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初期大乗と小乗僧院の社会的活動との関係について

初期~中期インド仏教学際研究の概観

f:id:kumarin:20090205224509j:image

通俗的には自利のみで利他行をしないはずの『小乗』教団が在家菩薩への利他行として行った回向儀礼を
 示唆する施主たる在家菩薩の『小乗』教団・説一切有部への寄進文。一切衆生に功徳が配分されますように。

  • 『この貯水池は ŞahiYola-Mira 自身の Yola-Mira一Şahi-vihãra (寺院) における四方僧伽にたいして、説一切有部 Sarvãstivãdins の諸師の所領として寄進されたものである。この正しい喜捨によって、母と父に主要な功徳の配分が、そして一切衆生に主要な功徳の配分がありますように。また法主 (施主) に長寿が与えられますように。(*1)』

はじめに

 id:ragaraja さんからコメントを戴いたし、さらに id:ajita さんとの論争を憚ってエントリ 『はてなダイアリー』 まで立てていただいたの初期大乗に関する僕の認識を少なくとも最低の礼儀と必要と思われる範囲内で述べておきます。とはいっても4年以上前に先達方のご成果を元に書き記した「今日の学会における初期部仏教学際研究の概観」という、あくまでネット向けではないうちわ向けのテキストをコピペして更に簡略化したものに過ぎませんが...元になるテキストは近年の研究者のかたがたの発表を概観させていただい上で自分なりに出来る範囲で再構成し思うことをまとめて討論の教材にしたものでした。

 いま改めて読み返してみると、まとまりのない冗長な文節ははあるものの成る程!と自分でも感心してしまうような視点も含まれています。もとよりこれが絶対だと言うつもりは毛頭ありません。ただこういう考え方も出来るというものを示したに過ぎませんが、これを否定する材料も多くはないと思います。勿論、お返事はいつになるかわかりませんが、批判は歓迎します。

初期~部派仏教にかけての僧院と周辺の概観

 インド仏教と言う宗教の特性を考えるとき、遺跡や美術、当時の様子をダイナミックに伝える律文献への検討から言えることは修行者はあくまで出家であり在家は出家に布施を喜捨することで回向をして貰いその功徳が配分されることを願う立場にいて大乗仏教を生み出す主たる担い手ではなかったと考えることが出来ます。

 仏塔や写本を入れた土器や納骨土器に墨書された寄進銘は、当時の人びとの信仰心を伝えています。善行にはげみ、それから得られる功徳を、亡き父母、近親者、さらには一切衆生にまで分け与えることを願う。当時の寄進碑銘を読む限り、人びとは在家、出家を問わず、亡き父母を供養し、廻向することに熱心であったことがわかります(*2)。

 では、在俗信者が主体になり得たかと考えますに例えば、カーシー国の王子が出家して比丘になり、父王が仏塔を建てるため子を呼び付けた説話がありますが、呼び付けは王子が安居中で許されず、仏塔建立のためということ漸く許されます。これは在俗者である王が、仏塔建立に際して比丘の指導および監督を要請したことを示し、仏塔は在俗者のみでは建立不可能であったことを証明します(*3)。

 その仏塔には多くのジャータカ物語が浮き彫りされていますが、その内容は「ジャータカのバーナカ」と呼ばれる三蔵に精通する高位にある比丘たちの説明なしにはほとんど理解不可能でした。彼らが、ジャータカ図を絵解きしながら歌い物語ったことで、仏塔への巡礼者たちを魅了し、仏亡き後の仏宝たる仏塔に息吹を吹き込んだのでした。ここに高位にある比丘たちの仏塔への積極的な関与を認めることができます(*4)。

 特に説一切有部律はそうした在家菩薩側のニーズに応えるべく、仏画や絵画のメンテナンスから職人の手配、仏塔、チャイティアへの在家菩薩の礼拝に対しての応対とその際の花や楽器、旗などによる荘厳、在家菩薩を施主とした回向、葬送儀礼、在家菩薩のリクエストに寄る教団の正規メンバーではないが森林に遊行する禅師などへの取り次ぎと教団施設の提供などきめ細かく規定しています(*5)。

