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わたしほど真摯に幸せを求めるものはない II

仏教

ひそかに輪廻に期待を寄せる現代人にとっての苦の滅とは?

 先日の「わたしほど真摯に幸せを求めるものはない」に丁寧なコメントを頂戴しました。今日のエントリはそのかたへの返事も含めて書いてみます。エントリ中で「幸せになる」ということを前面に押し出したのはそのエントリとここで扱った「さぁ、さぁ、随処為主立処皆真、自分の死を想像してみよ…」が仏教の専門家に向けて書かれたものではないからです。ゴータマ・ブッダの時代のインドの人々は輪廻転生の繰り返しごとに迎えなければならない再死を永遠に続く苦しみと恐れその輪廻転生から脱し今生の死をもってもはや再生することがないことを究極の「幸せ」と考えました。しかし今現代の我々は逆にこの世限りの生ではなく生まれ変わり死にかわり輪廻していくことを心のどこかで望み、来るべき死を我がことから遠ざけているようにわたしはおもいます。それは死を遠ざけ他人事にしておいたままのほうがまるで「幸せ」な生活であるように。末期癌患者のかたに告知をしないという考え方はここに根ざしているとおもいます。ですから「苦を滅する」という言い方よりも「幸せになる」という言い方のほうが現代人には伝わりやすいと考えたのです。

私も、有意義に生きる為には正しい情報を与えてもらいたいと考えます。ですので、告知はされる方が良いと思っております。

同時に、例え、何の予告もなしに明日命尽きるとしても、慌てたり後悔することのないように、日頃より精一杯生きていたいものだという考えもあると思うのです。

- 中略 -

遺書を書くことで死と向き合い、今生きている自分の在り方をより強く意識すること。また引用にありますお弟子様に対するお釈迦様の言葉、今日も明日も変わらず間断なく幸せを突き詰める姿勢が示されているように、私は解釈したのですが、くまりんさまはこれをどのような意図でご呈示されたのでしょう。

どうにもそこが汲み取れずにおります。

わたしほど真摯に幸せを求めるものはない...コメント欄より

 「有意義に生きる為には正しい情報を与えてもらいたい」という考え方と「何の予告もなしに明日命尽きるとしても、慌てたり後悔することのないように、日頃より精一杯生きていたいものだという考え」方は「死と向き合い、今生きている自分の在り方をより強く意識する」生き方において別の考え方でしょうか?人間が死ななくてならないことは誰でも分かる明白な現実なのですからこの二つの考え方は境に応じて発露される同じ思想の二側面ではありませんか。例えば孤峰頂上と十字街頭のように。それはゴータマ・ブッダが云うところの「幸せを求める」ということから展開される生き方に連鎖していくことだとわたしはおもいます。それは自己の経験的世界においてあらゆるものは淀みなく変化し続ける(諸行無常)ゆえにわがものではないと知って(諸法非我)倫理的生活と徹底的な思考の瞑想(四聖諦と八聖道)によってなにものにも左右されない心の平穏(涅槃=究極の幸せ)を得ることでしょう。わたしとしてはその僅かでも出来れば良いとおもいますけど・・・

 仏教の考え方で言えば人間が死ぬことは誰でも分かる明白な現実でその死に至るプロセスは縁起という論理で説明出来ます。告知を受けて死を受け入れる生き方をしても、何の予告もなく明日突然命尽きるにしてもそれぞれの縁起する五蘊があるのみ。しかるに「死を遠ざけ他人事にしておいたまま」にしておくことはこの論理を無視した生存への執着に基づく人情であり、その人情が縁起という死に至る論理を、縁起が悪いという形容をもって論理破綻させてしまう。受け入れがたいことを論理破綻したまま、すなわち考えずに放置しておくことも人情に基づく「幸せ」に連なるものでなのでしょう。しかしその「幸せ」は一過性のものに過ぎません。「幸せ」になりたい、あるいは苦しみを脱したいと願うのは自然な人情です。ゴータマ・ブッダとて例外ではなく「幸せ」になりたいという欲求から出発しています。しかしブッダは人情を斥け徹底した論理思考をもって「幸せ」を実現した人です。自らの経験的世界の徹底的かつ些細な観察によって見出した自らのありかた(法=ダルマ)とそのありかた(法)に拠って人生を送ること(八聖道の実践)で到達する幸福。その揺るぎない自信が「わたしほど真摯に幸せを求めるものはない」ということばに顕れているとおもいます。人間はことばと論理をもって動物から立ち上がった。犬でもクマでも情はあります。しかし人間はことばと論理で情を突き抜けて生き方を選択することが出来る。ニーチェの言葉を借りればゴータマ・ブッダの幸せを求める方法論は「人間的な、あまりに人間的な」方法論と言えるでしょう。

