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論客10氏の目からウロコ

Culture Blog

論客10氏の「目からウロコ」

 マップカメラでレンズを受け取ったついでに書籍コーナーをふらふらとしていて何気なく手にとってみた一冊。面白そうなので買ってみたらつい夢中になって一日で読んでしまった。本書は2002年7月より銀座「ニコンサロン」で行われている各界を代表する論客を講師陣に迎えた公開講座の収録を編集したもの。各講師はそれぞれの専門分野における写真の位置づけを語っていく。若桑みどり(美術史家) 、上野千鶴子社会学者)、竹村和子お茶の水女子大大学院教授) などジェンダー問題に関心を払う諸氏の講演が目を引く。各氏とも資本主義国家体制の維持装置として作用してきたジェンダー*1)やセクシュアリティーを取り上げその中で写真の果たしてきた役割を解き明かす。特に上野千鶴子の文章がジェンダーフリー運動に身を置くことよりも「社会維持装置」としてのセクシュアリティーが機能仕切れなくなっていることに焦点をあてているのでジェンダーフリーと聞くと眉を顰める方でも読み易いテキストに仕立て上げられている。

 写真なり映像と絡めることでジェンダー問題がより分かりやすく解説されているところなど上野千鶴子の文章をこれほど快適に読めたのは僕としては始めてでなんとなく嬉しくなってしまった。とくに次のくだりは注意を払っておく必要があるし僕は賛意を表する。

性欲を自然現象とする考えがありますが、セクシュアリティー研究は「性欲は自然現象か否か」という問を、「性欲が自然現象だと考えられるようになったのは、いつからでそれはなぜか」とい問に置き換えます。すると、セックスがあるからそれに基づいてセクシュアリティーという欲望や観念が生まれたのではなく、その逆に大脳現象であるセクシュアリティーという観念と欲望の総体、これは歴史と文化が生み出したものなのですが、これがあたかもセックスを自然現象であるかのように思いこませた、つまり「セクシュアリティーの自然化」の結果、私たちはセックスを自然であり本能であると思いこむようになったということがわかります。もしセックスが自然や本能であり、生殖に結びつく動物的な行為であるとすれば、古代のアフロディアジーのように、性愛の中で少年愛が最高だなんていう観念や欲望が出て来るはずがありません。

 セクシュアリティーの近代の装置の結果生まれたのは、性欲の人格化です。フロイト精神分析は persona (人格)の発達理論ですが、その中核にあるのは性欲でした。人格は成熟することもあれば、未熟のままとまることもあり、成熟したものが元に戻る(退行)こともある。そしてこの発達には正常な発達も異常な発達もある。発達した人格とは、異性間の性器挿入をともなう性関係から自分の快楽を導き出すことが出来るようなセクシュアリティーを持っていることが条件で、そうでない人々が異常あるいは発達障害と呼ばれました。ある人がどういうセクシュアリティーを持つかで、その人の人格を定義するようになったわけです。大昔からそうであったわけではありません。

論客10氏の「目からウロコ」上野千鶴子 『後期資本主義とセクシュアリティー』p57~58

  以上のようなセクシュアリティー研究に於ける性欲の定義について竹村和子は次のように言う。

平安時代の絵画『鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)』を差しながら)下膨れでふくよかな女性の絵で、当時は理想的な女性像と考えられていました。けれでも今では、もう少し引き締まったタイプが憧れの対象になっているのではないでしょうか。少なくとも若い人たちには。つまり時代によって、欲望の対象はことなっているのです。また対象だけではなく、性実践においてなされる行為 --- 欲望する行為のイメージ --- も文化や時代によって違うし、同じ時代であっても、世代や年齢、考え方、経験などによって違っています。だから性欲望は一つに決められるものではなく、ましてや性本能と言われているものに収斂されるわけではもないのです。

