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アンリ・カルチエ・ブレッソンは仏教徒だった

刹那を切り取る永遠への憧れと願い、そして祈り

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 飯高壇林跡 飯高寺 半鐘 : M6 + SUMMARIT L50mm F1.5 1/30sec f/5.6 Kodak BW400CN

  • 半鐘。それは寺院において境内の僧侶に時刻を知らせるものだった。寺に集う修行僧達は半鐘で目覚め、作務、食事、坐禅看経に勤しむ。威儀即仏法作法是宗旨。まさしく仏教とは精神を抑制し調和に向かわせる正確な時の積み重ねだ。その半鐘を聞いて村人もまた時を知った。

 私にとって写真は、世界を理解するための、ほかの視覚的表現と切り離すことの出来ない手段のひとつ。おさえきれない叫び、こころを解き放つ手段。自分の独創性を明らかにするとか、主張するものではない。生きる術なのだ。


アナーキー、それはひとつの倫理だ。


 仏教は宗教でも哲学でもない。自らの精神を抑制し調和に向かわせる。そして憐憫の心で他者にもそれをわけあたえる。こころの眼—写真をめぐるエセー アンリ・カルチエ・ブレッソン

 HCB(アンリ・カルチエ・ブレッソン)は熱心な仏教徒であった。とは言っても熱心にお題目をあげるとか念仏をするとかいう熱心さではない。精神を抑制し調和に向かわせるのが彼にとっての仏教なのだから熱心であるとは常に精神を抑制させることなのだ。もちろん欧州人である彼が仏教を実践する生活を通して語るときその語り口には仏教を精神衛生学であるとしたカントの影響を見逃すわけにはゆかないし、それもまた自然なことでなのであろう。

 だからといってHCBの写真を通じて実践される仏教はカントの言う精神衛生学に留まるわけではない。彼の次のことばに僕はゴータマ・ブッダ直系と自負する刹那滅の説一切有部と真の持続がまったく等質的な形をとるときにそれが空間としてあらわさられる場合であることに気がついていないとカントに批判の矛先を向けたベルクソンの影を感じずにいられない。

私たちは絶えず構図を頭に描いている必要がある。けれどシャッターを切るときの構図は直感だ。なぜなら私たちの相手は、関係性を絶えず揺り動かし、消滅する瞬間なのだから。

こころの眼—写真をめぐるエセー アンリ・カルチエ・ブレッソン

 写真が絶えず変化する時間の刹那を切り取り、その行為がこころを解き放つならばそれは永遠という時間を飛び出した場所への憧れといっても良いかも知れない。刹那刹那、刻々と変化していくダルマをたぐり寄せよりよき未来へ歩もうとした説一切有部からやがて仏教徒達がゴータマ・ブッダに背を向けて永遠という場所に回帰しながら大乗仏教へと宇宙大に仏教を膨らませていったのは人情というあまりに熱い人間的な営みではなかったか。

 その人々の願い、そして織りなすドラマをHCBはベルクソンのことばを借りれば事象の波動を辿る真に直感的な、寸法を正確に取って生地を切断、縫製していくような緻密な直感的な経験を持って見つめていたのではないか。幾何学以外にはあり得ない絶えず頭に描いている必要がある構図。そして真に経験的な直感。HCBは永遠という場所に憧れながらも再び時間へ帰って行く。精神を抑制し調和に向かわせる正確な時の積み重ねへ。