 白隠禅師も幼い頃風呂の薪が燃えたぎるのを見て地獄に恐れおののきその恐怖が出家の動機になったと伝えられていますね。「そんな出家の動機じゃお前は自分さえ良ければいいのか」と師の正受老人に罵倒されたと弟子の東領和尚に語ってそんな自分に比べれば東領和尚の志は立派だと褒めたというエピソードがありますが、正受老人に比べたら余程白隠禅師のほうが自然であり人が仏教へアプローチする心理プロセスを理解していたんじゃないでしょうか。だって幼い白隠にとっては衆生を利益することより自分が「幸せになる」ことのほうが遥かに一大事だったわけですから。菩薩道の「始めに大悲ありき」を想定した大乗を強調したいための作り話はかえって歴史上の人物を貶める典型とでも申しましょうか。なんでこんなことを書くかって?この流れのエントリにコメント下さったお二人にわたしは臨済の臭いを嗅いでしまうのです。ってそれはわたしの妄想でしょうか。

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生きとし生けるものが幸せでありますように。合掌

元記事(ngp-mac.com/kumarin)へのコメント

さかいさかい 2006/10/3 21:14

くまりんさま

思いがけず、大変ご丁寧なご返答を頂いてしまい恐縮致しております。ありがとうございます。

私の、自分自身の死に対する構え方は、おそらく、くまりんさまに近いのだと思います。要所要所で大変シンパシーを感じておりますので。

ただ、正直に告白致しますと、お言葉が難しくてまだ充分に理解できておりません。私には仏教の素養もございませんので尚更。ただいま、じっくり拝読させて頂いております途中ですが、そもそも最初のお話をどなたに向けてお伝えしたかったのかについて分ってきたように思います。今現代では心のどこかで輪廻を願っているとの下りには、なるほどと思わず頷かされました。まだまだ気付くべき点が残されているように感じておりますので、一連のお話と併せて引き続き大切に拝読させて頂きます。

今の時点で感じておりますことを一つ。少し穿った見方ですが、くまりんさまが、お父様と叔母様の死に際について後悔し、未だご自身を責めておいでなのではないかとふと思いました(そうでなければ申し訳ございません、その場合は私が同じ立場に身を置かれたときに感じるであろうことと解釈して頂けますよう)。

告知されなかったとしても、どこかで死期を察し死を受容しておられた可能性と、それゆえ最期の瞬間は穏やかに死を迎えられたかもしれないということ。もしそうであれば、自らの死に対して、遺された者が悔やむのを望まれるだろうかと。そこから、他者の死をどう受け止めるか、また自分の死後も続いていく(であろう)世界に自分は何を望むのだろうかと、ただいま思索しておりますところです。

先のお話でまた一点気付いたのですが、くまりんさまの「このコメントを下さった方は告知を受け入れて遺された時間を有意義に過ごしたいということを『煩悩にまみれて』と仰います」の部分、

この方が「煩悩にまみれて」と指摘された点はそこではなく、告知後の有意義な過ごし方の例えが、死を受容した者の想像としてリアリティが足りないと仰りたかったのではないかと推測致します。では実際どんなものなのか、私にもまだ想像の及ばないものではありますが。


いずれにしましても、私に取って非常に有意義な思考の機会を与えて頂きましたこと、感謝致します。

個別の名前を表記するためには、ひょっとして登録が必要でしょうか。充分にマナーを把握せずに書き込みを致しますご無礼をお許し下さいますよう。もしもまたコメントさせて頂けることがありますならば、名前を「さかい」とさせて頂きたく思います。長々と失礼致しました。