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従軍慰安婦の問題は女性蔑視や貧困による性奴隷の視点ではなく、国家権力を守るために強制的に国民を徴用する暴力=戦争の問題を視点にするべきである

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★写真は映画 ”Devdas ” で高級娼婦 Chandramukhi 役を演じたインドの人気女優 Madhuri Dixit 。こ映画は親の軋轢から結婚が不可能になった男女 Devdas 、Paroのあまりに非人情な物語。愛する Paro を他の男へ嫁に出された Devdas は悲嘆に暮れて高級娼婦 Chandramukhi の館に入り浸り酒に溺れていく。この物語はまるでヌーベルバーグが現実を突きつけて救いが無いのをはるかに超えてまったく救いが無い。はじめから不可能であった希望や夢が、ただひたすら、最後まで不可能なことして描かれる。恐るべき無情さ、残酷さ、非人情。ラスト、主人公の Devdas は飲みすぎから重篤な病に侵され死んでいく。そのような無慈悲な非人情を娼婦という非人情が対峙していくさまが、光と色彩の踊る究極の美的構図の上に描がかれる、まるで大乗経典の映像化だ。
というわけで写真は本文とは直接関係ありません。

はじめに

体調のために家でおとなしくしていたので先日の投稿に金 玉蘭 さんからいただいた「最近山崎洋子の花園の迷宮、赤い崖の女を読みました。日本には売春の長い歴史があるのですね。貧しいがゆえに売られていく女たちの歴史が日本の男尊女卑の基本になっています。」というコメントへの返信を考えていたら殊の外長文になってしまった。

そこで1、にまず社会制度や性道徳によって変化してきた売春の定義を明らかにし 2、で日本と韓国の売春の歴史と社会からの受容を論じ、3、結論として従軍慰安婦問題は戦争の問題を視点にするべきであることを論じた。

1、売春、人類最古の人間的なあまりに人間的なもの

 
 釈迦の入滅を描くマハーパリニッバーナ経に高級娼婦のアンバパーリーが自らの園林の館に釈迦一行を招きもてなすシーンが出てくる。

 南伝 "マハーヴァッガ(パーリ律蔵)" によればアンバパーリーは、遠くの町にまで名声が伝わっていた遊女で、美貌と容姿、魅力に恵まれ、他にも踊りや歌、音楽も巧み、当然言い寄る客が引けを取らずとなって舞台等で莫大な稼ぎを得て、貨幣経済の一翼を担い商業都市の発展に寄与していたという。

 やがて彼女は園林を釈迦の教団に寄進し自らも比丘尼となるが、出自となる古代のインド文献には現代の人たちが売春を眺める様な賎視されたような印象はない。この時代のインドではセックスに対しては非常におおらかだったことがうかがえる。

マハーヴァッガ(パーリ律蔵)には次の様なエピソードが出てくる。

ある時、ラジャーグリハで出家したスンダラという修行僧が道を歩いていると一女性が「大徳、ちょっと立ち止まって敬礼をさせて下さい」といって彼に礼を捧げつつ、衣をめくって彼のペニスを咥えた。

ある時、ひとりの出家修行者が、バッデヤの林にて昼寝をしていた。
彼のペニスは風揺られて勃起していた。ひとりの女性がそれを見つけ、勝手にまたがって性交をして去った。

ある時、ラージャグリハにスパッバーという名の信心深い女性在家信者がいた。彼女は「性交をしてさしあげるのが最高の布施である」と信じていた。
彼女は出家修行者に性交を申しでるが、修行者は「それは許されていない」といって断る。そこで彼女は「私の身体に触れるだけなら、師の教えに背かない」といって、胸やへそ、腰や首、耳の穴や、指の間に触らせようとするが、修行者は断る。
そこで彼女は「では、修行者は動かないで下さい。私が手でいかしてあげますから。それなら師の教えに背かないでしょう」といって、手で射精させた。

