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Bar Agrado に見える新しい飲食スタイル

お酒 & 料理 Culture

客の意志による酒卓食卓の創造

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Bar Agrado : M6 + SUMMICRON 35mm F2.0 f/2.0 1/15sec ILFORD XP2 Super400

 ここのところ Bar Agrado で検索してやって来る人が結構多い。飲食店関係のキーワードではダントツである。人から聞いた風説でよさげな店、自分の知らない人はどう感じているんだろうみたいな検索か。情報伝達がメディアからの一方通行だった時代は本来の人間のコミュニケーションの中核に据えられる手段が一方通行の商品として提供されてきてそれなりの経済効果があった。音楽が良い例で一部の本当に才能があって人から共感をもって受け入れられるアーティストは別として多くのタレントは商品として企画され売りに出された。

 飲食もそんなものだろう。フランス料理、イタリア料理といった定型的な店が企画され、食べ方を知らない客は文化人にあらずのような売り方がまかり通った。一握りの才能と努力の料理人は才能のあるミュージシャンのように自分のスタイルを提供するのはいい。だけど殆どの料理人はそうではなく、バカなタレントがスタッフの企画を自分の才能と勘違いするように単なるブームを自分の才能と努力の結果だと勘違いしているのは沢山いる(*1)。そういうシェフが自分のスタイルを客に押しつけることに客が辟易してきたことも確かだろう。

 翳りの見えてきた資本主義の行き先にネットの普及が後押しして、人々は音楽や食卓などとこれまで一方的に供給されてきたものを拒否し再びそれらを本来の人間のコミュニケーションの中核として、すなわち参加型コミュニケーションとして取り戻そうとしている。Bar Agrado はその空間とサービスを見事に提供しているのだと思う。立ち飲み席、カウンター、テーブル席、個室、バルコニーなど客の使い方は自由。そして客を縛り付けることのないメニューとサービス。客は自ら積み重ねてきた飲食習慣に歪みを与えることなく非日常を味わえ、自らの意志による酒卓食卓を創造することが出来る。キーワードとしてのスペインは商品として客に押しつけられることはない。

 これはある意味飲食の一大転換である。彼らは競争ひしめく資本主義型の市場から競争のないブルーオーシャンへ踏み出そうとしているのだ。そういえばスペインに「Todo Sobre Mi Madre(英名=オール・アバウト・マイ・マザー【字幕版】 [VHS])」という映画があった。その登場人物のアグラードはカタルーニャ音楽堂の正面のアバルトマンに住む性転換者だった。まさか店名のアグラードはそのアグラードにひっかけてあるのか(笑)

*1:ところで20代の若いシェフにはあまりそういう傾向が見られないことに最近気がついた。東京池上の「チルコロ」や桜ヶ丘の「ボナペティート」などイタリアンレストランではあるのだがイタリアという単語が商品とサービスと客の振る舞いを規定する記号としては機能していない。客が自らの意志による食卓を創造することが出来る実によい店だ。そこではイタリアはあくまでキーワードなのである。おそらく彼らの世代が成人して社会にデビューしたとき、既に一方通行の商品としてのコミュニケーションが翳りを見せていたからなのではないかと思う。