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明かりが灯る頃

その日の一番充実した時間の始まり

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明かりが灯る頃 : M6 + SUMMICRON 35mm F2.0 f/4.0 1/125sec ILFORD XP2 Super400

 明かりが灯る頃の風景が好きだ。子供の頃はその時間そのものが好きだった。僕にとって明かりが灯る頃はその日の一番充実した時間の始まりを意味していた。まだ小学校へ上がるまえは一人遊びが好きで境内の中の幼稚園、それも園児がもう誰もいなくなった幼稚園の砂場で砂に水を掛けてはなにがしか立体的なものを作っていた。明かりが灯る時間、その砂場からうちの寺ではなく住居としての玄関の街頭が灯るのが滑り台とブランコ越しに見えるのだ。まだ衛生だの安全だのうるさい時代じゃなかったからそうとうの泥も混ざっていたように思う。全身泥だらけだった。

 城でも山でも家でも船でも今砂で作っているモノは明日の朝幼稚園の園児たちがやってくれば跡形もなく壊されてしまう。それが嫌だとか悔しいとかという不条理を感じたことはなく宿命的なことだとは子供心にきちんと認識していたように思う。だから暗闇になるまでの僅かな時間を全霊を込めてその日の「作品」を作り上げることに熱中したのだ。親にしてみれば僕が暗くなるまで帰らなくっても夕方5時になれば山門は閉じられ不審な大人が境内に入ってくることも無いしその境内の中にいることは分かっているから別に心配もしなかったのだと思う。夕方のチャイムが鳴って急き立てるように家路につかなければならなかった他の家の子たちとはそこが違っていた。彼らにしてみれば明かりが灯る時間はその日の遊びの終わりを意味していたのだから。

 西日の差し込む裏通り、裏口の街頭が灯った直後にこの写真を撮ったとき、そんな子供の時を思い出した。僕は基本的にはどんな写真にも人が一緒に写っているのが好きだ。例えばどんな名所、旧跡、芸術作品でもそのフレームになにか想像をかき立てる人が入ることによってその名所、旧跡、芸術作品のフレームの中での地位は相対的に下がってしまう。それほど人の存在、人の営みの存在は大きいものなのだ。それがどんな写真にも人が一緒に写っているのが好きな理由なのだけど、明かり灯る頃の風景だけは別だ。そこには例え人が写っていなくっても明らかに人の営みが見え隠れし想像が掻き立てられるじゃないか。

 この写真を撮ったとき僕みたいな子供がこの我が家の街頭が灯るのをどこかで見ながらその日の遊びの仕上げにとりかかっているんじゃないかと想像した。むしろ大人になった今は子供や亭主のためにポタージュを作ったり味噌汁の出汁をとる母親を想像するのも楽しいけど、それには勝手口のほうが合うね。別にそのシーンを写真にしなくったっていいんだよ、本当は。眺めているだけでも楽しい。人の営みにはその人の人生がありドラマがある。だからすっかり大人になった今でも明かり灯る頃の風景が好き。