 さらに律文と仏教碑銘から明らかになることは出家者たちの葬送行為と仏塔のつながりです。インド、ガンダーラの仏教遺跡に残る小塔群は、比丘たちが亡き師僧のために営んだ墓塔の集合であり、主塔を中心とする塔院は信者の礼拝場所であると同時に、高僧たちの墓地であったのです(*6)。

 ジャータカ的教訓集が大乗の元になったとは一概には言えません。それでもその要素を考えみます。バールフトやサーンチーの仏伝彫刻に見出せるものはブッダだけが、不可視の無時間的存在として姿がなく示唆するような iCON で表される一方で仏を取り巻く世界は、可視なる時間的世界のなかに表されていることです。つまり時間を越えている存在と、時間の中にいる存在との二元的区別の信仰が前二世紀といわれるパールフトに既にあったことを示唆します。

  この「二元的区別」はやがて確かに大乗経典の核に据えられる仏伝の永遠反復説へと発展を遂げます。しかし仏伝の永遠反復説は、どんな時代においても、理知的な立場からは疎んじられ、学的な主張とはなりません。非論理的であるゆえに、出家の論師たちには承認されることはなかったのです(*7)。そうした思想は仏教の衣を着たヒンドゥイズムであったわけだけれども在俗の信仰の影響を受けて論理的に時代を経るごとに同調する出家者が増えたわけではなく、非論理的ではあるが人情的に同調する出家者が教団の中に存在したことを示唆させるに過ぎません。

 そもそも仏伝の永遠反復説はブラフマー神による宇宙開闢神話とパラレルな思想であり、仏教とは無関係な民衆の中にも息づいています。仏教教団へ出家したからといって全ての人が論理的な仏教思想へ直ちに転換でききたわけではないでしょう。ブッダですら無明という根本的な生存欲にはじまり、老死という、輪廻的生存の本質である苦に終わる因果関係を、徹底的に観察、考察し、その真理が揺るぎないものとして自覚され、骨の髄まで浸透して完全な智慧が生じて論理を完成させて目覚めた人、即ち仏になる*8)までにそれなりの年月を要してます。

 それでも教団の中にはコンダーニャに始まってその論理を理解した哲学者が後続、存在しました。そういう彼らを仏教ではは阿羅漢と名付けましたが阿羅漢は即ち仏の論理を我がものにした哲学者であったのです。彼らは瞑想と禅定と論理で仏の悟りを追体験します。哲学は信仰や思いを突き抜ける非人情の論理です。仏の謎かけによって葬式を出したことが無い家などないことを体験のうちに知り生老病死を知って我が子を失った悲しみから解放されたキター・ゴータミー尼の逸話など非人情の論理で心を制御する仏教哲学のその典型だと思います。

 人の心を打つようでは哲学とは言えません。インド哲学者の宮元啓一博士によれば『哲学は、このように、人間のみに許された人間的な、あまりに人間的な営み(ニーチェ)であるがゆえに、人間の、動物としての自然に心地よく抱かれている人々からは、ほぼ必然的といってよいほど誤解を受ける。それは、同じく人間的な、あまりに人間的な営みである売春が、「正しい」人情の持ち主たちから、蛇蠍のごとく忌み嫌われるのと、まったく相似をなしている*9)ので、阿羅漢となった比丘の修行スタイルが後にヒンドゥイズムの人情から転換できない比丘たちから「小乗」と蔑視されるようになったのでしょう。

 仏亡き後の三宝のうちの頂点、仏宝について下田正弘博士は『仏を後世に向かって表現したのは、つまり刻印したのは、ブッダではなく弟子たちで、しかも、弟子たちの個性は多種多様で、理知的な弟子から感性的、あるいは情緒的な弟子まで、律法的に厳しいものから、感覚的に自由なものまで、際限なく、幅広く存在していたはずである*10)。』と述べます。つまり論理に徹した比丘もいれば人情に突き動かされる比丘もいたと言うことなのです。ここに教団の宗教的、社会的要請に応える活動とは流れを異にするとも言える大乗の出発点があるように思うのです。

