KumarinX Kaneko Ryogen Jean Michel Kaneko Photography MacOSX
読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ロバート・メイプルソープの写真集

ワイセツか芸術か?またもや不毛な…

 国内で販売されていた米国写真家の写真集を国外に持ち出し、再び持ち込もうとした際に「わいせつ物に当たる」として輸入禁止処分にされた出版社社長の男性(52)が、国に損害賠償を求めた訴訟の上告審弁論が22日、最高裁第3小法廷(那須弘平裁判長)で開かれ、男性側は敗訴した2審東京高裁判決の破棄を求めた。判決は2月19日。
 問題になったのは米国の著名写真家、ロバート・メイプルソープ氏撮影の写真集で、男性器を写したカットが掲載されている。米国の著名出版社が出版し、国内では平成6年に男性の会社が一般販売を始めた。新聞の書評でも取り上げられ、国会図書館にも収蔵されている。
 弁論で男性側は「メイプルソープ氏は現代芸術の第一人者として高い評価を得た写真家で、写真集は芸術的価値がある」などと主張。一方、国側は「性器を露骨に描写した写真を流通させないことが、わが国の健全な価値観」などと述べた。
 1審東京地裁は「写真集は国内で芸術的書籍として流通していた」として禁制品には当たらないと判断し、国に70万円の支払いを命令。一方、2審は「写真集は健全な性道徳観念に反する」と判断している。  

産経新聞:「わいせつに当たるか」メイプルソープの写真集めぐり弁論

 

f:id:KumarinX:20140213140436j:plain

  芸術というのはある種エロスと密接に結びついていて、それをワイセツか芸術か?などと論争するのは既に不毛だと思うけど。古代の人間は人間が考える有形無形の最上のものと考えられるものを神に捧げ、その中で肉体を鼓舞するダンスの占める割合は非常に大きいものがあった。ダンスはエロスの象徴でもあるからエロスは人間にとって最上のものの一つ。そのエロスはナルシストでありエゴイストである人間にとってナルシズムの満足と表現のためには不可欠な要素だ。芸術ってそのナルシズムの充足の高度な表現を通して他者の心を揺さぶる一面もあるでしょう。

 つまりそれは開放された場所と密室を縦横無尽に出入りする。エロスの象徴的な記号は性器だ。象徴的な存在としての視覚的な性器こそ粘膜快感の体験をベースに人に様々な想いを喚起させる。なにも快感への想像やら思いでだけではないよ。人間を含む哺乳類には生殖欲という種の保存に突き動かされる本能がある。しかし性欲は粘膜快感の体験と記憶に基づいて、粘膜での他者とのコミュニケーションを通して将来の快感の瑕疵を推測しながら自己確認しうる人間だけの特権なのだ。例えばキミは暗いベッドルームに光が差し込んでガールフレンドの薄い産毛が逆光に黄金色に輝いたとき、あるいは裸の肉体を掌でそっと愛撫しているとき、その形状の機能的なことや美しさに、セックスの快感を一時的に放り出しても深く頷いたことはないか。

 性行為のクライマックスは相手の肉体を通して自己を確認するという言語による思考活動と、粘膜の快感の共有、性器の挿入による肉体的な一体化がそれぞれにナルシスティックに情的に解釈され、ある種の錯覚による二つの人格の統一がされる瞬間である。人情に基づいた錯覚であるがゆえにその統一はその瞬間に終わる。そして人は結局ひとりぼっちであることを突きつけられるのだ。いくら性器が挿入されようが、あるいは論理的に言葉で理解し合おうが、やっぱりひとりぼっちなんだとキミは感じたことはないか。

 もし肉体の美しさや結局は一人の壁を越えられないことに頷いた経験があるなら、もうそれだけでキミは写真や絵画、彫刻といった視覚に飛び込んでくる芸術表現に共感し、そこから作家の意図をくみ取って心を揺さぶられる素質は充分にある。作家にとってエロスをテーマにしようとするとき、どんなに慈悲やアガベーを語っても結局自己愛にしか行き着くことしか出来ない人間の悲しさを、エロティックな肉体の視覚的な表現を通して、同じ体験を持つ他者に対してその美しさの底にある悲しさを喚起させながら共感を勝ち取ろうとしているのではないかと僕は思うのだ。自己しか愛せないことへの透徹したまなざしと、その悲しさの徹底的な自覚を持ち得る人間にのみ、他者への絶対歓待の思想が育まれる。

