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永源寺飲酒障害致死事件・・無念!悲しさ、悔しさ、込み上げる怒り!

社会

修行僧が酒飲み口論、同僚つき落とし死なす - 臨済宗永源寺

無言の回向

無言の回向 : K10D + smc PENTAX-FA☆85mm F1.4 露光時間1/80sec. f/4.5 露出補正+1.00 ISO 800

 マンナンライフのエントリにうちのブログにしては珍しくいろいろコメントを頂いたがそのレスにわたしは次のようなことを書いた。

あふれるばかりの物質文明は身近にある危険までも遠い存在にしてしまった。本来なら種の保存に立ちはだかる危険を回避する観察力をこの地球の生命はすべて持っています。人間はいつしかそれを言語化して概念とし、無意識の意識に蓄積するようになった。

言語による概念ですから当然自己反省を伴いますがその自己反省が倫理を要請します。ところが物質文明によってその概念すら無くなってしまうので当然自己反省も無く、従って倫理もなくなってしまう。倫理とは自己反省の上にのみ組織され自らに要請されるものです。これを suijuan さんは、そのお立場から宗教心の欠如と言われている(仏教はそういう思想構造を持つのです)のだと思います。

■マンナンライフ事件は幼児虐待

 ところがこんな世間の事件を他人事のように語っているような場合ではない事件が起きた。

 滋賀県警は7日、同僚の男性修行僧を寮の縁側から突き落として死なせたとして、同県東近江市永源寺高野町臨済宗永源寺大本山永源寺の修行僧内山忠昭容疑者(52)を傷害致死の疑いで逮捕したと発表した。

 東近江署の発表によると、内山容疑者は6日午後11時半ごろ、境内にある寮1階の自室で、男性修行僧(47)を縁側から約50センチ下のコンクリートの路面に突き落とし、死亡させた疑い。男性修行僧は頭を強く打ち、同市内の病院に搬送されたが、7日午後1時ごろに死亡した。

 内山容疑者は同日午前11時ごろ、同署に出頭してきたという。自室で2人で飲酒中に口論となり「かっとなって縁側から突き落としてしまった」などと話しているという。永源寺などによると、寺には十数人の修行僧がおり、内山容疑者は20年近い修行歴があり指導する立場だったという。

■修行僧が酒飲み口論、同僚つき落とし死なす 滋賀の寺 asahi.com

 このニュースは例によって tenjin95 さんの「つらつら日暮らし」で知り、情報元のニュースサイトで状況を知ったわたしには非常にショックだった。そして残念さ、悲しさとともに怒りが込み上げてきた。同サイトには『私は一般人ですが、仏教徒として、今回の事故を深く深く悲しんでいます。~糾弾するのはマスコミや一般人のみで充分で、はっきり言ってうんざりです。宗派など関係なく、同じ仏教徒の僧侶としての見解が欲しいところです。』という旨のコメントが寄せられていたからだ。勿論怒りはこのコメントをされた方にではない。この事件を起こしたここでは修行僧と呼ばれているおそらく実質的には指導的な立場にある役僧内山容疑者に対してである。この愚かな修行僧は『宗派など関係なく、同じ仏教徒の僧侶』から糾弾されてしかるべきなのである。

 わたしはこの方(内山容疑者)と特に面識があるというほどでもないし、当然どういう方なのかは詳しくは知らない。最初にこのニュースを目にしたときはわたしもこの方は気の毒な方だと思った。しかしよく考えてみればこの方はある意味とても恵まれているのである。わたしをはじめ僧堂で修行経験のある多くの方は仏教を極める(*1)という志半ばにして僧堂を出なければならない。それは臨済宗の教団に限ったことではないが仏教教団とその地域社会の窓口である寺院は仏教の修行だなんだということの他に、地域社会に呼応した組織の常として世俗的なことにかかずらわなければならない。それは今の日本の寺院に限ったことではなくインドの部派教団においても律蔵の「雑事」に示されている如くである。教団が世俗社会と接点を持ちその接点を軸にした経済活動(*2)でなりたっている以上、誰かがその役割を受けもたなければならないので縁(*3)に従ってその役割が割り振られるのである。最初にわたしが彼を気の毒だと思ったのも昨今は仏教各派のなかでも慣習的に世襲を認めるのが遅かった臨済宗世襲が普通になってきたので、20年も僧堂にいる方は、在家からの出家で入る寺のチャンスに恵まれないか、よほど出来が悪いかのどちらかだと思ったから。勿論修行の最終である大事了畢されて挙され次ぎに老師になるようなかたもいらっしゃるのだがこういう事件を起こす方はそうではないに決まっている。