大乗経典の成立について

 むしろ大乗は教団の社会活動とは別な次元のものでした。ショペン教授は初期大乗について次のように述べています。2~3世紀のインドは大乗が世に受け入れられるにはほど遠い状態であったのはナーガールジュナの著作であると現在ほぼ異論のない『ラトナーヴァリー』に顕れます。『それが極めて高潔で湛遠であるため大乗は今日(adaya)、品のない未熟な人々によって嘲笑される。自己にも他者にも敵対するこれらの人々によって愚かさのゆえに〔嘲笑されるのである〕。(IV. 79)』この種の説得術が議論の間中反復句のように流れます。大乗を嘲笑する者たちは愚かで意地悪なだけでなく、たぶらかされ、憎しみを持ち、良い徳を理解せず、あるいは実際はそれらの徳を非道く嫌っており、思慮亡く、無知蒙昧だとされます。この種の説得術や罵倒は、自己の活動が広く支持されていて、自身があり、堅実なものである場合には、普通およそ思いつかないものです。... ... ... 自分が提唱している思想体系の当事者自身が繰り返ししかもはっきりと、大乗にたいする「反対」「嫌悪」「反感」が存在することを明らかにしています*11)。

 さらにナーガールジュナはまた戦闘的で党派心の強い道具箱から、また別の説得法を用います。つまり大乗を嫌悪する者は「そのことによって身を滅ぼすぞ」と警告し一歩で大乗を信じそれを実戦する者には、無上菩提と、その途中におけるあらゆる幸福が約束されます。他の大乗経文献にも見られるように、大乗を信ずることを熱心に勧告する場面が何カ所かに認められます。しかし大乗が弱い立場にあったことは、この著者が大乗を受け入れさせるための議論をもはやまったく諦め、古い仏教に説かれる「中立」の理想を改めて取り上げて、少なくともそれが許容されなければならないことを論ずる一連の偈の中に顕著に表れています。(*12)『如来が意図を持って説かれたことを理解するのは容易ではないから、一乗と三乗とが説かれたときには、注意深く「中立」に留まるべきである。「中立」に留まることから非福は生じない。しかし嫌悪からは悪が生じる。いわんやどうして善がありえようか。ゆえに大乗を嫌悪し自己を誇るものは正しくない』*13

 大乗経典にはこのように典型的な反復を用いて論敵を嘲笑、罵倒する場面が良く見られます。法華経然り、八千偈頌般若経然りです。大乗経典は仏への強い憧憬に基づいた美しい描写が部派教団の僧院にいる比丘にしか知られないはずの形容句で荘厳され文学的にも非常に美しいシーンがあるのも確かですが一方このような罵詈雑言も枚挙に遑がありません。維摩経とてそのストーリーの基本は伝統教団から出た大乗の教団への挑戦にしか過ぎません。おそらく極少数の例として大乗グループに理解を示していた長者を主人公にして法と律に従ったシャーリープトラに象徴とされる僧院の智慧ある比丘を論っているのです(*14)。しかしこの様な描写は大乗経典に惚れ込んだ研究者や仏教者が書く解説書には深く言及されてこないで来ました。実際大乗経典に論理が与えられ教団の中で地位を得ていくのはナーガールジュナの流れを汲む中観派と部派のアビダルマ、説一切有部から典拠学派(経量部)を経ての流れを汲む瑜伽行実修行派が5世紀より後に「報身仏」を置くことで永劫回帰の仏を論理で成立させるまでは敵わない(*15)のです。

 歴史や教義を改変と増広して自分たちの正統性を主張するのは部派仏教時代から見られる極めて人間らしい微笑ましい行為なのです。例えば根本分裂などは無かったのではないか?それぞれの部派が違う事件を根本分裂と称しているのではないか?という仮説を提示されている花園大学佐々木閑博士のご研究(*16)は極めて示唆に富んだものと思います。そのご成果の中で佐々木教授は根本分裂(実際にその名称から思量するような大規模であったかどうかは別として)の頃、書き換えられた説一切有部の律に記載される布薩にさえ参加すれば仏弟子、教団の構成員たる僧として認められる思想と活動の自由を明らかにされました。つまり大乗の担い手たる森林の遊行者も布薩にさえ参加していれば僧院の比丘に準じて食料、寝具、衣料品などが仏の財産とされる僧院の運営資産から支給されたのです。こうした背景を考えれば大乗グループが伝統教団に存在し活動したとしてもなんの不自然もありません。

