KumarinX Kaneko Ryogen Jean Michel Kaneko Photography MacOSX
読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

段ボールアート

Culture アート

造型版路上ライブみたいな

 町田市の AI アートスクール GARAGE STUDIO。音楽で言えば路上ライブのようなノリで展示されていた段ボールアート。作品がみんな活き活きとしてるなぁ。若い作家の卵たちの作品がこうして一人でも多くの人の目に触れることはとても良いことだと思う。第二次世界大戦後を脇目もふらずに生産に勤しみ全力疾走で駆け抜けてきた日本人はいつのまにかこうしたシンプルなアートと直にふれあうことを忘れてしまった様な気がする。生産という尤も基本的かつ原始的な人間活動に没頭することで伝達の手段としての象徴的造型を心のイメージから排除してしまうことはとても悲しいことだし権力構造にとって社会の維持装置すら必要のないシンプルな社会支配構造を容易に構築してしまうことになる。

f:id:kumarin:20070625200356j:image:h120 f:id:kumarin:20070627200615j:image:h120 f:id:kumarin:20070627200708j:image:h120

  1. 「17歳のヴィーナス」 今藤 未来
  2. 「這ってでも進め」 一ノ瀬 佳那
  3. 「這ってでも進め」 一ノ瀬 佳那

 ステーブン・ミズンは『心の先史時代青土社 1998 asin:4791756533 で人間はホモ・サピエンスとして登場し10万年を経て心の中でイメージした型を元にして人工物を作る「技術的知能」意図的な伝達を司る「社会的知能」蹄の跡などの自然のシンボルを解釈する「博物的知能」などの脳のモジュール間に連携が起こり、伝達の一手段としての象徴的な意味を伴う人工物/形象すなわち芸術の制作を可能たらしめる認知構造の変化が起きてそこに現代人がいうところの「こころ」が成立したというような事を述べている。「ことば」が無くても分かり合えるというのはフィーリングでセックスをしたり愛は純粋だからと不倫を肯定するようなことではない。それはどんなに美しく感動的な言葉で着飾ろうとも単に「ことば」を失って情のみで行動するという意味において四つ足への退歩以外の何ものでもない。

f:id:kumarin:20070625200232j:image:h200 f:id:kumarin:20070625200416j:image:h200 f:id:kumarin:20070625200454j:image:h200 f:id:kumarin:20070627200825j:image:h200 f:id:kumarin:20070627200854j:image:h200

  1. 「おっとっと」 菅原 聡美さん(匿名希望さんからこの作品のテーマと作家をお知らせいただきました。多謝<m(__)m>)
  2. 「めがねっ娘」 大川 里美
  3. 「這ってでも進め」 一ノ瀬 佳那
  4. 「サーブする前の津田くん」 斉藤 思帆
  5. 「くぅ」 津田 亮介

 「ことば」が必要ないと言うことは脳のモジュール間が高度に連携し論理的思考の上にのみ構築される強烈な倫理的要請を伴う造型や言語表音されない音による形象の伝達手段であるということが言える。それはまさしく造型や音楽に代表される芸術であろう。ゴータマ・ブッダが提唱した名称と形態にとらわれないところに依拠するということは脳のモジュール間の連携を今一度分解して考察しその連携の時間的経緯を自らの主体的な経験世界において追体験することを表現したことのような気がする。ブッダは無明=根本的な生存欲に因を持つ人間行動と上塗りされる欲望を一切斥けることを提唱した。名称と形態に依拠しないということは言語という記号化された伝達手段を持ってその記号化にすら潜んで人間を迷わせる根本的な生存欲を斥けることにあったのだと思う。それは日常化された言語の否定ではあるけれどもイメージする形象をダイレクトに捉えて論理化する、すなわちより高度に純粋な言語を用いる以外にあり得ない。

 ゴータマ・ブッダは愛欲を唆す芸術表現は真っ向から否定したが倫理的芸術表現は肯定している。三枚もカットを撮った 一ノ瀬 佳那 の「這ってでも進め」に作家の様々な想いを見た気がする。頭を垂れながらも力強く躯を支えるように開かれた掌のこの像には強烈な自己否定とそれでも前に進もうとする意志を認めることが出来る。これはまた倫理的要請を伴う論理が根本的な生存欲に打ち勝っていく姿そのものに僕には見えた。

心の先史時代

心の先史時代