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再度戒律を考える - 永源寺僧堂の飲酒障害致死事件をめぐる論考

仏教

永源寺僧堂の飲酒障害致死事件をめぐって

f:id:kumarin:20070422165207j:image

 id:ajita さんが『永源寺飲酒障害致死事件・・無念!悲しさ、悔しさ、込み上げる怒り!』にコメントをくださり、更にエントリ『永源寺事件と不飲酒戒』まで立ててくださった。わたしとしてはこの事件には前エントリで記したように確かに怒りもあるのだがいささか気が滅入っていたのでとても有り難かったし励みになった。ajita さんのエントリにお礼のコメントをさせていただいたがここで改めて御礼申し上げる次第である。

 また臨済宗の諸師方にはそれぞれの寺院の公式ブログ等では語るに語りにくい問題でもある。ネット上に少なくとも臨済宗の方とわかる発言はただ一つの例外を除いては見いだすことは出来なかった(2ちゃんねるには臨済宗系の板があるがそちらは確認していない)。その ajita さんのエントリへのコメントでわたしは『わたし自身過去は「煩悩即菩提」どころか「煩悩即煩悩」の人に法を説いて自分で守れずの『乾屎橛(クソカキベラ)』でしたが、脳梗塞という悪業悪果に一年奮起、基本的には酒を断ち、肉食も絶って「あー食べたい、あー飲みたい」と擡げる概念を概念として成立するまえにヒョイと捨ててしまえるようになって、その行為の結果としての身心の充実に「戒に守られて生かされる」楽しさを実感しています。』と書いた。仏教の徒にとって脳梗塞とは飲酒、肉食という悪業の果として自ら得たものである。不幸にも、あるいは不運にも現代病に冒されたというような事態ではないのである。そこで今日はささやかながら仏教の戒について論じてみたいと思う。

同じ臨済宗の僧侶として大変悲しく思う。私もかつて、臨済宗妙心寺派の専門道場で修行した。恐らく永源寺と同じような環境だろうと思う。プライベートな時間など無く、禁欲的な生活であるため、ストレスは相当たまる。そんなとき酒など飲めば、爆発したくなる気持ちも分かる。しかし‥‥、忘れてはならないことは、「仏道の修行をするために道場に居るのだ」ということである。一般の人から見れば、「お寺で修行しているお坊さんがお酒を飲むの?」と驚くだろう。批判を恐れずあえて言えば、修行道場でも酒を飲む機会はあった。恐らくそれは同宗派の多くの道場も同じだ。しかし、酒を飲んでいても心には必ず、一定の緊張感を保っていたように思う。私の修行期間は短いものだったが、それは修行道場に居る以上、長くいる方であろうと誰であろうと、必ず保たねばならないものだと思う。それが嫌なら道場から去るべきである。

ゆうくんの日記「己事究明」悲しい事件

 これを読んでちょっとホッとした。寡黙を続ける僧侶方も多かれ少なかれこういう気持ちでおられ、ある意味では自責の念もお持ちであることを信じたい。しかし現代の禅としてはこのへんにしておきたいのかも知れないが仏教としてはいかにも未だし生ぬるい、もう一句著けてみよ!という思いがないでもない。この方は『今後、臨済宗全体でこの問題は議論されるだろうし、様々な方面から批判も受けるだろう。これからの推移を見守りたい。』というサンヒター(一節)を以てこの記事を結ばれているが、わたしが危惧するのはこの問題がチェック体制の強化なり、見通しを良くした僧堂の近代化ということに議論がすり替えられてしまうことである。今回の事件の本質は ajita さんが指摘されているように『この事件の構造は単純なものに思える。それは、「戒を守らないものは戒に守られない」という至極当然な単純さ』にあるのであって僧堂云々の問題ではないからである。摘水摘凍(*1)には戒も組み込まれなければならない。

 そこで本稿では(一)でインド仏教における律蔵の戒律 prãtimokşa (波羅提木叉) の授持が四念処や八正道などの三十七菩提分法とともに修行者の日常底に貫徹される向上の両輪であり、戒は八正道の実践として、人格の向上と形成、修行とに寸分の隙間無く組み込まれ相互に作用し向上していく体系を持っていることを確認し(二)では明治維新以降からの仏教復興運動とその挫折、その要因として日本仏教の受容から現代までの律と戒の占める位置とインド仏教との差異を検討し、(三)ではさらに今回の事件の舞台臨済宗の中興の祖と言われる白隠の戒律観を見ることで(四)明治の日本近代化の時期に僧伽を「法と律をよく保つ比丘・比丘尼」の集団として再構成するチャンスを逃した我々は祖師達に習い自己否定を通して自覚的に戒を授持して行かなければならないことを論じる。

一、仏教における戒とは何だったのか

 インドの初期仏教において受戒は極めて重要な意味を持つ。それはこれから在俗の全ての生活を捨てて出家者となる最初の儀式である。受戒する戒律は律蔵に含まれており、その律蔵は出家者として守らなければならない個人的禁止事項をまとめた戒律 prãtimokşa (波羅提木叉) とその禁止事項がどのような過去の事例で禁止されるに到ったかをこまかく述べた注釈である sūtravikalpa (経分別) 、教団の行事等のマニュアルとも言える skandhaka ([牛+建]度) の二つの部分からなるかなり大規模な聖典である。そのうち出家し、bhikşu (比丘) になるものはまず prãtimokşa を暗誦しなければならない。それは出家して比丘となるための誓いでもある。とは言っても順序としてはいきなり比丘になれるわけではなくまず某かの縁があって śaraņa (三帰依)(*2)を受け仏教の信者 upãsaka (優婆塞)になり、ajita さんが説明して下さっている在家の五戒を受け授持した生活をする。そしてどうしても出家して本格的に修行をしようと言う者のみが upãdhyãya (和尚)と呼ばれる弟子を教育する資格を持った高僧について出家し、śrãmaņera (沙弥)という見習い期間を後に優秀な者に対しては5年に改められたがもとは最低10年を見習い期間としてその師から比丘として必要なことを学び、僧伽全員の承認を受けて正式な比丘になる。出家して比丘になるとは本人の決意もそうだが廻りの評価をも含めてかなりハードルの高い人生の転換であったのである。