 『根本説一切有部律』によれば仏塔や香室にはマジカルで全能な仏がおわしますと在家信者に信じられているからこそ、飾るべきであり荘厳にすべきであり、その芸術的装飾による荘厳さを在家者に説明が出来る比丘が配置されるべきであるとされています。なぜならそれによりさらなる財施が期待できるからであり故に僧団の長老達は法華経を説く法師グループがブッダを永遠の存在にしてしまっても僧伽の運営の為には目を瞑ったことでしょう。そして子供が泥遊びで仏塔を造る功徳など法華経に書かれていることはその殆どが『根本説一切有部律』や仏伝に書かれているエピソードです。ナーガルジュナが悲痛に大乗の仏は認められるべきであると著したように法華経成立とされている一世紀から二世紀当時のインドでは大乗は認められないどころか必要も無かったでしょうしむしろ軽蔑されていたのでしょう。なにしろ在家者を施主とする仏塔への礼拝と廻向の儀式は説一切有部や法蔵部の僧たちによって大いになされ、また寄進も多額に渡っていたことは当時の出土する碑文によっても明らかです。布薩にさえ参加していれば僧伽の一員であることが認められるように律は改変されていましたから有部のアビダルマの哲学者たちは王族や金持ちから金品を授受して懺悔滅罪と作善の儀式を出家として在家菩薩達のために慈悲という大義名分のために執り行っていく比丘を「功徳」の根拠をそのなす人の「心(cita)」にさえ求めなければ同じ僧団の比丘(*17)として拒絶したわけではありません。(*18

 こうして遺跡、碑文、回向儀礼、ジャータカなどを概観してみれば大乗の基層になったと言われるこれらのことがらは全て部派教団を中心に行われていたことが見えてきます。ここまでのことは何も大乗が登場せずとも部派の法と律で充分に在俗の宗教的要求に応えていることが分かります。まして寄進文の文型は全て「小乗」のスタイルで寄進文の中に大乗を「小乗」と識別する「仏陀の特質への熱望(*19)」が表現されているものはただ一つの例外マトゥラーの阿弥陀像の足下の孤立碑文を除いて5世紀までまったく存在しない(*20)のです。

 五世紀初頭にインドを訪れた法顕の旅行記を丹念に読み返せば極めてまれな例外を除けばインドには明確に大乗である要素はほとんど無いと記しています。もし法顕の説明を承認するならば、五世紀初頭のインド仏教徒の信仰対象は殆ど全て初期経典に説かれている(カピラヴァストゥの聖者)ブッダなのです。それ故に彼の旅行記全体を通じて言えることは五世紀初頭のインド仏教はもっぱら所謂「小乗」のみであったと思われるのです(*21)。

むすび

 こう考えますと私たちは大乗をあまりにも過大評価することによってインド仏教初期、中期におけるもっとも有力な存在を見過ごしてきたことになります。たかだか部派内の戦闘的な少数派が前掲した「二元的区別」と「仏伝の永遠反復」思想を掲げ「この経は法と律をよくする比丘にも理解されない」という批判的挑戦(*22)や罵詈雑言を国王や商人・長者などの在俗の有力者に読ませ聴かせることを前提に記述し、彼らは伝統的な生活を送り主流派であった比丘を小乗と蔑んだのです(*23)。その経典の数があまりに多く(とは言っても今となっては論理性、構築された世界観、経・律・論の豊富なバランスにおいて質量ともに「小乗」文献の足下にも及ばないが)、しかもそれが中国の上流階級に支持されたばかりに中国→朝鮮・日本の歴史的な仏教の印可の中に身を置いたわたしたちは主流が何であったのかを見失っていたのです。

 ショペン教授は次のように言います。『私たちは小乗仏教僧院の宗教的、社会的重要性をはなはだ過小評価してきました。主流が何であったかを完全に見失い部派仏教の僧院の宗教的、社会的な重要性を過小評価して「小乗の僧院」と呼び習わして来たのは皮肉なことです。明らかになりつつあるのはこれら部派仏教の僧院は、相互に連動し合う宗教的、経済的。社会的な責務を通じて、それらの地域社会によく呼応して、非常によく成功した組織として発展していたのです。実際、彼らが成功していた状況下では、大乗が提供しようと考えていたものに在俗の人々はなんの必要性も感じなかったのでしょう*24)。』民衆の集合的無意識に根ざしている宗教活動に応えていたのはあくまでも「小乗の僧院」だったのです。それが大乗の基層であるかのように見えるのは大乗にも民衆の集合的無意識にもヒンドゥ思想が流れていたということに過ぎないのです。