と、まぁこんな具合。マハーヴァッガには釈迦が菩提樹の下で悟りに至ってから、仏教教団が成立する迄の経緯が書かれ、その中でこうしたことが起きた時に釈迦がどうジャッジしたかということが書かれているが、逆に言えばこうしたことが度々おこり仏教教団が対応を迫られたことを示唆している。だから売春婦は仏教教団にとって僧団が惑わされる危惧は持たれていたものの人間として軽蔑すべきものとしてはみられてはおらず在俗の他の職業との間に差別的な見方はなかったと言えると思う。
 
 その売春について国学院大学教授の宮元啓一博士は売春は最も古い職業の一つでありもっとも人間的であるものと言う。

『売春、この人間的なるもの

 売春は自然界の種の保存欲という本能を超えて人間の本性に根ざす。性欲は種の保存欲に根ざした性衝動から起こるがこれは動物も人間も変わりが無い。これが自然でありこれにともなう喜怒哀楽などの諸々の感情、人情も自然に忠実なだけにすぎない。感情が豊かな人をよく人間的であるというがそれはその人が動物性という自らの自然に忠実なだけであって人間的というのは間違いなのだ。

 これに対して売春は種の保存のためのように発情したり恋心など喜怒哀楽などの諸々の感情、人情を起こしていては商売は成り立たない。性衝動を起こして性行為の相手を求める客たちの自然を手玉にとることで商売をする。

 自然を手玉にとるということは自然を超越するということである。自然に埋没するのではなく自然を対象としてみるのである。ゆえに売春とはメタ自然行為であり動物としての自然を超える。これができるのは人間だけであり、だからこそ売春は人間の本性に深く根ざししてるのであり、これほど人間的な商売はない。

そして
哲学、この人間的なるもの
へ続く。

宮元啓一著 "インド哲学七つの難問" の前書きから要約』

 宮元博士の言葉を借りれば "非人情" こそもっとも人間的な営みであることになる。売春に続けて博士は哲学もそうであることを語る。ニーチェが "人間的な、あまりにも人間的な" として形而上学から道徳まで、あるいは宗教から性までの多彩な主題をアフォリズム集にまとめたことは紀元前のインド、ウッダーラカ・アールニ、ヤージニャ・ヴァルキア、ゴータマ・ブッダの時代からすでに意識されていたことなのだ。

2、売春、貧困ゆえの性奴隷は貧困ゆえの軍事奴隷とどう違うのか

 なんで長々とこんなことを書いたかというと売春はその成立している社会制度、性道徳によって人々の見方が変わっていくということを思い切り古代までさかのぼって言いたかったからである。現代の価値観からみると売春は貧困ゆえの性奴隷として見られることが多いし、人権、男女平等という今の価値からみれば当然のことだと思う。しかしかし過去の時代の売春を、その売春のみ取り上げて非難することはあまり意味の無いことだと考えている。

 先日の投稿に金 玉蘭 さんから「最近山崎洋子の花園の迷宮、赤い崖の女を読みました。日本には売春の長い歴史があるのですね。貧しいがゆえに売られていく女たちの歴史が日本の男尊女卑の基本になっています。」というコメントをいただいた。

 僕は日本の売春の歴史はあまり詳しくないがちょっと調べてみた。とりあえず Wiki Pedia。大きな反論や異論が挟まれた状態では無いので概略は信頼して良さそうで、どうやら10世紀頃から始まり13世紀には完全に日本社会の構成要素になっている。10世紀頃の初期売春では売春婦はインドの高級娼婦のように上流階級の男性がその主たる客で彼女たちには音楽や舞踊、教養も要求されたらしい。そして貨幣経済が発達し庶民が貨幣を所持する様になると定着していくが、いわゆる貧困による性奴隷としての娼婦が高級娼婦と並行して存在する様になる。

 貨幣経済の発達とともに娼婦の数は飛躍的に増えていくものの日本社会では下賤しい職業として軽蔑されるようになっていく。このあたりが金さんが言われる「売られていく女たちの歴史が日本の男尊女卑の基本になっています」というところに繋がるのだろうか。

 ついでなので朝鮮の売春の歴史も調べてみた。驚くことに日本よりはるかに古くから行われており、その問題意識は先に挙げたインド社会の様に尊敬する人や上席の人への捧げ物として行われている。当時の宗主国である中国へは男色を好む中国官僚もいたと思われ、朝鮮の売春婦は、女性だけでなく男性も含む混性チームが貢ぎ物として定期的に献上されている。