 その沙弥の期間に二百五十戒の prãtimokşa を暗記する。暗誦のほうほうは『般若心経が否定しなかった三十七菩提分法』で述べたように3通りのパターンに則っての完全暗記である(*3)。そしてこれは言葉で唱えることでその言葉が力を持つというインドの言語習慣に根ざしており、この戒を暗誦・授持するという経験が無意識のうちに心に薫習することによって悪業をなさないという能力が準備されるのである。インド人がこうした聖典のテクストを暗記に拘るのは暗記は文字の資料と違い、必要なときに瞬時に取り出して使えると考えるからであり、未経験の事態に直面しても認識と判断を誤らずに対処する能力が付与される、それは認識と行為を可能にする組織された知識の習得なのである。だからこそ言葉は力を持ち世界を形成するのだ。三帰依から開始されたインド仏教においての smŗti (正念相続) にこの時点で戒 prãtimokşa が組織的に加わるのである。後で述べるが禅仏教においての正念相続が『般若の自発発展』という『即非』の思想構造を持つゆえに、意識の形成上後回しになってしまうことと相反をなしている。

 この受戒と言う儀式は持戒という正念相続に必要とされる要因、素材、行為者などの要素群を包括的に参照する準備行為である。前掲エントリでも述べたようにこれは広義にはサンスカーラであり、従って仏教は全てのサンスカーラを否定したわけではない。 prãtimokşa の暗誦と授持は 身、口、意の三業の浄化であり、上座教団の説一切有部の表現をかりれば凡夫の心に刹那刹那に生起する心所法を煩悩地から善地に転変させる因ともなるものである。このようなダルマの観察はそのまま瑜伽行唯識学派にも引き継がれた。仏教の比丘達は善因善果、悪業悪果の業報輪廻観にも担保されて生涯 prãtimokşa を守って生活した。また半月に一度の upavãsa (布薩) という僧伽の比丘の自省の集会では全員で prãtimokşa を称え、相互に自分が律に沿った行為をしていたかを確認しあい、守れなかった者は正直に告白して悔い改めることを宣言した。この upavãsa の行為が三帰依で宣言された教えを奉じる良き友としての「僧」に信順することに直結する実践行為であることに注意を払っておきたい。これが三帰依という言葉の smŗti (正念相続) に作られた善業であり実現された世界なのである。

 このように暗誦され繰り返し称えられることによって戒は 深層心理に、後の瑜伽行唯識学派の表現を使えば ãlaya-vijňãna (アーラヤ識) に蓄積される。瑜伽行唯識学派の分析と表現はインド人の言語観理解に有効だと思われるので少しかみ砕いて述べてみたいと思う。暗誦された戒は実現される力を持つ「言葉」であるから 身、口、意の三業の浄化である。それらは強い香りが衣服などに付着して残存するように善業として深層心理である ãlaya-vijňãna に残存する。その状態を bhãvanã (熏習) という。熏習の結果残された vãsanã (習気)(*4)は習慣的な力、業の潜在的余力となって後の行為を規定する。つまり現在および未来における自己の身心および対象世界、すなわち一切諸法を生み出す因となって過去の経験を保持しつつ、身体を維持し続けながら恒常的(*5)にはたらく。この深層心理は仏教に出会わない人や、仏教に出会って間もない人には輪廻する迷いの生存の根底として機能するのであるが、仏教に出会い catur-ãrya-satya (四聖諦)(*6)を明確に観察し意識した以後は悟りの諸法もまたこの深層心理から生じるとされるのである(*7)。ここにはサンスクリット文化圏が持つ「世界を形成する力」である言葉を実践的に投入して善業として積み重ねることで善果である「悟り」を得るというインド人の概念である善業善果、悪業悪果の業報輪廻の縁起観が貫徹されているのである。

 受戒し戒を念じて瞑想を行うことは縁起するダルマの観察に直結し初心の比丘にとってはヴィパッサナー瞑想*8)によって開かれたブッダの悟りへの追体験への序章となるものである。また深層心理が「悟り」への諸法に向かう条件としての四聖諦は『般若心経が否定しなかった三十七菩提分法』で述べたとおり「幸あるお方」ゴータマ・ブッダが生前に説いた金言と寸分違わぬ仏教の要石として暗誦され繰り返し学び実践されたものである。ゆえに prãtimokşa はそのまま四聖諦の道諦、八正道の実践として、人格の向上と形成、修行とに寸分の隙間無く組み込まれていく。 prãtimokşa と四聖諦の連結は僧院の比丘にとしての行為と人生に貫かれて行くものであり、常に意識され自己反省され実践をともなう善業として「悟り」に達するための仏教の両輪であったのである。律文献やアヴァダーナ文献に「法と律を良く保った比丘」という形容詞が頻繁に使用されるのもこのことを示している。いいですか、id:touryuuuan さん、インド仏教では不飲酒に混乱(*9)なんて無いんですよ。それは律蔵によって運営される僧伽にとって初期仏教からナーランダーを越えて延々と続く仏教史を貫くインド仏教にシステムとして用意された修行者の smŗti (念力)とも言えるもので、どちらが欠けても仏教は成立しないのである。戒や仏の教えとしての法が暗誦という作業を前提に深層心理に薫習されれば仏教の持つ修行体系は決して複雑煩瑣なものではない。それらは相互に作用し向上していく体系を持っているのだ。こうしてサンスクット文化を土壌にしたインド人の言語観を前提に概観すると受戒が仏教において如何に重要な意味を持つか読者はもうおわかりであろう。

二、日本仏教のルネッサンスと日本仏教における戒の位置

 では次に日本の仏教受容にともなう戒の位置づけを見てみよう。インドの仏教が教線を拡大し、東はセイロン(現スリランカ)や北西インドのガンダーラ(現アフガニスタン)へ伝播していったとき教団は同一の教主釈尊とその法に帰依する仏教全体の僧伽、つまり四方僧伽という理念のもとそれぞれの現前僧伽として経と律の修行の両輪を携えて拡大した。『初期大乗と小乗僧院の社会的活動との関係について』の冒頭で述べたように教団に対する碑文には「 Yola-Mira一Şahi-vihãra (寺院) における四方僧伽にたいして、説一切有部 Sarvãstivãdins の諸師の所領として寄進されたもの」とある。これは僧院の所有権は四方僧伽に帰属し、管理は現前僧伽である説一切有部が行うということである。従って四方僧伽としては同じ仏教であるものの現前僧伽としてはそれぞれの同一の経と律を組織的に持つことになった(*10)。