 いま僕が関わっている仏教はこの度のような初期大乗や部派仏教のことではありません。、久しぶりにこれらのことを書き留めるのに脚注に典拠として示すべくうちのコンピュータの中のアーカイブを記憶にたよりながらピックアップしました。ただしこう考えるようになってから既に数年たち、その後はこの問題に関しては思考停止状態です。当時参考にさせていただいた各先生方のご論文はいまとなってはネットで見られるものもかなりあると思います。宮元先生のご論文は先生のウェブサイト『ペンギン』にすべて掲載されおりました。詳しく典拠に触れたい方は脚注の各論文をご参照下さい。また脚注にしめしたショペン教授の論文の概略は G. Schopen.『大乗仏教興起時代 インドの僧院生活』春秋社 (ASIN/ISBN:4393112024) 2000-07 で読むことが出来ます。この文章を最後まで読んで下さった方には心から感謝いたします。僕はこれらの問題に関して時間の配分とつたない能力の制約からこれ以上の論究はとりあえず現段階では致しません。これで暫くまた仏教についてインターネットで語る筆は置こうと思います。普く一切の衆生に等しく仏陀の無上菩提、正覚が訪れますように!合掌。

参考文献

 もう少し詳しく知りたいと言う方のために以下に本エントリの典拠になった参考文献を挙げておく(2/12追加)。現時点(2/12)でネットで閲覧できるものについては論文タイトルにリンクを貼った。書籍については一般的だが Amazon へのリンク。ネットで確認できないものについては該当部分の引用をさせていただいた。

*1:小谷仲男「ガンダーラ仏教における廻向儀礼」『富山大学人文学部紀要』第38号

*2:前掲小谷論文:小谷教授は前掲論文の結びで以下のように述べている。富山、金沢と比較的近い場所にいながら小谷教授は杉本教授の『仏塔と菩薩に見る賎』は目にされていないのかも知れない。『今回のアフガニスタン、ハッダ出土といわれるカロシュティ文字ガンダーラ語仏典写本は、これまで考古学資料や美術作品からクシャン時代ガンダーラ仏教の性格を研究してきた私には新鮮な驚きであり、その研究成果に対する期待は大きい。新資料の価値はもちろん写本そのものにあるが、その写本埋蔵の状況も興味深い。写本を入れた土器や納骨土器に墨書された寄進銘文を読むと、当時の人びとの信仰心が伝わってくるような気がする。善行にはげみ、それから得られる功徳を、亡き父母、近親者、さらには一切衆生にまで分け与えることを願う。それが輪廻説にもとづく因果応報、自業自得の概念と矛盾すると指摘されるが、当時の寄進碑銘を読む限り、人びとは在家、出家を問わず、亡き父母を供養し、廻向することに熱心であった。ショペンSchopen教授はこうした出家者たちの葬送行為を律文と仏教碑銘から明らかにし、結論としてインド、ガンダーラの仏教遺跡に残る小塔群は、比丘たちが亡き師僧のために営んだ墓塔の集合であり、主塔を中心とする塔院は信者の礼拝場所であると同時に、高僧たちの墓地であることを明らかにした。かつてガンダーラの仏教寺院を発掘しながら、小塔群を漠然と信者たちが奉献する供養塔(votivestupa)と考えていた私には耳の痛い話であった。(→前掲小谷論文 IVむすび)』