 そしていわゆる第二次大戦時の従軍慰安婦。日本の娼婦が国内で売春に従事し年齢層にも幅があったのとちがい若くて性的に未経験な女性が多かった様だがこれは簡単に貧困による性奴隷という想像がつく。しかし韓国は儒教のせいか男尊女卑の傾向は強いのだろうか?戦後の日本は積極的に売春を非合法化してなくす方向に向かったのに対し、韓国は朝鮮戦争の在韓米軍、そしてベトナム戦争の韓国軍のためと積極的に従軍慰安婦部隊を組織していく。

 日本軍の慰安所慰安婦の組織が国や軍によるものではなく軍属及び結んだ民間が自発的に行ったのと違い、韓国の同施設、同組織は国は直接行った。だからといって日本政府や日本軍の責任が問われないということではない。慰安婦徴用だけでなく日本には朝鮮人への日本姓日本語強制とか、南京での食料強奪ついでに強姦とか、下層の人々が教育勅語に定められたように陛下の子になる誓いを立てれば人間として認めてもらうという条件と引き換えに、国や政府や軍が命令しなくても国のために、勝手に自主的にやるという明治以来の「美しい」伝統がある。

 御用学者や東京裁判史観を見直すという人々が言う様にこれら国民の自主的行動は当然のように政府文書が残っていないのではあるが、それは教育勅語の成果であり政府が命令したこととその実質はなんら変わらない。しかし韓国にはそういう制度はない。ただし第二次大戦の従軍慰安婦徴用に朝鮮人の民間人が活躍したのは、当時の朝鮮人は日本国民であり教育勅語に定められたように日本の陛下の子になる誓いを立てれば人間として認めてもらう条件は日本の下層の人たちとまったく同様だったからなのである。

 そして日本の教育勅語から解放された韓国人は朝鮮併合以前の宗主国中国を見つめる朝鮮人の意識に戻るのだ。ある意味韓国の指導層の男性達にとって性の道具としての女性はなくてはならないものと考えられているのではないだろうか?所詮50歩100歩ですが日本もそうだとは思いますが韓国より20年くらいは早く欧米先進国を習おうとしているようにみえます。そうした男性達の無意識の風潮に敢然と立ち向かった女性が現大統領の朴槿恵(パク・クネ)で大統領府報道官をセクハラ疑惑で更迭した事件は記憶に新しい。

3、従軍慰安婦問題は戦争の問題を視点にするべきである

 こういう書き方をすると、従軍慰安婦ってだからなに?って印象になってしまうと思うけれど別にその問題を否定しようとかいうつもりはない。むしろ第二次大戦時の従軍慰安婦が貧困による性奴隷という定義で時の国家権力を断罪するなら第二次大戦時に従軍した日本兵はどうなのか?その死者数220万人。あるいは50万〜100万と言われる民間人は?全てとは断罪できないけれど兵士の中には貧困ゆえに最前線に送られなければならなかった方は多い。兵士220万人、民間の50万〜100万人には当然朝鮮人も含まれる。祖国に残る両親のために積極的に日本軍に志願し前線で亡くなった方もたくさんいるはずである。まして貧困ゆえに疎開もできずに亡くなった民間人もどれほどいたのだろう。従軍慰安婦の問題はこうした問題と変わらないと僕は考えている。

 なぜなら第二次大戦時の従軍慰安婦の時代、日本では娼婦は下賤と考えられていたが朝鮮では貢ぎ物という潜在意識もあった。そして両国とも男尊女卑の社会でありそれが社会規範として流通していて悪いものとは考えられていなかった。ゆえにその時代の売春だけを取り上げて今の男女平等共同参画の視点から責任を追及するのは法の不遡及に等しい行為だと思う。むしろ戦争への反省、そして男女不平等への反省として問題にするべきだと思う。その根本的な要素は国家が国民を守るためではなく国家を守らせるために国民を強制的に徴用した戦争にあると考えるからである。