 例えばここで誤解が起こるのだが玄奘も学んだという5世紀の大乗小乗兼学のナーランダー寺院は現前僧伽である説一切有部の寺院である。確かに玄奘が言うように大乗教学(瑜伽行唯識学派)の中心には違いがないが、だからといってそこで説一切有部の経と律や論が捨て去られたわけではない。玄奘よりやや古い義浄もナーランダーで学んだが義浄が持ち帰った根本説一切有部律で僧院は管理運用され、構成する比丘もそれに従っていたのである。われわれ日本人の言語感覚で考えれば小乗は大乗に止揚されて消化されていると考えがちだがインドの言語習慣を前提に考えれば根本説一切有部の律と経は常に smŗti (念)として貫徹されているのである。受戒と三十七菩提分法が修行の両輪として機能することが捨て去られたのではない。

ナーランダーにおいて玄奘がそう呼んた「小乗」の学とはサンスクリット文法学に則り1000年以上連綿と正確に続けられているアーガマ「三十七菩提分法」の暗誦と読誦なのであった。そしてその学に励むサンスクリットに生まれサンスクリットに育った比丘達にとってそれは玄奘の言うような「小乗」の学などではなく「幸あるお方」ゴータマ・ブッダが生前に説いた金言と寸分違わぬ仏教の要石なのであったのだ。

■『般若心経が否定しなかった三十七菩提分法

 ところがご存じのように日本において仏教は鎮護国家の思想として国家的に取り入れられた。わたしは特に新たに書き起こす構想もその力量も持ち合わせていないので非常によくまとまっており重要な視点が含まれていると考える花園大学佐々木閑博士のご著作から引用させていただく。その重要な視点と考える部分はテクスト中太字強調にしておく。

 仏教僧団には必ず律があると言った。それでは日本の仏教僧団はどの律を使用しているのだろうか。実はどれも使っていないのである。日本に仏教が導入されたとき、それは国家仏教として取り入れられた。つまり仏教とは当時の国家権力が日本を統治するために輸入した新思想であり。比丘や比丘尼はその国家プロジェクトの実行委員、すなわち国家公務員であった。国家公務員が自分たち独自の法律を作って独立共同体を運営するなど許されない。国家公務員は何をおいても国家の規則に従うべき存在である。従って当時の仏教は律蔵に基づく僧団生活を導入することが許されなかった。そしてこのことは日本仏教の形態に非常に大きな問題を生み出すことになる。(*11)p.35
?
?日本仏教の場合は、この律蔵にしたがった僧団生活というものが最初から拒否されていた。たしかに鑑真和尚などの尽力によって出家作法だけは伝えられたが、それがとて国家公務員としての比丘・比丘尼を生産するための手続き上の問題に過ぎず、戒律を厳密に守る者こそが真の出家者であるという原則は無視されたのである。
 出家作法は律蔵によって厳密に規定された重要な儀式である。したがって僧団が律蔵を遵守する形で運営されている場合、その作法が勝手に変えられてしまうことはあり得ない。しかし律蔵自体が定着していない日本の仏教においては、出家儀式を変更したとしても文句は出ない。?律蔵が権威を持っていないのであるから、どのような形で出家してもよいということになるのである。p.36
?
?しかも本来の律蔵をそのまままもる集団はどこにも存在しないのであるから、多種多様な仏教教団のうちどれを正統とし、どれを邪教団とするかという判断根拠は誰も示し得ない。こうして真の僧団を持たない日本仏教は、おそろしく多様な仏教世界を形成するに至ったのである。p.37

佐々木閑『出家とはなにか』1999年、大蔵出版 asin:4804305424

 ここで太字に強調させていただいた要点を別資料から本稿の主旨に沿うように検証してみよう。たしかに鑑真の律蔵の紹介によって「法と律をよく保つ(*12)」 聖僧は少数だが存在した。しかし彼らの戒律の正念相続はあくまでも自主的な自覚的なものであり僧団からサンスカーラされたものではない。臨済宗では不二般若道場を設立した釈定光がいる。一生妻帯せず不犯の人生を送り出家と在家の峻別をし一日二回の食事と不飲酒、肉食せずなどを徹底された。定光は破戒の僧を嫌うこと獅子身中の虫の如くで破戒の一件でみずから後継者として選んだ増賀大光を絶縁破門にした。定光とともに比叡山天台宗大学に学び後に参議院議員明治大学教授と転進し、在家の弟子として定光に参禅した太田敏兄氏に、互いが学生時代には『心では現在の寺院を全部焼き払って、僧侶を皆殺しにしたい』と語っている(*13)。その不二般若道場には妙心寺派の中川宗淵や後の曹洞宗総持寺貫首槫林浩堂も参禅したが定光は不飲酒を守らぬ僧の参禅に非常に不快な態度を示したという。しかし定光の持戒も自らの自覚的なもので掛錫して法を嗣いだ那須雲照寺(*14)が真言律と臨済禅の兼修道場であったことにもよる。師の釈戒光は越渓下の伊予大法寺西山禾山の法嗣であると同時に釈雲照(1827-1909)(*15)直流の戒律を相承した人でもあった。定光は雲照の仏教復興運動の流れの中に臨済禅を据え、本師戒光の切なる願いであった雲照寺四世の座を固辞、空海や行基ゆかりの西国三十三箇所の第四番札所槇尾山施福寺座主、兼浦江了徳院住職の要請も一顧だに与えず在野にくだり臨済宗師家として不二般若道場を設立した。龍澤寺の山本玄峰は昭和最後の聖僧と呼び敬ったが、定光の持戒の正念相続と正念決定は日本仏教の腐敗に立ち向かう強靱な自負と自覚のあらわれであったのだろう。

