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リアリティーは受け止める側の想像力の問題では?

わたしほど真摯に幸せを求めるものはないをご批判、ご叱責くださったかたへ

 「わたしほど真摯に幸せを求めるものはない」で「さぁ、さぁ、随処為主立処皆真、自分の死を想像してみよ…」にいただいた批判的なコメントに対してどうも仏教を誤解していると述べさせていただいたらこんどはかなり丁寧にご批判を戴きました。このかたのコメントは拙とは違って仏教の優等生ですね。そのエントリで拙はイチャモンをつけられたと書きましたがそれは失礼な言い回しだったかも知れません。失礼はここにお詫びするとともに朝課のまえに早起きが出来たので拙の考えを述べてみたいと思います。「これは書いておかねばならないでしょうから。」ということなので以下に引用します。

>一体、最後まで煩悩にまみれて何をしようというのです?

あなたはこれを皮肉だと受け取ったのかもしれませんが、私はある痛い事件以来、掲示板において例えや皮肉を書くことは絶っております。上の文章は皮肉でもなんでもなく、私があなたの書いたことから感じたことをそのまま文章にしたものです。

>大変にショックだろうけれど、きっと一晩何でオレだけが(実は別にオレだけが癌で死んでいく訳ではないのですけどね)と涙するだろうけれど、事実を受け止めて、会いたい人には連絡するだろうし迫る死に向かって自分の態度を決めることが出来るだろう。

最初に、私が疑問に思ったのがこの文章です。並の人ならいざ自分が死に臨んでいることを知ったときの苦悩はキューブラー・ロス博士の著書などのターミナル・ケアに関する書籍を読む限り、痛烈なものであり、あっさり一晩で覚悟ができる代物だとは全く私には思えません。

しかし、あなたはあっさりと「自分は一晩悩めば覚悟ができる。」としか採れない発言をなさっている。ここであなたが真面目に書いているのかどうか疑ったのです。

その後の文章は、書いてあるのは物質的な欲望ばかりとしか私には読めませんでしたし、しかもあなたにとって理想的な経過を辿っているように思えます。ですから私は「煩悩」だといったのです。実際は指一本動させなくなるかもしれないし、全身が痛くで夜も寝られないかもしれない。自分にとって耐え難い条件が与えられる可能性に考えが及ばないこと自体、「煩悩」と言えるのではないでしょうか。そして、そのようになったとしても、あなたは自分の人生の整理がちゃんとできるのでしょうか。

わたしほど真摯に幸せを求めるものはない...コメント欄より

 丁寧なコメントを有り難うございました。あなたのコメントを読んで拙とあなたとは煩悩という言葉の意味づけがまったく違うと思いました。別に皮肉と受け取っているわけではないのですが、「煩悩にまみれる」という古来のインド的表現とはかけ離れた述語で括る禅宗的用法に違和感を持ったに過ぎません。最後までキューブラー・ロス博士を持ち出されていらっしゃいますがあなたがご自分のことばで拙の書き方のリアリティーのなさをご指摘くださったなら死と向き合いながら病気と共存(闘病などという言い回しが反吐が出るほど嫌いなので - 笑 - )している拙の心情をもう少し詳しく突っ込んでお話ししたかもしれません。しかしあなたの批判の仕方はそうではなかったし、テーマは癌の告知を題材に「自分の死を想像してみよう」という投げかけでしたから、そういう場合のリアリティーは受け止める側の想像力に委ねられる問題だと考えます。拙は辛さや苦しさを生々しい強烈さの臭う単語を羅列して修飾した程度のリアリティーを読み手に押しつけて想像力をかき立てさせるようなやり方はあまり好きではありません。そこがあなたとの相違なのでしょうが、拙のテキストで読者がどの程度「死」をリアルに考えるかは読者に委ねてしかるべきことだし、拙自身はなにもあなたに云われるまでもなくキューブラー・ロス博士のターミナル・ケアに関する書籍を読まなくても死に直面する辛さは体験して十二分すぎるほど知っています。

 「自分にとって耐え難い条件が与えられる可能性に考えが及ばないこと」がどうして「煩悩」になるのか言語学的に説明してもらいたいくらいですがまたまた他人の理屈を並べられても仕方がないのでどうでもいいです。この身体も、そしてその身体について思い悩むこころも我がものではないと得心がいったとき、何が食べたい、誰と会っておこうと考えることは輪廻的生存の連鎖からまったく自由なんですね。そこには食べられなくても会えなくても我がものではないと得心して「はいどーも」としゃあしゃあとしていられるアートマンが存在しているのです(笑)。そうナイフがナイフ自身を切り付けることが出来ないように、見るものは見るもの自身によっては決して見られることがないように。煩悩=KleSa とはその輪廻的生存への呪縛の因=hetu になる欲望を差し表すと拙は理解しています。だから「煩悩」をあらわす欲望には「物質的な」「精神的な」などという形容詞すら必要ありません。いやむしろ形容詞をつけるのは理に適っていないと考えます。「全身が痛くで夜も寝られない」のは肉体的苦痛であり、苦しんだって良いんです。我慢することじゃない。ああ、苦しい、ああ苦しいで全然かまわない。あなた風に仏教的な言い回しをするなら涅槃に入られた釈尊ですら晩年病気には苦しまれた。「アーナンダよ、わたしは疲れた。横になりたい。」苦しければ楽になりたいで良いんではないでしょうか?それだって欲望。ただしその欲望は楽になるという結果に執着していないし楽にならなくても別にかまわないんですね。そして「アーナンダよ、ヴァイサリーの街は美しい。木々や森は美しい。アーナンダよ、人生はまことに甘美である。」

 そもそも仏教とは釈尊のように生きたい、あるいは釈尊のようになりたいとそれぞれの人々がそれぞれの「理想的な経過を辿っている」人生を思い描いて未来をたぐり寄せる、あなた流に云えば「煩悩」の極地の様なエネルギーがインド→中国→朝鮮→日本と波動のように押し広がった2500年に及ぶムーヴメントであったと記述することすら出来るのではないかと思います。

いろいろとご批判、ご叱責ありがとうございました。

では、お幸せでありますように。