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仕事は好きじゃないねぇ、やっぱり

ちょっと疲れてイヤになってきました

f:id:kumarin:20070421184010j:image:w180:right 仕事の追い込みでそりゃもうヘトヘトだ。机の上には資料が散乱し灰皿がとっても危険?というのは真っ赤なウソで仕事も追い込みの頃になると机の上には殆ど資料など存在せずアウトラインプロセッサで起承転結の方針を定めたところに資料を整理しながら書きためた膨大なテキストファイルをテキストエディタで検索しながらキルヤンク(PC流に言えばコピペか)で抜粋して肉付けしていって読み返す。引用元などの脚注もバシバシキルヤンクで入れていけるのもアウトラインプロセッサならではである。

 だからここ数週間殆ど職場の MAC の前に釘付けなのだ。最初の内は気分転換にこのブログを更新などしていたが頭が引きつってくるとそんな気も起きなくなる。ただひたすらキーボードに向かう。学識経験を積み重ねているわけだからそれはあくまで自己自身に積み重なっていくのでマルクスの言う疎外された労働には当たらないハズなのだがテーマやら期限やらに規制されながらの作業は自分としては疎外された労働と感じてしまう。そもそも僕は今の仕事がちっとも好きではないのだ(笑)

 疎外された労働とは労働力を売ることによって生産に従事することだからやはり残念ながら僕の労働は生産に結びつかないので疎外された労働とは言えないことになる。それなのにこの疎外感はなんなんだ。やっぱりマルクスは間違っていたのだ(笑)。労働者が労働に疎外感を感じるのは富が他者に蓄積されるからなのではなく自己のあるべき有りよう、つまり自ら想定したライフスタイルと労働の間に起きる軋轢に疎外感を感じるのではないだろうか。そしてその根底にあるのは満たされない自己実現欲であってその欲を生み出すのは実は根本的生存欲なのである。

 マルクスの罪は労働の疎外感の元を富が他者に蓄積されるからとしてその本質を賃労働と資本という概念形態で名称化した。その名称と形態は人格的なものではなく経済活動において捉えられるべきであるのに賃労働を人格化してプロレタリアートと名称化した。プロレタリアートは団結せよ!と。人は名称と形態に立脚すると名称と形態が変化しないものだと錯覚しそれにしがみつく。人も名称も形態も常に変化を続けるのが常なのに変化をしないで常住であるように思いこむ。そうして自らも変化していることをタナに挙げて変わってしまった他人を非難する。ヒューマニズムを根底においた筈のマルクス主義がやがて個人個人の状況の変化によりプチブル日和見主義、反革命と他人にレッテルを貼るようになって殺し合い迄するようになってしまったのはマルクス主義もまた名称と形態に立脚したからであろう。

 それはマルクスの後継者ばかりではなくマルクス自身が名称と形態に立脚して後進を指導したからと言ってもよいと思う。名称と形態に取り憑かれた人々は平気で人殺しをする。なるほどプロレタリアートなる賃労働の人格化と名称化はジャック・デリダの言う言葉による人々への負債でピサの斜塔と何ら変わらないのだ。言葉の負債はまずディコンストラクシオンされなければならない。人間が言語で作り出した名称化された形態は亡霊のように人間を束縛する。その原動力は自己実現欲と根底にある根本的生存欲だ。僕の仕事はその根本的生存欲と言語の関係を解きほぐすことだと考えている。それなのにこの疲れと疎外感。と、まぁ取り留めのない話になってしまってなんかどうどう巡りだ。別にマルクスをテーマにしているわけではまったくないけど、この疎外感がマルクスを思い出させてしまったよ。そう言えば今日は911だ。

経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)

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