 雲照や定光の様な人が出て賞賛されるのは如何に日本仏教が『戒律を厳密に守る者こそが真の出家者であるという原則は無視された』かを連続してきたかの証左でもある。明治5年の太政官布告「僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事、但し、法要の他は人民一般の服を着用して苦しからず」の発令はおそらくなし崩し的に日本仏教が戒を放棄していったと考えられる。そもそも僧尼令による「肉食妻帯の禁」も僧の授戒からの自覚的な正念相続などではなく国家公務員としての禁止事項に過ぎない。明治から少しくだった定光の時代に『心では現在の寺院を全部焼き払って、僧侶を皆殺しにしたい』ほどだったのだからそもそも太政官布告の前から戒はまもれたら守るべき道徳程度にしか意識されていなかったのではないか。雲照や定光は仏教復興運動、あるいはルネッサンスなどと言われたりもするがこんなことはインドの仏教では当たり前のことなので特に賞賛されるようなことではない。

 明治維新と「廃仏毀釈」は仏教を野に放った。ここに日本仏教は国策から離れて本来の姿で僧伽を運用するチャンスを得たはずである。そして雲照や定光の様な仏教者もいた。少しこの時代を概観してみよう。浄土宗回向院の福田行誡(1809-1888)は、明治初期の混迷期に数々の建白をしたが、仏僧本来の姿に帰るには、まずは持戒し、広く他宗の学問も修める兼学を提唱した(*16)。東本願寺の南条文雄(1849-1927)、笠原研寿(-1872)はサンスクリット研究のため渡英、オックスフォードにマックス・ミューラー訪ねて師事、近代的な仏教研究の手法を学んで帰国する。黄檗宗河口慧海(1866-1945)は明治30年単身でインドへ渡り正念決定の大道力でヒマラヤを越え、当時外国人立ち入り禁止の国チベット・ラサに潜入。膨大な経典類、仏像仏具などを携えて大正4年に帰国(*17)。木村泰賢(1881-1930)も活躍を始める。そして仏教の源流インドとはじめて直接の交流を持ち、それまで「小乗仏教」として観念的批判の対象としてきた南方アジアの上座仏教諸国と少なからぬ交渉も持った(*18)。少なくともこうした時代のうねりと新資料の蓄積、近代的な仏教学の成果は既製教団の指導部がその気になれば日本仏教の僧伽を「法と律をよく保つ比丘・比丘尼」の集団として再構成するチャンスではあったわけである。しかし三十七菩提分法と戒が相互に連携して修行者を向上させる修行体系を持たぬ日本仏教の指導部はそんなことになんの関心も持てなかったのである。律蔵を持たぬ日本仏教各派は『多種多様な仏教教団のうちどれを正統とし、どれを邪教団とするかという判断根拠』を『誰も示し得な』かった。それは不幸にも、原典のサンスクリットのように話し手であるゴータマ・ブッダ釈尊の意図を文法学的に明瞭に抽出する努力をともなわずに、裏読みなどいう読み手の境涯の変化によって自由に解釈できる漢訳された聖典と、時代的にやむを得ない事情があるにせよ、「小乗」は「大乗」に止揚されているというインドの言語環境への無理解が、外来の思想を再度真摯に学ぶ態度へと自らを指し向けることをすら気がつくチャンスを遠い未来へ押しやってしまったように思える。しかしその放逸は日本仏教をして単に公務員という箍が外されてただ野を彷徨わせることになってしまったのだ。

 では次ぎに時代を彫りさげて『律蔵自体が定着していない日本の仏教においては、出家儀式を変更したとしても文句は出』なかったことを平安仏教の天台宗開祖最澄に遡って考えてみよう。最澄の戒に対する思想を見ることは多くの鎌倉仏教の祖師達が比叡山に学んだことを考えると戒に対する新仏教である鎌倉仏教の戒にたいするヒントになるように思うからである。不幸なことに最澄玄奘が帰国して打ち立てた唯識法相宗より古い成立の天台教学をもって帰国した。ナーランダー寺院から三蔵を移入した法相宗は初期大乗経典の法華経に依拠した天台宗よりずっとインド的な教義の組織体系を持っている。その法相宗南都六宗として既に日本に入っていた。しかも法華経釈尊最後の説法ということになっている。より進化して精密化された思想体系が古きものとして既に存在し、釈尊最後の説法というデタラメがまかり通って、ここに天台の、そして日本大乗の「小乗」に対する決定的な誤解と偏見のスタートがあるように思われる。永遠の仏を願い報身仏を煩瑣なアビダルマの上に論理化した「大乗」は、その論理性ゆえに一切衆生の成仏を認めなかったために、経を授持すれば誰もが仏になれると説いたいささか幼稚な「大乗」にとって一切衆生を救うことの出来ぬ差別主義の「小乗」に見えたのであろう。その最澄は「一向大乗戒」を主張した。一向大乗戒とは十重禁戒(*19)・四十八軽戒を言う。インド仏教の prãtimokşa に対して非常に簡略化されている。日本では『鑑真和尚などの尽力によって出家作法だけは伝えられた』が意識的には形式的であり、修行の向上の両輪としては意識されていなかったと言って良い。そこで重要な十重禁戒を中心にまとめられたのである。たしかに暗誦して持戒を続けると言う点では容易になった。しかしその分、もともとが形式的だったことも加えて修行者にとって意識的に戒を授持することの重要さも半減する。そして同時に「小乗」の教えとして三十七菩提分法が捨てられれば、戒や仏の教えとしての法が暗誦という作業を前提にされて深層心理に薫習さる仏教の持つ修行体系は完全に崩壊する。

 こうした兆候は鎌倉時代になるとさらに推し進められる。日本天台から入宋して臨済宗を持ち帰った栄西は、比叡山の顔色を伺いながら最澄の禅を復興すると称して建仁寺を禅・教一致の道場とした。その際に栄西は四分律と十重禁戒の併習とした。四分律の prãtimokşa は250戒である。これは宋代の中国の禅林においての例に習ったものと思われるが、中国の禅僧は法相宗唯識学派からの転向が多かった(臨済義玄もそのひとりである)ためとも考えられるが中国知識人にとって日本とは逆に成立の順通りに天台より唯識のほうが新しく勝れた学問として考えられていたことにも注意は払われるべきであろう。しかし栄西は「大小乗戒をもって、如来禅修入の方便となす」と言っているのでインドのように暗誦され授持されたとは考えられない。また僧俗を結ぶ在家の為の upavãsa (布薩) も中国へ行くと大きく中国化された。インドでは布薩の日に僧院に出かけて aşţãńga-samanvãgata-upavãsa (八斎戒)(*20)を受戒して一昼夜順守するのだが出家生活に近い内容を持つ在家信者 upãsaka (優婆塞)にとっては最高の修行だった。本来「斎」の語は『孟子』離婁下に「斎戒沐浴」とあるように、神を祀るときに身心を清め,行いを慎むことを意味し、仏教の受容とともに aşţãńga-samanvãgata-upavãsa の訳に当てられた。やがて内容も中国的変容を被り行事そのものが簡略化される一方で神仏への祈願の傾向を強めて僧に正午の食事を供養する意味になって布薩説戒会は衰退し「斎」は正午の食事の意味に変容してしまった。日本にはほとんど中国的な意味で導入された。これらも律蔵が機能していれば考えられない事態である。『僧団が律蔵を遵守する形で運営されている場合、その作法が勝手に変えられてしまうことはあり得ない』からだ。