 では、そのように多様なものを、なぜわたしたちはイメージできるのでしょうか。それは性欲望から自然に沸き上がるのではなく、『好きになるってこんなことだ」とか「こういうふうに誘いをかけ、こういうふうに応える」とか「身体で表現するのはこういうやりかた」というような、その時代や文化のコードが、映像や活字や伝聞を介して、知らず知らずのうちに教えられるからです。それもはっきりと伝えられるだけでなく、アンダーメッセージとしてさまざまな形で発信されています。いわば私たちは文化によって性的に洗脳されていくわけで、その過程で、性幻想がわたしたちの性欲望を形作っていくのです。わたしたちは一見自由に欲望の対象や実践行為を選び取っているように見えますが「性幻想」の総体は、文化によってある程度方向づけられています。その性幻想に大きくはらたくのが、特に現代においては、表象の力です。論客10氏の「目からウロコ」竹村和子 『セクシュアリティーと映像表象』p113

 本書は無論だからジェンダーフリー運動を支持しましょうとか参加しましょうとかを言っているわけではない。

こう考えるとわたしたちの存在とは一体何なんだろうか。はたして一人なのか、一人でいいのだろうか。いろいろなものが同時に存在するということ、互いを認め合い行き来と共存すること・・・。このような状態をどう実現すべきか、どう写真に収め表現したらいいのだろうか。さまざまな問が出て来ると思います。

 この答は皆さん一人一人がご自身の「生命記憶の再発見への問い」を通して見つけだしていただきたいと思います。論客10氏の「目からウロコ」杉浦康平 『生命記憶を取りうるか?』p28

 講師諸氏のメッセージを素直に受け取れば中世の修道院のレズビアンや僧院のホモセクシュアルなどに対する好奇に満ちた見方も今現代の性幻想と欲望に依拠していることがわかる。当時の彼女、彼らにとってホモセクシュアルは最も実現可能な性欲の処理の方法だったと言えるのではないだろうか。こういう視点で見ていけばゴータマ・ブッダがどのように性欲と決別していったかを理解しやすいだろう。まず性欲望に起因する性幻想と決別する選択をしたのであろうと僕は考える。何故ななら性幻想に基づいて欲望され、性実践されることによる惨めで苦しい結果を彼は知っていたから。出家という世俗社会と一時的に断絶し、縁起という自らの時間を論理的に観察する瞑想によって社会的なアンダーメッセージや伝聞によって洗脳される性幻想を滅してしまう。そのことによって残るのは意識下にある根本的な生存欲に基づく性欲のみである。そこには性行為に対するイメージや欲望は既に存在しない。その根本的な生存欲を制御してあらゆる誘惑から解放されればそこにあるのは閑かな平穏の境地であろう。彼はその平穏をこそが自らが求める幸福であると論理的に確信しえたがゆえに根本的な生存欲を制御しえたのであると思う。しかし残念ながらブッダによるジェンダーの解体は出家して自ら実践するという形でしか為されなかったように思う。出家が最良の人生であるという論理は世俗社会の維持装置としてのジェンダー問題に踏み込むことは出来ない。仏教がジェンダー問題にどう関わっていくかは残された仏教徒一人一人の課題でもあろう。

 このように本書はいろいろと考えを巡らす材料を様々な形で用意してくれる。写真を語りながら写真だけに留まることがない。まえがきで東京女子大教授・黒崎政男が言うように「写真は決定的瞬間という非日常から、緊張もなく意識もされない日常となったのである。写真は死んだのではなく、むしろ日常に溢れ出ることによって、日常そのものとなった。」だからこそ写真を改めて考えるときそれは日常の僕たち自身の存在と事象そのもを考えなければならないことが見えてこよう。そう考えて本書のページをくくっていけば著者の各氏から「紡ぎだされる言説は、まさに21世紀における写真について〈目からウロコ〉のオンパレードなの(前掲まえがき 黒崎政男)」だから結局それは僕たち自身の存在・事象・認識についても〈目からウロコ〉のオンパレードなのだ。

*1ジェンダー「オス」「メス」という解剖学・生物学的な性別を「セックス」と呼ぶのに対して「ジェンダー」とは、そのセックスを根拠に付与された社会・文化的な性のことである。たとえば現代一般的な男女の役割構造だと思われている「男は外で労働、女は家事育児」という性別役割分業は決して「オスである」「メスである」といったことに由来しているのではない。この生殖や解剖学的な差異を根拠としてない男女の差別構造を「ジェンダー」とよび、またこの構造によって作り出された意識や心も「ジェンダー」と呼んでいる。--- 論客10氏の「目からウロコ」若菜みどり『ヌードとジェンダー』p29