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アジア=イスラム、ヒンドゥ文化圏の辺境にある中国、朝鮮、日本

連続する歴史を論理で考えよう

 堀田善衛という作家に「インドで考えたこと(岩波新書 ASIN : 4004150310)」という手記がある。文化を語る本としては名著の部類に入ると思うよ。これは堀田が日本の文学者の代表として 1957 年インドで行われた第一回アジア作家会議に出席するためにその前約二ヶ月をインドで過ごし、インド各地を旅して歩いた手記なのである。この手記が書かれたのはまさしく我が国が戦後復興のまっただ中にあるときであった。この手記の中で堀田は様々なカルチャーショックを受けてそれらを正直に告白しているのであるが、旅の途中のバスの中で農村に住む一人の老人と出会う話がある。老人は日本がセイロンのような島国であることに驚きながらも次のように堀田に語りかけるくだりがある。

 日露戦争以来、日本はわれわれの独立への夢の中に位置をもっていた。しかし、日本は奇妙な国だ。日露戦争に勝って、われわれを鼓舞したかと思うと、われわれアジアの敵である英国帝国主義と同盟を結び、アジアを裏切った。工業建設をどしどし推し進めてわれわれの目をみはらせてくれた。が同時に、その工業力を英国帝国主義と同じように使い、英国がインドに要求したと同じような、タナカ・メモリアル(対支二十一ヵ条要求のこと)を中国につきつけた。つい近頃では、米英の帝国主義を叩きつぶし、植民地解放をやろうとしてくれた。が、それと同時に、その旧植民地を日本帝国主義の植民地にしようとした。不思議な国だ。戦後には、アジアで英国支配の肩代わりをしようとするアメリカと軍事同盟を結んだ。つくづく不思議な国だ。堀田善衛「インドで考えたこと」p56 より

 

 このような日本に対する見方、考え方にあなたは違和感を覚えるだろうか?それとも共感するのだろうか?わたしはこれほど見事に端的に日本のここ百年の歩みを表す記述はないと思いやや恥ずかしい心持ちになった。勿論われわれが住み生活するこのアジアの中心が中国、朝鮮半島、日本であると疑いもしない人には違和感があるだろう。しかしアジアの半数以上の人々がペルシャ語かまたはサンスクリット語を語源に持つ言葉を話し、その根底にある生活倫理と宗教がイスラム教ヒンドゥー教を根幹に持つ事実に目をそむけない人ならば共感はせずとも頷くことが出来るだろう。中華人共和国があるではないかと言う人もいると思う。ならばその中華人民共和国のうち、どれほどの人が漢字と儒教文化を持つ人々であるのかをわたしは問うことにしよう。確かに中国の支配者は今、漢民族ではあるがそうではないペルシャ語かまたはサンスクリット語を語源に持つ言葉を話す人々に近い文化を持つ人々の方がむしろ広大な地域に存在し生活しているのである。

 このインドの農村に住む老人の言葉にわれわれは何を学ぶことが出来るだろうか。ここには日本や中国、あるいは韓国の文化人、知識人には欠落している視点が含まれている。それは歴史や文化を連続して見ていくという視点である。ここには中国や韓国のように、あるいは彼らとは正反対の視点ではあるが我が国の保守派の人々のように第二次世界大戦をことさら過大に見ていく視点はないし、我が国のリベラルもしくは進歩的人々のように第二次世界大戦以前を他人事のように切り捨てて棚に上げてしまう愚もない。なにしろ我が国の進歩的と言われる人々ときたら第二次世界大戦までの日本の歩みの責任をすべて軍部一人に押しつけて悪者に仕立て上げ、それを自分とはまるで違う過去の他人の責任にして非難し続けることが中国や韓国に対する自己批判であると取り違えてええかっこしている独善的勘違いの開き直りにしかわたしには見えないのである。まさしく歴史も文化も連続しているものであってわれわれはそれを都合の良いところで切り捨てることは出来ないにもかかわらずだ。あの戦争を遂行したのはわたしたち自身の中にある思想構造そのものであると自己に問いかけ直し、すべて複雑なまま引き受けて行くことこそ自己批判につながるのだと思う。歴史はこの老人のように淡々と記述されなければならない。