 栄西に学び入宋して天童如浄に嗣法した道元に如浄は「薬山の高沙弥は比丘の具足戒を受けざりしも、また仏祖正伝の仏戒を受けざりしにはあらず(*21)」と prãtimokşa によらず大乗の菩薩戒だけで受戒を済ませていることを説いた。それを根拠に道元は「この受戒の儀、かならず仏祖正伝せり。丹霞天然・薬山の高沙弥等、おなじく受持しきたれり。比丘戒をうけざる祖師あれども、この仏祖正伝菩薩戒をうけざる祖師、いまだあらず。かならず受持するなり。(*22)」こうなってくると何が仏祖正伝だかわけがわからないが中国も律蔵の扱いはさほど日本と変わらず『出家儀式を変更したとしても文句は出ない』し『多種多様な仏教教団のうちどれを正統とし、どれを邪教団とするかという判断根拠は誰も示し得ない』のである。しかしそもそも受戒が形式的なものであった以上、比丘戒 prãtimokşa であろうが菩薩戒であろうが修行者にはなにも変わらない。むしろ菩薩戒のほうがシンプルで簡素化出来るのである。道元の思想において坐禅しながら戒を瞑想し八正道と連結して縁起を観察することなどあり得ないからだ。

 それでも大乗仏教の祖師達が偉大な宗教家として多くの帰依を受けその組織は地域社会に良く呼応し成功していった。彼らにはインドの比丘のように戒と法が深層心理にサンスカーラされて相互に影響しあって修行が向上するという善業善果に向かうダイナミズムは見られないが、戒律の保持がその自主性に委ねられたからこそ自覚的に戒に生きていく仏教者であろうとする直向きさを見ることが出来る。しかしそれが祖師個人の資質に委ねられている以上、教団のシステムとして押し進められていくことはあり得なかった。インドの教団がシステマティックに比丘・比丘尼個人と僧伽の運営に大きく影響力を持ち、人間である以上当然起こす過ちによる腐敗や思想の相違による分裂を起こしながらも釈尊からイスラム侵入でナーランダーが廃墟になってしまうまで約1700年間に渡って大きく脱線せずに法を伝え続けたことに比較すれば、戒の授持が祖師と弟子達の個人の資質に大きく委ねられた日本の教団のやがては収斂されることにはなるのだが分裂や腐敗の頻度は非常に多く、また律蔵によるチェックシステムを持たない以上、仏教思想の変容と広がりは非常に幅広いように思われる。以上佐々木閑博士のご成果を引用しつつ、その要点を別資料から本稿の主旨に沿うように検証した。

三、白隠における戒*23

 それでは最後に今回の飲酒障害致死事件の舞台となった僧堂、臨済宗の中興の祖と言われる白隠の思想と戒律観を見てみよう。いきなり本題にはいるが白隠は今まで見てきた受戒→精進→悟りというインド仏教の、そして形式的ではあるものの中国、日本仏教の戒律観とはまったく逆の思想を持っている。『白隠年譜』によれば飯山正受庵で道境慧端=正受老人のもとで大悟した後に松本慧光禅院に赴いて具足戒(比丘戒 prãtimokşa の総称)を受けようとしているのだ。順序的にはまったく逆さまである。ところがその時正受老人は辞して慧光禅院に行こうとする白隠に「禅門に無相心地戒体あり、これを名付けて金剛宝戒という(*24)」といって授けたのは具足戒ではなく大乗の『無相心地戒』というものだった。『白隠年譜』によれば「師、真訣を聞きて、泣涙頂受して退く」とある。「向後、真正参禅、見性掌上を見るが如く、了々分明底の漢子を得て、必ず密に之を付せよ。如上の秘訣は、中下の輩の信受する所以にあらず。」これからは参禅して見性した弟子のみにこの戒を授けよというようなことであるが、正受は「悟り」を得た弟子のみにこの戒を授けよと言い、白隠は感激してその戒を取り入れるのである。

 これはどういう考え方かと言うと鈴木大拙の言う「般若の自発発展」である。つまり禅定によって主客未分以前の無分別智を得て一切が平等の天地ヒタ一枚の境地に出たところで生き生きと働き出す般若の智慧と慈悲である。もうこのときには修行者は仏と同じ境地になって自動的に大悲の心が働き、すなわち戒が働くという考え方なのだ。だからこの戒は必然的に衆前ではなく師家の室内で密に授けられる。白隠は「すべからく知るべし、無相心地の大戒は得ること大いに難く、奉事また容易ならず。これすなわち如来の知見にして、三世十方の調御師、この戒体を伝えんがために、願輪に乗じて、番々出世す。もし人、この戒を得んと欲せば、まずすべからく見性すべし」という。まるで法華経に説かれる仏に逢う難しさと無門閑の無字の著語を会わせたような禅的な言い回しである。ところがこれは時間的世界観を持つ仏教とは相容れない思想だ。