*3:杉本卓洲『仏塔と菩薩に見る賎』- 南アジアの宗教文化における聖と賤との関わりに関する学際的研究 - 1996 - 1998文部省科学研究費補助金研究成果論文『比丘たちと仏塔との深い関わりについては、紀元前2世紀頃に製作されたバールフト塔への寄進者たちの分析によって明確にされる。そこでは先ず、多くの出家の比丘や比丘尼が率先して寄進者として名を列ねているのが認められる。そのなかでも特に、ナヴァカンミカ(Navakammika) と呼ばれる比丘たちの関与があげられる。彼らは僧院や仏塔の造営工事の指揮・監督にあたる者であり、比丘たちのあいだから選出された。もともと僧院の建設や修理に従事した比丘の呼称であったが、仏塔の建立・修理にも関わった。比丘の関与なしには、仏塔は製作されなかった。その証拠に、比丘・比丘尼に対する戒律の規定であるはずの律典に、仏塔の製作の方法、供養の仕方が詳説される。南方上座部の律典にはそれを欠くが、他派には見られない『トゥーパ・ヴァンサ』(Thūpa-vamsa  塔史) という仏塔に関する独自の文献を有しており、仏塔を重視したことが同等に認められる。説一切有部の教団の伝える律典『十誦律』には、「師匠」という地位にある比丘が仏塔や僧院の設計図を描いたり、模型を作ったりすることが許されたとある。カーシー国の王子が出家して比丘になった。父王が仏塔を建てるからといって子を呼び付けたところ、安居中で許されなかったのであるが、仏塔建立のためということで 許された。これは在俗者である王が、仏塔建立に際して比丘の指導および監督を要請したことを示し、在俗者のみでは建立不可能であったことを証明する。』同様のことはショペン教授も指摘している。G. Schopen.『大乗仏教興起時代 インドの僧院生活』第四章 春秋社 (ASIN/ISBN:4393112024) 2000-07

*4:前掲杉本論文『バーナカ (Bhãn. aka) という比丘たちがあげられる。経典の暗誦者である。経典を暗記し、抑揚をつけて読み聞かせた人たちで、多聞者 (bahussuta)、経師 (suttantika)、律師 (vinayadhara)、論師 (dhammakathika) といった高位にある比丘たちと同等に置かれる。それぞれの経典に各バーナカがいた。仏塔には多くのジャータカ物語が浮き彫りされているが、その図の内容はこうした比丘たちの説明なしにはほとんど理解不可能であった。「ジャータカのバーナカ」と呼ばれる比丘たちが、ジャータカ図を絵解きしながら歌い物語ったことで、仏塔への巡礼者たちを魅了した。仏塔を生気あらしめた立役者であった。ナヴァカンミカであれ、バーナカであれ、彼らは聖者(ãrya)、大徳 (bhadanta) とも呼ばれ、決して比丘のなかで下位にある者ではなかった。三蔵に精通する (tri-petakin) 聖者も仏塔の寄進者の名に列ねている。このように、出家の比丘たちの、しかも高位にある者たちの仏塔への積極的な関与を認めることができる。仏塔は在俗信者の信仰対象であり、出家者は僧院にこもって経典の読誦と禅定に励んだという図式は、正鵠を得たものとはいえない。』同様のことはショペン教授も指摘している。前掲 Schopen本 第四章

*5:前掲 Schopen本 第四章

*6:G. Schopen..『Stŭpa & Tittha :Tībetan Mortuary Practices and anunrecognized form of burial Ad Sanctosat Buddhist sites inIndia』In The Buddhist Foram.Vol.3.London.

*7:岡野潔「仏陀永劫回帰信仰」『印度学宗教学会 論集』、第17号 岡野教授が無造作に民衆の集合的無意識と定義づけられているヒンドゥ的な意識を、こと大乗運動の興起と小乗僧院とのの関係からアプローチするとき、単に在俗の民衆の無意識としてスライドされ、あたかも小乗の僧院の構成員が全てがそうした民衆のヒンドゥ的な集合的無意識と対立構造を持っていたかのパラダイムで論じられていることは僕としては到底承認できるものではない。それでは制度や習慣から小乗の僧院の変遷を考える時、僧院の中にも未だ阿羅漢果を得ず確立されていない思想が無意識の思考習慣に流されて、思想としての非人情の哲学と対立したセクトが構成されることを見落としてしまうことになるからである。だがそれを除き思想史としてのアプローチに限れば岡野教授の仏伝の「二元的区別」から「永遠反復説」への流れという思想の抽出は非常に有益な作業で賛意を表する。岡野教授は次のように述べる。『上座部においては、教団側の理念と、現実の信仰上の趨勢の間には、大きなギャップがあったと考えられる。教団側の理念というのは、宗教の表層部にすぎず、あくまで理論化・合理化された立場を表明するものにすぎないが、一方、現実の信仰の趨勢というのは、宗教の基層部から生まれ、民衆の集合的無意識に根ざしている。インド人の思惟方法として、普遍の重視、特殊の無視、静止的性格、時間観念の欠如などの傾向を見るとき、大衆部的な進んだ仏陀観の出現は、インド人の民族性により深く根付いた、必然的な帰結であったと理解される。仏教の流れは教理の水面下で大きく民衆的な方向に進んでゆき、仏陀永劫回帰の信仰は仏教の底流として、出家者の教理を脅かしつつ、教団の下で流れていたと考えられる。』

