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A fulfilled life - Jean Michel Kaneko Photograhie

知足是福。音楽家・演奏会の写真がメインのカメラマン、公開OKの作品は掲載中。IT企業役員、趣味で料理の YouTuber、趣味は仕事と同様大切でロードバイクと料理とワインフリーク。

お家没落して ”雅” 残る

明治の仏家近代化に見える優雅と荘厳と

雅 - 舞う経正

雅 - 舞う 経正 祖父の住職した寺のイベントにて:K10D + smc-PENTAX FA☆ 80 - 200mm F2.8

 通夜、告別式と叔父の弔いの法会に参列して、もちろん従兄弟、従姉妹達や健在の叔父叔母たちとの昔話に花が咲くの当然ではあるのだが、僕はその中に一本芯が通った母方の祖母(故人)の亡霊のようなものを今回は強く意識せざるを得なかった。というのも叔父の霊に回向供養して先師先仏の来到道場を請う僧侶団の副導師を務めた従兄の僧のあまりにも雅で幽玄な立ち振る舞いと声明の美声が感動的ですらあったからだ。もともと彼の立ち振る舞いは群を抜いていてわが一族の属する伝統教団の家風とは一線を画する道元の教団のような趣がある。一つ一つの動作が端正で的確で規律正しく美しく、優雅とでも言って良い立ち振る舞いを伝統とするのはその開祖道元が皇室の出であることと無関係ではないだろうが、祖母の求め描いた法会とはこのようなものであったのだ。だがしかし、それは祖母の存命中には決して具現化されたことはない。

 そしてその立ち振る舞いに貴族社会に感銘を与えたた天台譲りの声明が加われば地域コミュニティーの調停者として期待される僧侶の振るまいとして日本ではこれ以上のものは望むべくもないと思うのだ。その優雅こそ武家出身の祖母が明治政府成立に貢献した一部の武家が侯爵家という位に昇りつつ家風に取り込んでいったことに対して憧憬の念を抱き、仏家に嫁ぎながらも、わが家風に注ぎ込もうとしたものであった。逆には公家や宮家の没落をも目の当たりにした祖母は侯爵家の優雅だ’けでなく本来己の血に流れる武家の実質剛健をお家造りの両輪に据えたのである。亡くなった叔父はお国の名前を冠した通信機器のメーカーを定年まで勤めあげたわけだけれど、戦後社長を務めることになる小林宏泊博士の「会社には彼が必要だ」という軍への要請の一言で兵役を途中で免れ帰国して戦中からお国のために通信機器の開発に携わった人だ。軍にとって欧米列強を凌ぐ通信機器が必要だったことは論を待たないのだがそこに着目した祖母の視点は武家婦人としてお家を築こうとした面目躍如たるものがある。

告別の儀

告別の儀 : M6 + SUMMICRON M35mm F2.0 Kodak Professional ULTRA COLOR 400UC

 加賀百万石前田家の番頭三輪家の嫡子であった祖母が富山の薬問屋で財を成した叔父(故人)の両親へ次女である僕の叔母の嫁ぎ先に是非と請うて両家の婚姻は成立した。叔父の父親は東京に薬の行商に来ると祖父が住職する寺を拠点にして商いをした。愛国婦人会の運動を率先した祖母ではあったものの戦争による悲劇から家を守りたいのは当然で、婦人会の他の方には兵役の名誉も戦死の名誉も語りつつ、どこか自分には侯爵家のようなエリート意識があってなにも戦争で死ぬことはないと考えていたのだろうと思う。こども心に僕の記憶に残る決して奢ったり嫌みではない祖母の物言いや態度でもそれは窺い知ることが出来るのだ。その祖母がおだやかな性格の次女の嫁ぎ先に通信技術者の叔父を選んだのも彼なら戦時という時代に翻弄されることなく家庭が築けると確信したのに他ならない。そして軒を貸す商人の息子ならその築く家庭は自らの家長的仏家家族に組み込むことが出来ると考えたのだろう。祖母の嫡子、つまり僕にとっての叔父叔母は末娘の母をいれて三男四女の七人で大正から昭和初期の家庭としてはそれほど子沢山というほどのものではないと言える。

 むしろ祖母にとって子沢山は庶民の採るべき選択で自分は武士から公爵位に上った家柄のように子は跡取りとお家の繁栄に必要な頭数だけでよいと考えていたのではないか。そしてそのために巧みなほどに子供たちの縁談をうまくまとめあげている。一番上の長女は歯科医(故人)に嫁ぎ、彼は後年東京の医科歯科大学の理事長に登るとともに祖父に続いて勲三等旭日中綬章を下賜されている。彼は鎌倉に家を建て長女である妻と祖母のために茶室を造った。ドイツ的剛健主義を好む彼の一族は明治仏家の威儀を嫌ったが彼は出身の一族と縁を切ることで祖母に応えている。祖母は時折訪れる鎌倉の茶室の四季をことのほか愛した。いくつも和歌を詠み今は無人になってしまった鎌倉の邸には祖母直筆の歌がいくつも残されている。そして次女が今回逝去した叔父のところへ。三番目の長男は当然寺の跡取りにと、祖父が建学の一翼を担った仏教系大学の付属女学校を主席で卒業した才媛、しかも経済的にも申し分のない呉服問屋の一人娘(彼女には弟が一人だった)をあてがった。