 仏教は開祖釈尊が縁起を順観し「これがあるからかれがある」「これがなければかれがない」と心におこる様々な事象を峻別し苦を滅して生死輪廻から解放される思想だ。だからこそインドの言語概念である世界を形成する力を持つ言葉を利用して受戒→精進→悟りという順序を踏むのは一章「仏教における戒とは何だったのか」で述べた通りである。勿論禅の言うように「悟り」の段階ではもはや概念化された言葉は必要なくなる。しかしその課程は時間的に順を追わなければ’ならない。しかし白隠はその課程を一足飛びに飛び越えようとする。一足飛びに飛び出た境地で般若の智慧が自発発展するということは当然如来蔵思想が前提となる。禅が如来蔵思想なのは前提だからそれはそれでよいのだけれど、仮に如来蔵思想を認めたとしても、隠れた如来が顕れるまでは凡夫の道徳と倫理は必要とされる。白隠自身と白隠の目が届く直下の弟子は良いとしても多種多様なその後の弟子の中には様々な人がいるのである。それをインド仏教のように教団のシステムで立ち向かう視点が決定的に欠落している。

 さらに白隠は囚われの基になるという理由で三帰依を外してしまった。これも弟子が少しでも速く「見性」して「般若の智慧」が働き出すようにという弟子への慈悲の愛情なのであろうが、それも白隠自身がちゃんと持戒し正念を相続出来ているからである。しかし仏教としては反則である。にもかかわらず白隠が禅者としてのみならず宗教家として大成し人々に慕われたのは何故だろうか?それは地獄に対する恐れであろう。白隠は子供の時に母親と一緒に風呂に入って下から音を立てて燃える釜の炎に地獄の赤鬼に焼かれる思いがして「こわい、こわい」と泣くほどの神経質な子供だったという。また若い頃には中国の巌頭和尚が強盗に虫けらのように殺された話を聞いて、修行して善業を摘んでも結局因果からは逃れられないと死って恐れおののいたと言う。これらの話は白隠の特質を語るエピソードに過ぎないのかも知れない。しかし白隠の禅画には地獄の絵があって異様な存在感を醸し出す。そして「このわろを恐るるひとは極楽へ」と添えてある。地獄を真に恐れる人こそ、始めて極楽にいけると言うのだ。白隠はどこかで真に地獄を見、それを禅で脱したのであろう。だからこそ大悲のひとであれた。柳田聖山氏は「地獄に気づいた人は少ない。しかし真に地獄を脱した人は更に少ない。まして他のために地獄にくだった人は稀である。」と言う。白隠の宗教家としての大成の要因は自己の体験によるものだ。決して隠れていた如来が顕れたからではないのだと思う。

 白隠の公案体系はその根元にインド仏教のように持戒と三十七菩提分法を組み込むとほぼ唯識説と対応する。いまはそれをこまかく述べる遑はないが、持戒と三十七菩提分法の代わりに白隠には自覚的な渾身の仏教徒であろうとする意志があった。ゆえに白隠下の臨済門の修行者にもそれが自主的に自覚的に必要なのだ。システムとしての臨済宗は他の大乗教団と比べても修行者個人の自主的な持戒と精進が必要だ。まして現代の若い人は白隠のように地獄を見た人は殆どいないだろう。建長寺の前管長宮田東ミン(王+民)の晋山式のパンフレットに次のように書いてある。

「禅というものに大慈悲心というもの --- 菩薩の願 --- がなかったならば単なる一つの智慧、単なる哲学になってしまう。禅が宗教であるのは、智慧だけではなくて、その智慧が慈悲としてはたらくからだ。」

 大慈悲心には持戒が含まれ働かなければならないことは言うまでもない。

四、おわりに

 以上随分と予定より長くなってしまったがインド仏教における律蔵の戒律 prãtimokşa (波羅提木叉) の授持が四念処や八正道などの三十七菩提分法とともに修行者の日常底に貫徹される向上の両輪であり、戒は八正道の実践として、人格の向上と形成、修行とに寸分の隙間無く組み込まれ相互に作用し向上していく体系を持っていることを確認し、明治維新以降からの仏教復興運動とその挫折、その要因として日本仏教の受容から現代までの律と戒の占める位置とインド仏教との差異を検討して、さらに今回の事件の舞台臨済宗の中興の祖と言われる白隠の戒律観を見てきた。

 我々日本仏教は明治の日本近代化の時期に僧伽を「法と律をよく保つ比丘・比丘尼」の集団として再構成するチャンスを逃してしまった。その時にそういうことが行われていれば寺院の世襲は無かったかも知れないし、仏教は「法と律をよく保つ比丘・比丘尼」の集団として現在、混迷する日本の精神的支柱たり得ていたかも知れない。しかし過ぎてしまったことをとやかく言っても過去が帰ってくるわけではない。我々自身の、あるいは先師方の悪業悪果として今の状況を我々は引き受けるしかないのである。仏教学はインド仏教にあって日本仏教にないものを明らかにしてくれた。勿論今の我々がにも過去のインド仏教にないものを持っているのかも知れない、しかしだからといって過去の先師達にそんなことを誇って今の我々の隠れ蓑してなんになろう。その我々にないものを真摯に埋めていく時が来ているのではないか。

 禅は自己否定の宗教である。ならば今の自分を否定して少しでも過去に懺悔しながら守れる戒を自覚的に持とうではないか。わたしは今臨済宗の僧として世に立っているわけではないし臨済宗と離れて久しい。ゆえに今の僧堂のありかたをとやかく批判するつもりはない。しかし僧堂で修行される方は僧堂を支えてくれる仏恩に報いることをもっと真剣に考えるべきである。僧堂の修行僧は慣習的に暗黙に了解されている般若湯をそろそろやめたらどうか。わたし自身は飲酒と肉食、夜の食事は自分自身の戒としてやめている。それでもなんの不都合は無い。むしろ戒を守ることで戒に守られる生活を楽しんでいる。どうか僧侶諸師方の熟考をお願いする次第である。

生きとし生けるものに幸がありますように。合掌

一日一チベットリンク → 中チベット騒乱1年 中国、抗議封じ込め 「デモ参加なら家族拘束」

成都(中国四川省)=尾崎実 日本経済新聞】昨年3月の「チベット騒乱」から1年を迎えた14日、中国治安当局はチベット自治区周辺のチベット族住民に「デモに参加すれば、家族全員の身柄を拘束する」と圧力をかけ、抗議行動の封じ込めを図った。 自治区に隣接した四川省甘孜(カンゼ) ...