*8宮元啓一苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか』- 阿部慈園博士追悼論集 仏教の修行法----頭陀行を中心にして- 2003/01

*9宮元啓一仏教・インド哲学における非人情』東方研究会『東方』2005年号

*10:下田正弘『仏の存在とは』中央学術研究所「明日への提言」

*11:前掲 Schopen本 序章

*12:ただし彼が党派的で戦闘的に主張しようとした『自他の利益と解脱という目的が仏の教えである。なぜならそれらは六波羅蜜の中心にあるゆえこれは仏のことばである』とブッダの言葉として願望を託した論理の抽出のための方法論はその利己的で自滅的な彼の闘争の評価とは別の視点から評価しなくてはならないことは言うまでもない。石飛道子氏が指摘されている彼が主にサンユーッタ・ニカーヤ、アングッタラ・ニカーヤ、マッジマニカーヤで使われるブッダの説法を成立させる論理の忠実な模倣者であるということには注意を払っておくべきであろう。その論理と思想がやがて中観派の哲学として華開くことになるからである。石飛道子『ブッダ論理学五つの難問』講談社(ASIN/ISBN:4062583356) 2005-07

*13:前掲 Schopen本 序章

*14維摩経などこうした背景からは充分成立の余地を認めることが出来るだろう。教団内の大乗グループの比丘は「小乗」教団の比丘として在俗を訪れ、経験したエピソードをヒントに大乗運動に利用したかも知れない→拙稿『維摩経の研究 - 社会的背景からの学際的考察』一般未公開

*15:瑜伽行実修行派の論師達は ヒンドゥの集合的無意識に根ざした永劫回帰の仏を論理で成立させることを試みる。その成果が唯識の言う「報身仏」である。岡野教授の説明が分かりやすいので引用しておく。ただし注7で述べたように岡野教授がヒンドゥ的な集合的意識に依拠する思考習慣を教団内の同様な思考習慣に言及せず無造作に民衆の集合的無意識としてと定義づけられていることには注意を払わなければならない。『仏陀を輪廻の世界に降りてきた「法界の顕現」と見做すと、個々の仏陀は個性を失って、単なる反復ということになる。すると個々の仏陀は修行の結果、仏陀に成った「人間」であるとは考えられなくなる。すると大乗における菩薩思想は崩壊せざるをえない。凡夫が発心して菩薩に成り、十地の階梯を経て仏に成るという道は形而上学の扉で永久に閉じられ、ただ仏陀のみが仏陀として現われてくるにすぎなくなる。菩薩たちすら、実は法身の仏陀が顕現した存在であるということになる。つまり仏陀を無始なるものとして崇める、新しい仏教の立場と、仏陀を人間がなったものと考える、オーソドックスな仏教の立場は、ここで絶対に矛盾するものとなる。仏陀観が発達したために必然的に生じた、この矛盾を乗り越えるために、新たに考え出されたのが三身説である。この三身説では、「法身」と「生身」の従来の二仏身の間に、中間的な仏身としての「報身」(受用身)を立てるのである。「報身」は、修行の結果としての果を所有し、固有の名前をもつ仏陀である点で、無時間的な「法身」とは異なるが、しかし法界に存在して、ほとんど無限の寿命を持ち、多くの化身を地上に下すという点で、従来の「法身」に等しい超越性をもつ。この「報身」の成立によって、仏陀は八十歳で入滅する歴史的存在(生身)でもなく、何の具象性ももたない非・歴史的な存在(法身)でもなく、歴史を越えながら歴史性を回復した存在となる。この「報身」の理論的な成立は中期の大乗、特に唯識学派においてであるが、しかしそれ以前にも『法華経』などの大乗経典においては、「法身」という言葉で、普遍的で非・歴史的な仏を指すのではなく、久遠釈迦という、「報身」にあたる仏を意味してきた。つまり、二身説らしく見えながら実際は〈法界〉-〈久遠釈迦〉-〈肉身釈迦〉の三段階になっており、すでにこの時代において、純粋な二身説の仏陀の非歴史性に対して物足りなさを感じる、熱烈な釈迦信仰を持つ人々が、実質的に三身説にあたる仏身観に移行していたと考えられる。(→前掲岡野論文)』

