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われというものはないと知ってよく煩悩を断つことを得ず

わたしを巡るどうどう巡り

 睡眠不足で眠いし、一日も暮れようとする頃にはなにを考えても長続きしない。つまり考えを練り上げて先に進むことが出来ない。ある方面をちょっと考えるけれどもその先に進めない。じゃあこっちの方面は?うーん、面倒だ。

 そうは言っても何とかしたい自分がいる。なんとかしたいのになんともならない、なるほど受も想も行も識もわがものではない。

 受も想も行も識も無常だからみーんなわがものではないとちゃんと理解をしているわたしがいる。わたしはちゃんと観察している。わがものではないわたしのそれぞれをわたしはちゃんと見ている。やる気があったりなかったりだらだらしたり一時として同じではない変化するわがものではないわたしをわたしは見ている。

 元気なときは自分がかわいいと思うわたしを、ダメなときは情けないと変化するわたしをいまのわたしはちゃんと見ている。

 友よ、わたしは肉体がわれであるというのではない。また受や想や行や識やを指さして、それがわれであると言うのでもない。あるいはまたそれらを離れて、別にわれがあるというのでもないのである。

 友よ、たとえばそれは分陀利華の花のかおりのようなものである。もし人あって、瓣にかおりがあるといったならば、それは正しいであろうか。あるいはまた、はなの蕊にかおりはあるといったならば、それは正しい解き方であろうか。

 友ケーマよ、それらの解き方は正しくあるまい

 では、友よ、そのときどのように答えたならば、正しい答えかたであろうか

 友よ、それはやはり、花にかおりがあると答えるのが正しい答えかたであろう

 友よ、それと同じことである。わたしは、肉体(色)がわれであるというのでもなく、また受や想や行や識やを指さして、それがわれであると説くのでもない。あるいはまたそれらを離れて、別にわれがあるというのでもない。友よ、わたしは、肉体と精神の仮和合の総体(五取蘊)においてわれを見るのであるが、またそれをわれのものと見るのではないのである漢訳雑阿含經卷第五 一 差摩 求那跋陀羅訳 を 増谷文雄の妙訳で

 この経には自己を観察する認識主体としての自己が想定されている。こういう経に注目してピックアップする増谷博士はやっぱり凄い。仏教において自己の問題は自己はないと片付けるほど単純じゃない。一見、時間は想定されない相依性の論理のようには見える。だから増谷博士はブッダの縁起を相依性に求めようとされたのかもしれない。だけど増谷博士ほどの人が時間を見過ごすか?

 受、想、行、識がわがものではないのは無常であるゆえである。だとすれば識の無常とは自己と世界の関係において変化する認識主体としての自己が時間軸の先頭に想定されなければならないと思う。だからどう考えても縁起は説一切有部が想定したように相依性ではなく時間の流れのなかでの因果なのである。そこまで行きながら何故有部は暗黙の了解としての自己を肯定するに到らなかったのだろうか。その後、仏教が唯識に至ってわたしを巡るどうどう巡り、つまり自己を巡る無限連鎖に陥ることになるのだって、それじゃ宮元博士の二番煎じなんだけど、そうではなくてそのヒントはこのあたりにありそうな気がする。

 ああ、眠い。だるい。それを見つめるわたし。捉えた瞬間見つめるわたしは既にわたしの後ろに回り込んでわたしを見つめている(笑)

仏陀―その生涯と思想 (角川選書 18)

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