四川省チベット族居住地で外国人の立入制限はない 朝日新聞<<

*1:一休の師僧華叟宗曇の遺頌の一句、禅で言う正念相続である。『摘水摘凍 七十七年 一機瞥転 火裡に泉を酎む』水が一滴たまると直ぐに凍る、また水が一滴たまると直ぐに凍るとように正念、正念と相続していくこと。77年の人生が一滴の水が凍るように一瞬だったという意味ではない。漢字の持つ意味の表裏はサンスクリットのように話し手の意図を文法的に特定するわけにはいかない。秋月龍ミン(王+民)老師の室内ではその正念相続も初心、発心の正念相続ではなく見性 (禅で言う悟り) していったん正念を決定したものが般若の智慧の自発発展として念念正念を相続していくことという調べであったがわたしはそれでは七十七年が対応しないことになってしまうと思う。しかし秋月老師はならば「誰が七十七年正念相続するのだ」と筆者の鼻をぐいと摘んだ。そこではっと我に返れば「火裡に泉を酎む」が生死即涅槃の断末魔の苦中楽ありで畢竟「摘水摘凍」とわたしとぴしゃりと一枚になる。禅では老師は修行者に常にそうし向けるのである。だから77年の人生が一滴の水が凍るように一瞬だったというような文学的な解釈は許されないのである。今から考えると懐かしい話だが禅者であれば分かることも単に漢字の読み手では分からないことがある。中国→日本仏教の多様化と自由な解釈の要因でもあろう。

*2: 「仏」と仏の教えとしての「法」と仏の教えを奉じる良き友としての「僧」の「三宝」に信順することで出家・在家たるを問わず仏教徒の受持しなければならない誓いのこと。現代の日本人の言語感覚で言えば初歩的な基本であるので次の段階では止揚されて修行者に消化されてしまうと考えがちであるがインドではそうではない。前述した摘水摘凍のように常に意識され念じられるのでる。

*3:この言語は聖典の暗誦の為に基本的には3通りの読誦のパターンを持つ。1のパターンは連続したサンヒター(一節全体)を語の間に休止を置かずにそのまま暗誦する。2のパターンは同じテキストをパダ(単語)ごとに区切って暗誦する。3のパターンはテキストの全てのパダ(単語)を後続のパダ(単語)とセットにし、そのセットごとに休止を入れる。その3通りをそれぞれ口に出して唱えることで、パダ(単語)結合の習慣的ルール、リエゾンの変化などで音韻論的に、形態論的に暗誦者はそれぞれに誤りがないかを検証することが出来るようになっている。

*4:「じっけ」と読むが日本における唯識学派である法相宗では「じゅって」と読みならわしている

*5:仏教的にはあくまでも一瞬一瞬に生じては滅することを繰り返しつつ持続する縁起する無常なる存在であるので永久不変の実体的な自己存在と混同されてはならないとされる。インド哲学的には認識主体としての世界外存在としての自己が常に自己反省として認識する世界内の対象である。

*6サールナートにおける初転法輪の内容、永源寺の障害致死事件等で検索してきたような読者のために仏教の基本として岩波仏教辞典から説明を要約引用しておく。『諦(satya,sacca)とは真理の意で,苦諦・集諦・滅諦・道諦という4種の真理のこと.
<苦諦>とは,迷いの生存は苦であるという真理であり,その代表として,生老病死(しょうろうびょうし)などのいわゆる四苦八苦が挙げられる.<集諦>とは,苦の生起する原因についての真理であり,その原因は,再生をもたらし,喜びと貪りをともない,ここかしこに歓喜を求める渇愛にあるとされる.<滅諦>とは,苦の止滅についての真理であり,それは,渇愛が完全に捨て去られた状態をいう.<道諦>とは,苦の止滅に到る道筋についての真理であり,正見・正思惟などのいわゆる八正道として示される.
このように,四聖諦の各項はそれぞれ,苦,苦の生起する原因,苦の止滅,そして苦の止滅への道,と呼ばれる通り,すべて<苦>に関わる問題である点,留意されるべきである.また,四聖諦説は肉体の病気を治す治病の原理にも喩えられる(雑阿含経など).すなわち,苦は病状に,集は病因に,滅は病気の回復に,道は治療に各々相当するというのである.』

*7:後の瑜伽行唯識学派の表現を使えば ?以降のテクストに用いた「深層心理」にアーラヤ識を代入すれば瑜伽行唯識学派の説となるのであるがこうした心理の変遷過程と意識され称えられた言葉が力を以て業を作っていく考え方は瑜伽行唯識学派だけのものではない。ここで述べたアーラヤ識の機能は上座仏教時代から常に意識されていたもので「幸あるお方」釈尊アーガマから了義な事項として話し手である釈尊の意図としてサンスクリット文化圏の言語的文法則に従って峻別されてきたものであろう。説一切有部では異塾、教量部や大衆部などでは種子などとして意識された。南方分別設部でも当然意識されているがそれを語るのはわたしではなく ajita さんが相応しいと思う。瑜伽行唯識学派がアーラヤ識の名称を定義をしたのは、無我を採用した仏教がインド哲学他学派との論争において、自己ではない輪廻する主体として身心の生存を司る機能とこの深層心理を統合してアーラヤ識とした点にあるので、今回述べたこの心理の変遷課程は初期から中期に書けてインド仏教全般に見られる特質と言って差し支えないと考えている。

*8:あくまでもヴィパッサナー瞑想である。宗学と仏教学を『乾屎橛』で一緒くたにする愚を犯すような方はもはやいらっしゃらないとは思う。念のために記せば釈尊は成道の朝、明星の月を見て『あっ!私が輝いている』とは断じて叫んではいないだろう。とは言っても積極的に南方への遺骨収集に出かけたこの語の発言者である山田無文老師、お人柄は素晴らくお供させていただくだけで心が平穏になった。因みに筆者は縁あって在家の方の坐禅の指導に当たらせていただくことがあるが、今現在は臨済宗の僧として立っているわけではない。師家ではないので公案を与えるようなことは無論ないが仮に師家の資格があっても公案体系による坐禅指導はしないだろう。数息観から入るところは臨済の家風に従うが数息観が身についた方には縁起の観察を指導するようにしていて、男性の場合は性欲を取り上げ、いわゆる性欲は本能ではなく本能は根本的な生存欲である生殖欲であって性欲は粘膜体験への執着であることを分別することや、脳梗塞と言う自分の悪業悪果の体験から飲酒や喫煙による悪果の観察など簡単な戒と連動させて言葉で法を選び取るヴィパッサナー瞑想の初歩を試みて、五戒を徹底できないにせよ、徹底できない事への懺悔をまず意識づけたいと考えるからである。仏教徒としての向上に眼目を置いているのでムームーと切り込んで主客未分以前の境地を直指したところで戒がなければ禅にはなっても仏教にならない。また別に皮肉のつもりは毛頭無いし他意もないが数息観だけでただ坐っているだけでなんの観察もしないというのも仏教徒としての向上という理由から時間の無駄だと思っている。

