明日も変わらず

間断なく幸せを突き詰める姿勢が示されているように、

私は解釈したのですが、くまりんさまはこれを

どのような意図でご呈示されたのでしょう。

どうにもそこが汲み取れずにおります。


まだ私が辿り着いたことのない考え方があって、

それがくまりんさまに見えておられるのであれば、

是非そこをお伺いいたしたく。

kumarinkumarin 2006/10/2 5:21

ようこそ、なんとお呼びしたら良いでしょうか。

 あなたさまが「辿り着いたことのない考え方」へわたしが辿り着いていることなどはないでしょうが(自爆)、とても丁寧なコメント有り難く存じます。

 すこしでもわたしの意図をご理解いただきたく書き出したら長くなってしまったので新たにエントリにさせていただきました。


わたしほど真摯に幸せを求めるものはない II

http://d.hatena.ne.jp/kumarin/20061002#p1


 どうかご覧いただきご批判くださいますよう。


では、お幸せでありますように。



名無しさん名無しさん 2006/10/2 20:52

最初に。この件は本題とは関係ないことですが、これは書いておかねばならないでしょうから。


>一体、最後まで煩悩にまみれて何をしようというのです?


あなたはこれを皮肉だと受け取ったのかもしれませんが、私はある痛い事件以来、掲示板において例えや皮肉を書くことは絶っております。上の文章は皮肉でもなんでもなく、私があなたの書いたことから感じたことをそのまま文章にしたものです。


>大変にショックだろうけれど、きっと一晩何でオレだけが(実は別にオレだけが癌で死んでいく訳ではないのですけどね)と涙するだろうけれど、事実を受け止めて、会いたい人には連絡するだろうし迫る死に向かって自分の態度を決めることが出来るだろう。


最初に、私が疑問に思ったのがこの文章です。並の人ならいざ自分が死に臨んでいることを知ったときの苦悩はキューブラー・ロス博士の著書などのターミナル・ケアに関する書籍を読む限り、痛烈なものであり、あっさり一晩で覚悟ができる代物だとは全く私には思えません。


しかし、あなたはあっさりと「自分は一晩悩めば覚悟ができる。」としか採れない発言をなさっている。ここであなたが真面目に書いているのかどうか疑ったのです。


その後の文章は、書いてあるのは物質的な欲望ばかりとしか私には読めませんでしたし、しかもあなたにとって理想的な経過を辿っているように思えます。ですから私は「煩悩」だといったのです。実際は指一本動させなくなるかもしれないし、全身が痛くで夜も寝られないかもしれない。自分にとって耐え難い条件が与えられる可能性に考えが及ばないこと自体、「煩悩」と言えるのではないでしょうか。そして、そのようになったとしても、あなたは自分の人生の整理がちゃんとできるのでしょうか。

kumarinkumarin 2006/10/21 5:21

おはようございます。

 あなたの仰るとおり本題と関係がないので関係のあるこちらのエントリにコメントを移動させていただきました。悪しからず。


リアリティーをどう伝えるかは考え方にわたしとあなたには大きな隔たりがあるし「煩悩」という仏教用語の理解も大きく異なっていると思えたので批判はまた他の読者にも委ねたくあなたへの返事は別エントリを立てましたのでご批判ご叱責ください。


■リアリティーは受け止める側の想像力の問題では?

http://d.hatena.ne.jp/kumarin/20061020#p1


いろいろとご批判、ご叱責ありがとうございました。

では、お幸せでありますように。