 勿論臨済宗の僧堂が仏教教団とは思えないような古参の僧による虐めや、比較的緩やかな飲酒にたいする考え方等、抱える問題があることは分かっているしそれを否定するつもりはない。敢えて辱を曝せば、かつて後輩から古参の虐めについて、そしてその古参が夜な夜な風俗の店に遊びに出かけるも老師(*4)は見て見ぬふりというような相談を受けたこともある。例えば明治以降の「肉食妻帯勝手たるべし」に対しても禅の一方の雄、曹洞宗が未だ明確な方針を打ち出して成功しているとは言い難いが在家宗学の問題に真摯に取り組んで山内舜雄博士などは永平清規を規範に段階的に、あるいは本山からの距離という意味で場所的に現実的な規範を策定されようと努力されたことは記憶に新しい。そうした現実的な議論は必然的に所属する僧侶に対して倫理的要請を伴う。それに対して済門は非常に厳しい僧堂の戒律を掲げながら、制間、制中などの年間の行事期間、僧堂の坐って半畳、寝て一畳の単に住する初参の僧からやがて自室を与えられる役僧まで、それぞれに応じて所謂世俗的な自由を暗黙の了解で謳歌する。わたしにはそれはまるで大乗の菩薩は聖と俗を自由に往来して働くという臨済禅師の言葉を隠れ蓑しているように見えるから、倫理もクソもあったものではない。自らの倫理的要請で非常に真面目な僧もいらっしゃるが、かたや相談のあったような古参の修行僧や今回のような酒にだらしのない僧を存在させてしまう縁にはなっていると思われる。

f:id:kumarin:20090310012047j:image:w300在りし日の三島龍澤寺山本玄峰老師
   「老師」という話題が出たので掲載しておく

  • この写真、なにかの取材の時に撮影されたものらしい。秋月龍ミン(王+民)老師から頂いたものだが、その秋月老師は中川宗演老師から頂戴したと仰られていた。玄峰老師の写真は巡り巡っていまわたしの手元に数枚ある。一般の読者の方のために記せば昭和天皇に生物学のお話しという名目で皇居の温室の中でお二人で会われ国民の惨状と焦土と化した国土をご説明し日本の降伏と終戦を談判された。さらに進駐軍憲法策定の動きに自主憲法を対峙せんとした吉田茂の相談に陛下を「象徴」にしなさいとアドバイスしたのも玄峰老師である。

 こうした環境を思えば彼のような人が生まれてしまう残念さ、悔しさというのもあるし、非常に悲しい事件でもある。しかしである。52歳になろうというような大人が管理体制もクソもない。高校の野球部の不祥事ではないんだから。駒澤大学の附属高校の野球部の不祥事じゃないんだよ。彼の精神状態がどうであったのかわたしにはわからない。ひょっとすれば前述したように寺の後と取りの僧達が修行も半ばに自坊帰って行くのを妬んで居たのかも知れない。ある老師から伺ったことだが寺の跡取りには公案(*5)にちゃんと応えられなくても初関、二関は状況を見て肯がうと言う。理由は簡単、和尚になれば本山との付き合いもあるし勉強会もあるからやがて体得出来るから。そういうこともあって寺の跡取りではない修行僧には公案の肯のレベルも厳しく本来は自分の為を思えば喜ぶべきことであるのに妬むのものいるから彼はそのくちだったのかも知れない。

 そう考えれば可哀想な人だし悲しい事件ではある。しかしそうじゃないんだ。彼はいつの間にか初心を忘れ去ったばかりでなく彼が僧堂にいることが出来るという恩をも裏切ったのだ。一昨日のマンナンライフ事件のエントリのコメントへのレスにわたしは次のように書いた。本来はここで僧堂の修行内容を説明して掲げるべきなのであるが一般の読者の方に分かりやすくするためには大雑把ではあるがちょうどよいと思われるので以下にに引用して修行内容の説明に変えたい、そういう事情なので専門のかたは突っ込まないで欲しい(笑)。

ブクマさせていただいた『奪われた小さな命 』に書かれていたこともそうですが、科学や物質文明の進歩は、因果の前に祈るしか無く人間の力では如何ともしか難かったことが実現されるようになっています。だからこそ自分の心の中に積み重ねられた概念(西洋式には自己実現などといいますが早い話が執着と欲望ですな)を一つ一つ自己反省しつつ解体しなければなりません。解体するごとに倫理が一つ一つ積み重ねられますから。

その確実な達成の為の最大の効果的方法が四念処ですね。龍樹が世俗諦と名付けたことばに表しうる真理とはこのことだと思います。自分の心の中に作られた概念はそもそも縁起して作られたものなのだから実態は無いんだ!解体してしまえと!それを説一切有部の論師達はその概念は刹那滅なのだから良き「法」に転変せよ!つまり倫理に置き換えよ!と未来をたぐり寄せようとした。