*9松原泰道師は授戒会に先だって法話を行う山本玄峰老師を憚ったに過ぎないのではとわたしは思っている。お二人は妙心寺派の管長、教学部長としてコンビでよく全国の臨済宗寺院を回った。山本玄峰老師はお酒がお好きだったが、勿論飲酒で人に迷惑をかけるような事はないし深酒もせず自制ある飲み方をされた。「仏教は禁酒ではないのですか」という質問には「ワシのはキンシュはキンシュでも近酒じゃ」などと言われていた。法嗣の中川宗淵老師もお酒が好きで、臨済門では無きに等しい不飲酒の戒を自主的に守られ、酒もタバコも斥けた秋月龍ミン(王+民)老師に「秋月先生公案じゃ」などと言って「ウヰスキーを飲んでいるのでは無く龍澤寺の美味しい水を味わうためにウヰスキーを舐めるんじゃ」などと仰ったという。秋月老師は苦々しくも「禅の達人だ」などと仰っていたが、禅では達人かも知れないが仏教から見れば単なる破戒の悪業である。かくいうわたしもそうだったが臨済宗の僧侶が飲酒に対してまったく寛容で開き直っているように見えるのはこのお二人の高僧の姿が心に熏習してしまっていると言えるのではないかとも思う。今回の事件は仏教としてみれば臨済の宗門としてその悪業の悪果として得た僧堂で起こった障害致死事件であると言ってなんら差し支えない。

*10:今現在明らかになっている律は次の6つである。授持グループと『名称』戒 ( prãtimokşa ) の条項数を上げておく。南方分別説部『パーリ律』227、法蔵部『四分律』250、化地部『五分律』251、説一切有部『十誦律』263と257の2バージョン、大衆部『摩訶僧祗律』218、根本説一切有部チベット仏教『根本説一切有部律』漢訳247 チベット258 サンスクリット写本も有り

*11:佐々木教授ご自身の注釈:日本における仏教戒律の扱いに関しては石田瑞麿『日本仏教における戒律の研究』仏教書林中山書房、1963年、asin:B000JAESFE 同『日本仏教史』(岩波全書)、1984年、参照。

*12:本文中に前述したが律文献やアヴァダーナ文献、あるいは説一切有部の『大毘婆沙論 (Abhidharma-mahãvibhãşã-śãstra) 』などに頻出する良い比丘・比丘尼に形容される句。しかし「法と律をよく保つ」のはインドの修行生活ではあたりまえのことであった。用例としては「法と律を保たない比丘」への対置でつかわれるよりも、むしろ「法と律をよく保つ比丘」でも因果の法則や、前世の悪業の果は受けなければならいないというような文脈で使われる。釈尊ですらデーヴァダッタに命を狙われるのは前世の業の結果だとされた←Divyãvadãna

*13:釈定光の人と信仰については 秋月龍ミン著作集2『はじめに大悲ありき』 asin:B000J8QQMO 第四部を参照されたい。

*14:明治20年5月、傑僧として名高い釈雲照により開山。本尊は大日如来、脇立ちは不動明王愛染明王臨済宗の師家・釈戒光は第三世

*15:釈雲照は、幕末から明治初期の混乱の中で真言宗の基礎を確立した。明治20年(1887)、東京目白に戒律学校(目白僧園)を設立し、僧侶の教育に努める一方、仏教・儒教神道の三教に一貫する精神をもって、国民の道徳教育に尽力した。また山県有朋伊藤博文大隈重信、沢柳政太郎など、明治の元勲や学者、財界人が帰依し教えを請うた。草繋 全宜『雲照大和上伝 (1961年)』大覚寺 asin:B000JAL9TW

*16:明治文学全集 87 『福田行誡, 吉田久一』筑摩書房 1969 asin:4480103872

*17河口慧海チベット旅行記』〈上〉asin:4560073724〈下〉asin:4560073732 白水uブックス 2004 〈上〉〈下〉

*18:近代日本とインドとを結び、仏教復興のきっかけを作ったのが、無名の講釈師野口復堂と、アメリカ人のオカルティストだったというところから講談調の軽妙なタッチで始まる ajita さんこと佐藤哲朗氏の『大アジア思想活劇』サンガ asin:4901679953 近代日本のもうひとつの仏教史として非常に豊富な内容を持っている。未読の方は是非読まれることをお薦めしたい。

*19:十重禁戒
快意殺生(けいせっしょう)戒、劫盗人物(こうとうにんもつ)戒、無慈行欲(むじぎょうよく)戒、故心妄語(こしんもうご)戒、酤酒生罪(こしゅしょうざい)戒、談他過失(だんたかしつ)戒、自讃毀他(じさんきた)戒、慳生毀辱(けんしょうきにく)戒、瞋不受謝(しんふじゅしゃ)戒、毀謗三宝(きほうさんぼう)戒 

*20:八斎戒
1.不殺生、2.不偸盗、3.不淫、4.不妄語、5.不飲酒、6.歌舞音曲、華麗な衣着の禁止、7.高い安楽な寝具の使用禁止、8.非時の断食

*21道元正法眼蔵』「受戒」

*22道元正法眼蔵』「受戒」なお古田紹欽博士が受戒の問題を思想史として取り上げられている。古田紹欽『日本仏教思想史の諸問題』春秋社 1964 asin:B000JAG1OK

*23:この章のエピソードは記憶にたよりながらも一部は前掲秋月書第二部第三章「白隠禅の本質)を資料として利用した。ただし同じ事象に対するスタンスは筆者とは正反対である。興味を持たれ方は参照されたい

*24白隠『寒山詩闡提記聞』