 メイプルソープが20歳のときに出会った同じ歳の恋人、やがてパンクロックの女王になっていくパティ・スミスはLSDをはじめとするドラッグ、占星術やオカルトやUFOをもちこみメイプルソープを変えた。そしてパティは次々と男を変えながらも、メイプルソープを見守る。メイプルソープはパティが離れていったぶん、男にのめりこんでいく。メイプルソープはパティを自分がゲイになりきる前の最後の防波堤だとおもっていたらしい。

 

「いかないでくれ……キミを失ったら、僕はゲイになってしまう」

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0318.html

 

   メイプルソープがゲイになっていく過程は「松岡正剛の千夜千冊『メイプルソープ』パトリシア・モリズロー」に詳しい。

 

 メイプルソープがゲイであることを自覚するプロセスは、ゆっくりしたものだったようだ。ある意味ではアーティストになることとゲイになっていくことがぴったり重なっていた。~中略~ メイプルソープはパティを自分がゲイになりきる前の最後の防波堤だとおもっていた。そして1968年である。ここで世界がガラリと変わり、二人も変わった。  キング牧師が殺され、ロバート・ケネディが暗殺され、ヴァレリー・ソラナスがウォーホルを狙撃した。社会や政治にまったく疎い二人も、この年が実はパリのカルチェ・ラタンで学生に火がつき、スタンリー・キュブリックが『2001年宇宙の旅』を発表し、スチュアート・ブランドが『ホールアース・カタログ』を編集したことなどがもたらす衝撃だけは肌で感じるようになっていた。  さらには、ストーンウォール事件でアメリカのゲイ・ムーブメントが爆発する翌年になると、メイプルソープもゲイであることを隠す必要がないことを"実感"しはじめる。

> 「松岡正剛の千夜千冊『メイプルソープ』パトリシア・モリズロー」
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0318.html

 

 ゲイであることは勿論メイプルソープを変人・奇人扱いする理由にはならない。さきにも述べたように性欲は本来の本能ではないからだ。メイプルソープにとってパディが去っていったあと、男としか相手の肉体を通しての自己確認や粘膜の快感の共有、性器の挿入による肉体的な一体化のナルシスティックな確認が出来なかったにすぎないのだと思う。ある種の錯覚でしかない二つの人格の統一が一組の男女で行われなければならない倫理とされたのは近代国家の成立以降である。メイプルソープの透徹した自己愛とその悲しさは相手が男であるからなのでは決してない。

 メイプルソープはすべての被写体を自己投影者とみなし人は一人であることの辛さ、苦しさを、人の肉体の美しさをなぞり、確認するような極度に美しい黒人と白人を被写体にした男性性の対比の写真集として結実させた。性器は確かに象徴性のキーワードである。しかしその写真群の美しさはた異常なまでのナルシズムに貫かれており、それ故に他者を絶対歓待する優しいまなざしにも溢れている。

 しかし、一応は近代国家であるわがニッポンにとって密室でされるべきものは密室でしてくださいよということだ。密室での秘事を閉じこめたうえで、それが存在することはの暗黙の了解なのであって、それを公の開放された場所に持ち出すのは社会の維持装置が機能しなくなるから困るということだ。そもそも性行為の過程の体験に基づく人間の自己愛の確認や他者への歓待などという議論は国家の維持の為には存在しない命題である。彼らは基盤である法を持ち出して装置の維持に努めるのみ。そして芸術の側にとって社会維持装置など人間の本質の表現には存在しないものである。故に、ワイセツか芸術か?の論争はそもそも両者の存在論が違うから議論にはならない。結局、認識論に置き換えて表現の自由として議論されることになるが、その場では人間の本質などが机上に上がるわけではなく、幾たびも繰り返された不毛な議論が展開されるのである。

 ところで役人、それも高級な官僚が密室で大はしゃぎしてしまうのも彼らがいつも公には密室での秘事を閉じこめようと人に強制するからかも知れない(笑)普通の神経の持ち主なら密室に入っても自らの倫理的要請に従うものなのである。

★★★★★★★★★★★★★★★★★

メイプルソープ

メイプルソープ

ロバート・メイプルソープ写真集 (Parco vision contemporary)

ロバート・メイプルソープ写真集 (Parco vision contemporary)

Mapplethorpe: Polaroids

Mapplethorpe: Polaroids