どちらにせよ無意識の意識までに構築された概念が解体され尽くされ、欲も恐怖も過去のものになったとき、つまり龍樹が言う空っぽになったとき、有部の言う実在する「法」をたぐり寄せそれがニルヴァーナになったとき、世親の言うアーラヤ識が清浄無垢なるものに転変したとき、「身心脱落」が起こるのですね。わが臨済禅師の「無位真人」です。そのプロセスは「さとり」と言う目標を持つのでなくただ概念を解体するのみの作業だから思量するでもなく思量しないのでもないからネイティ、ネイティと排中律を守ることになる。道元禅師が「非思量」と仰ったのも納得が行きます。

 こうした精神的作業を世俗のもろもろの出来事にかかずらわることなく集中できるのが僧堂である。どんな理由であれ僧堂に住していればこれに集中できるのである。仏教を志したものにとってこんなに幸せな環境はないではないか。わたしからすれば羨ましいの限りである。僧堂に入れば一度は得ることが出来るかも知れぬどんな心の平穏も世俗にもどれば乱されるのである。パーリ仏典に言うように世俗は一度得た阿羅漢果を保持することが出来ないのだ。『自分の家族や財産が他者によって危険にさらされれば、法的にも実力的にもこれと対峙することこそが世法の正義であり、社会的立場にしがみつき、稼業にエネルギーを費やし、自己と家族の安泰を図ることこそが、世俗の生き方である。仏教の悟りにおいて否定される「貪り」や「瞋り」は、一般社会ではむしろ必要なのである。そのような立場にいて、はたして一切の結縛を断つことなどできようものか?*6)』ということなのだ。

 釈尊が送った完全に一切を断ち切った出家生活に近いものを臨済宗の僧堂は手にすることが出来るのだ。そしてその僧堂の存在を支えているのは初期インド仏教の律蔵に規定される「雑事」を縁あってこなさなければならない末寺の僧の活動と教団を支える苦悩の社会で藻掻く在家の信者の方々の存在である。彼らは『社会的立場にしがみつき、稼業にエネルギーを費や』しながらもなんとか仏教の理想を自らに課して日々闘っているのである。そうした仏恩を考えればどうして深酒など出来ようか。いったい彼は坐って何をしていたのだ?そう思うと怒りが込み上げてくるのである。

追記:id:finalvent さんが興味深いことを述べられている。

たいていの人の人生は失敗ばかりの人生になると思う。残念ながら40歳越えると失敗は見え始め、50歳では失敗が完成する(例外もあるかもだけどね)。しかし、その失敗を心理的に合理化するのとは違って、50年も生きてみると、その失敗によって刻まれた人生の不思議さを思うようになる。

■finalventの日記 50年生きてみると

わたしもこの感覚にまったく同意する。そして失敗を成功に変えられる人生を歩む場所があるとすればそれは僧堂なのだ。心こころですよ。様々な人の恩に支えられてそんな環境にいることが出来たのに内山さんはそれをなさらなかった。ほんとうに勿体ない。

一日一チベットリンク → 中国チベット自治州 手製爆弾で警察襲撃、騒乱相次ぐ

【北京=峯村健司 asahi.com】中国国営新華社通信によると、青海省果洛チベット族自治州班瑪県で9日未明、数十人の住民が地元警察を襲い、手製爆弾でパトカーと消防車を爆発させた。現場近くではチベット族による騒乱が相次いでおり、10日にチベット仏教最高指導者ダライ・ ...

 

*1:読んで下さる一般の方のために極めるなどと書いたが、実際は世間に出て働くよりも自らの自己反省を通じて自らの妄念を解体し平穏な心を獲得することに専念が出来る環境が確保できるということである

*2:布施を現実的に言い換えれば学校経営や名所旧跡としての入場料も含めてそういうことになる

*3:寺の息子が寺を継ぐというように、大学院にいるものが聖職ではなく仏教学の職に就くというように

*4臨済宗のシステムをご存じない方のために言うと済門の「老師」とは単なる尊称ではなく規定の修行を終了し祖師位に昇られた、その僧堂ばかりでなく宗門の知的レベルを代表する最高の高僧である。

*5臨済禅の修行形態。老師から問題を授かって自らの問題として引っ提げて参究し、わかったと思ったら入室して老師に見解を呈する。老師はそれで修行者の自己反省と無意識の既成概念の解体の度合いを測る。肯がわれれば老師はにっこり笑う。ダメならチリンと鈴が鳴らされる。初関は無門閑の『無字』白隠『隻手の音声』が多いが『本来の面目』を採用される老師もいらっしゃる。

*6古山健一『「出家」とは何か?を中心として』駒澤大学大学院仏教学研究会 WEB 論壇より