  そしてもうひとつ。この老人の視点には日本の取った行動について中国や朝鮮半島に対する配慮はまったく見られず老人の論理が貫かれている。これは文化の共生という視点でみれば大いに示唆するものがあると思う。他文化を認め、受け入れていくということは何もプラグマティックな自己肯定の上に形ばかりの自己批判を付加してその上になんでもかんでも都合良く他者の文化を無条件に受け入れていくいわゆる文化共生主義とはその思想を大いに異にするのだ。老人は日本の取った行動は理にかなっていない、奇妙であるというのだ。日本を非難することなく論理で日本を語っている。彼のこの言葉には自身に対する批判は見られないが歴史を連続したものとして捉えようとする姿勢に自己批判を厭わずにその態度をも持ち併せていることを表明しているのである。ネットを中心とする情報の民主化はこうした老人の生活する地域も包括しながら遠くない将来アジア全域へ広がっていくことになるだろう。そのときにわれわれ日本人は今韓国や中国とやり合っている次元の低い非難合戦やら貶し合いとは根本的に地平が違う論理的な議論の地平へパラダイムをシフトしていかなければならない事態に直面することになる。

 堀田はこの老人との対話を「我々の遣ってゐる事は内発的ではない、外発的である。これを一言にして云えば現代日本の開花は皮相上滑りの開花であると云ふことに帰着するのである。・・・ただしそれが悪いからお止しなさいと云ふのではない。事実己むを得ない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならないと云ふのです。」という漱石の言葉を「既に漱石のことばではなくて、自分が自分の文学に対して云うことばにさえなっていた」と自らへの自己批判として大きく意識しながら、老人のことばに対して「われわれの国がアジアの目から見た二重性から抜け出さねばならぬと気づき努力している人々もいる」と答えている。それに対して老人は「I will see it.」と一言。続けざまのテクストで堀田はこの老人の「I will see it.」をどう訳して良いのかわからないと正直に告白する。その堀田の告白からすでに五十年の月日が流れた。今われわれは「I will see it.」にどれほど的確な訳をあたえることが出来るのだろうか。いやなにも森元首相の「ひからびたチーズ」をミモレットと言い直すような答えを求めているのではないよ。単なるチーズの知識をひけらかすなら「ひからびたチーズ」のほうが遙かに良い答えだという訳さ。人々のうねりの時代、イスラム、ヒンドゥ文化圏としてのアジアは欧州に大きな影響を与えその近代化にも大きく貢献した。そしてその近代化の先端で辺境の中国と韓国、日本は愚かにも覇権を争い自らが中心にいる錯覚に陥って夢を見ている。アジア全域に近代化が訪れるときこの三国の愚かさが自覚されるだろう。でもそれからでは遅くはないか?

インドで考えたこと (岩波新書)

インドで考えたこと (岩波新書)

元記事(ngp-mac.com/kumarin)へのコメント

トリルトリル 2007/1/3 22:21

トリルです。

本年も無事明けました。

おめでとうございます。

又ヨロシコです。

これは精神や意識だけじゃなく、ライフスタイルや物質、近代法大系に関わるので、社会的にはとても難しい問題です。

まぁ卵が先か鶏が先かみたいなものですが、文明として、気持ちだけの飢餓感というのに決着を付けて辻褄合わせないとしんどいですね。

kumarinkumarin 2007/1/8 6:33

トリルさん、亀レス(死語?)ですいません。

 難しい問題であるが故に立ち向かう姿勢が必要だと思います。

遅まきながら本年も宜しくお願いいたします <m(__)m>

トリルトリル 2007/1/8 22:41

トリルです。

以前此処で紹介されていた佐藤哲朗氏「大アジア思想活劇」を購入して2,3日前から読んでます。

オルコット大佐が出てきて「オオッ」と思い、野口復堂の講釈に説教節・高野聖・念仏踊りといった芸能の連なりを連想したり。読み易いのに非常に濃い。

アジア知識人の引き受けざる得なかった「業」のようなモノという表現も、頷ずく事しきりです。

これは欧化した被植民地人にも結局突きつけられますよね。

また良い本があればご紹介ください。

ではでは。