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ピアノソナタ 32番 ハ短調 作品111

Blog Music

死に向かう究極

ベートーヴェンが聞こえる時

ベートーヴェンが聞こえる時 :
     M6 + SUMMICRON M35mm F2.0 SS1/1000sec. f/16.0 SUPERIA Venus 400

 筑紫哲也さんは遺稿『がん残日録』の中で癌と言う病に侵されたことを「病を得る」と言っている。素敵な言葉だと思う。僕の中でジャーナリストとしての筑紫哲也はあまり評価が高くなかったけれども、この文章をまの当たりにしたとき人間として完成の域に達しようとしている筑紫哲也さんと言う人を見たような気がした。通常言語というものは他者に向かって表現していく伝達手段であり、言語による表現は常に他者の存在が想定される。ジャーナリストである筑紫さんも当然そのように認識していたわけだけれども、言語を用いて自己確認に向かい、懐疑的ではありながらも実は言語活動は他者を通した自己確認であると考えるようになっていく。

 そこには病に冒される世界内存在の自己ではなく、病を得る世界外存在としての自己が朧気ながら見えてくるのだ。言葉を尽くして自己を語れば、語られる自己はその瞬間既に過去の自己で、如何なる形容も分析も自己の経験的世界からはみ出すことはない。故に自己の経験的世界は自己にとって一切の世界でありそれが見えたとき、今の自己はするりと自己の背後に回り込んでまた刹那の過去の自己を語る。世界は一切自己の投影であるにもかかわらず現在の自己はその世界外なのだ。病に冒されてしまったのではなく、病を得たからこそ、するりと一切世界の自己の背後に回り込むことが出来るのである。

金色

金色 : M6 + SUMMICRON M35mm F2.0 SS1/1000sec. f/16.0 SUPERIA Venus 400

 と言葉で語るのは容易いのだが、自己のものとしてそのように歩み続けることは苦しく辛い。言葉を尽くせば異は排除されざるを得ないが異を含めて自己は存在してしまう。それを認め、その矛盾を時が解決してしまう都合の良さが人間が過去に押しつぶされずに前を向いていられる理由でもあるのだろうが、死という生の到達点が異を排除せずに許容していく包容力でもあるのかも知れない。今日、又叔父が一人逝った。身近な先達がまた一人消えた。現役時代の最後は NEC の某工場長として活躍したエンジニアだった。国王大臣助くるなし、ただ黄泉に赴くのみである。北を枕に、眠るように佇む叔父の死に顔を眺めながらやがて自分にも訪れる生の到達がまたはっきりと意識の中に入り込んでくる。自分の番もヒタヒタと迫り、もうラストコーナーを廻ったかも知れない。

 般若心経を読みながら僕の中に流れていたメロディーは美しくも悲しい、そしてこれが僅か10本の指で奏でられているとはまるで信じがたい生命の喜びと悲しみに溢れた表現力とパワーを備えたベートーベンの最晩年のピアノソナタ 第32番 ハ短調 作品111の第二楽章だった。難聴だったベートーヴェンの意識の中には健常者でも聞き取ることが出来ないくらいのピアニッシモの小鳥たちのさえずりの音も、はっきりと聞こえ構成されていたはずだ。ベートーヴェンもまた病を主体的に得ていたのだと思う。筑紫さんの言葉と同じようにこの音楽もまた僕の魂を揺さぶった。つまり僕もそうして自己を説明し確認しているのだ。そう思えた瞬間、今の僕はするりと背後に回って僕を見つめている。

♪BGM while writing