*16佐々木閑インド仏教変移論―なぜ仏教は多様化したのか大蔵出版 (ASIN/ISBN:4804305459) 2000-11

*17:2/12追記:袴谷憲昭『仏教教団史論大蔵出版 (ASIN/ISBN:4804305505) 2002-06 ajita さんがこの拙稿をご紹介下さって関連書籍として袴谷憲昭教授の『仏教教団史論』を「あらら、袴谷先生まで... ... と取り上げられている。袴谷教授のご論考はこちらでも取り上げている佐々木教授の『インド仏教変移論』、ショペン教授の『大乗仏教興起時代』での成果を発展的に、あるいは批判的に用い、現在の資料を加えて平川彰『初期大乗仏教の研究』で提起される「大乗仏教仏塔、在家起源説」の未論究点と矛盾を洗い出し、仏教の「思想」とヒンドゥの「習慣」の対立と融合を軸に、在俗から求められた「作善主義」、その僧院内での具体化としての「悪業払拭の儀式」を論ずることで教授の「大乗仏教伝統教団起源説」を提起された画期的なご論考である。しかし主たる内容としては今回のこのエントリの主幹をなす当時のインドの「制度「と「習慣」については佐々木、ショペン両教授のご成果、「思想」について大乗思想についてはショペン教授、教団内の「思想」と「習慣」については宮元教授の「非人情としての哲学」と「人情」の対比例で語り得ると考えて2/10の時点では参考文献として脚注に取り上げなかった。しかし良く考えてみれば「大乗の担い手たる森林の遊行者も布薩にさえ参加していれば僧院の比丘に準じて食料、寝具、衣料品などが仏の財産とされる僧院の運営資産から支給された」のは教授の指摘された「僧院や仏塔の管理人としての比丘の存在」が背景にあり、この行の「アビダルマの哲学者たちは王族や金持ちから金品を授受して懺悔滅罪と作善の儀式を出家として在家菩薩達のために慈悲という大義名分のために執り行っていく比丘を「功徳」の根拠をそのなす人の「心(cita)」にさえ求めなければ同じ僧団の比丘として拒絶したわけではない」というのも『異部宗輪論』に記述される「カビラバストゥの聖者」たる仏陀の言葉=アーガマ峻別方法論に基づき教授が論説されている「説一切有部の見解のように「思想」では善悪の決着をつけ、「習慣」には「無記」とした教団の態度」が背景になっていて、決して佐々木、ショペン、宮元各教授の論文だけでは思い至らなかったことになる。その袴谷教授の論文は「悪業払拭の儀式関連経典雑考」として1992年3月から1999年3月まで「駒沢大学仏教学部研究紀要」「駒沢大学仏教学部論集」「駒沢短期大学研究紀要」に9回に渡って連載され、後に『仏教教団史論』の第二部として収録された。ここに改めて本書を参考文献として取り上げておきたい。

*18:拙稿『日蓮本仏論と二箇相承 日蓮宗富士門流にみる歴史・教義の改変と増広』2005/09

*19:L. de la Vallée Pussin 『Vijñaplimãtratãsiddhi. La siddhi de Hivan- Tsang』Tome II Paris 1929

*20:前掲 Schopen本 序章

*21:A. Bareau,『Etude du bouddhisme. aspects du bouddhism indien décrits par les pélerins chinois』,Annuaire du collège de France 1984 -1985. Résumé des cours et travaux. Paris 1985

*22:前掲杉本論文『3.菩薩のチャンダーラ』

*23:前掲 Schopen本

*24:G. Schopen.『The Ritual Obligations and Donor Roules of Monk in the Pãli Vinaya』Jounal of the Pãli Text Society 16 1992