山門

山門 : M6 + SUMMICRON M35mm F2.0 Kodak Professional BW400CN

 次男は岩崎家有縁の嫁を貰い GHQ財閥解体によって解散の憂き目にあいながらも三菱の再興を担いその後研究職についた。その資金力と地位、政治力は寺の重文指定とその後の復興に大いに貢献する。その後の兄弟の結婚は戦後になる。ちなみに記せば三女は国会図書館に勤務し国家公務員としては初の女性管理職となったキャリアレディーの先駆けである。しかし両親よりより先逝してしまったことはある意味親不孝で彼女の死後祖母は大いに老け、弱ることになる。しかし葬儀には時の内閣総理大臣から使いと弔文が届き祖母はそのことをいつまでも自慢した。三男(故人)は東京帝国大学に進み卒業が東京大学で一時学生運動で逮捕されるなど祖母にとっては悩みの種だったが成人後は経済的にも家に良く尽くし僧籍にも入って祖母は祖父の後継にと考える程になった。それはロシアに抑留された長男の復員が祖母の目論見を崩すことになったからに他ならないが祖母の規範的な家風と優雅への強い憧れはその後も良くも悪くも強く押し進められた。

 寺の調度品は規範的で食器から食膳、ご不浄の手ぬぐい掛けや手ぬぐいの折り方、丁場の硯と墨と文鎮までが実質剛健な規範的なものだった。にも関わらず物腰と威儀には優雅が求められ毎年正月の二日には親戚が寺の客間一堂に会し、山内の敷地に住む婦人たちが下女宜しく料理をつくり奉仕をした。寿司職人やおでんの屋台も呼ばれ親戚の、われわれのような子供たちにも振舞われた。祖母は正月集まる子供たちに羽子板や蹴鞠で遊ぶよう奨励した。親たちは「おばあさまのご提案に従いなさい」と子供達をし向けたが、しかし悲しいかな羽子板まではなんとかなるものの蹴鞠など幼い頃からの教育と躾がない僕たちにはまったく歯が立たなかった。それでもそれを見る祖母は楽しそうで満足そうだった。

 だから祖母がこうして自分で計画して作り上げた実質剛健な家風に優雅はいつも遅れてついて廻ったと言える。その優雅を持ち込む役割を与えられたのが長女の婿の歯科医と今回亡くなった叔父の妻になった次女、そして僕の父(故人)だった。いまでも寺の奥に現存される祖父と祖母の方丈には父が勲三等旭日中綬章を記念して描き上納した身延山管主という祖師位に昇った祖父の師匠が陛下から下賜されたという紫衣をまとった唇を真一文字に結び、それでいて頬右の黒子に覆い被るような靨ではにかむ祖父の肖像画が掲げられている。父は大正生まれのわずか12歳で得度した僧であったが旧家出身で郵政省の官僚に嫁いだ姉から徹底的に雅を教育され多額の援助を受けて日本画奥村土牛の薫陶も受けた、歌舞伎座梨園の贈答品やお土産に使われる羽子板の原画や手ぬぐいの絵も描く雪舟に心を寄せるアルチザンでもあった。その父が四女つまり僕の母の婿としてこの家に入り祖母と次女に習字と絵の手ほどきをした。次女はその後書画の技量を活かし生け花小原流の師範となる。祖父はこの寺のほかに維新までは大学として機能した壇林寺の山主も勤めており、父はその叡山を模して配置された鐘楼や鼓楼などの重要文化財復興の図なども描き、祖母が達者な頃は父の絵と叔母の四季折々の華が寺の各所を荘厳した。

能に押し寄せた人々

鼓楼と能に押し寄せた人々 : M6 + SUMMICRON M35mm F2.0 Kodak Professional BW400CN

 春には今上陛下が皇太子のご時分に、境内から少し外れるものの寺領のうちに水戸光圀公が巡視の際にお休みなった小屋跡にお手植えになった桜の満開を、また一族で愛でた。赤い布で覆われた縁台が用意され、大人達はまわりに花咲く花の名称や遠く聞こえる小鳥のさえずりから鳥の名称をそれぞれが口に出して和やかに「おばあさま」に申し上げ、にこやかに微笑む祖母とそれらを季語に俳句を詠んだ。採点は勿論祖母である。子供だちは茶菓子を頬張り、男達は酒を酌み交わし都々逸を口にした。秋には一族で歌舞伎座の枡席に出かけ一喜一憂喝采した。そして祖父が勲三等旭日中綬章を陛下より下賜されたときが祖母の絶頂期だったころだと思う。祖父について晴れて夫婦揃って陛下に拝謁し歩み出でたわが「おばあさま」の歓喜に震える晴れやかな胸の高鳴りは如何ばかりであったのだろうか。祖父は立派な人だし学者だったが家の中ではあくまでも法華経釈尊の位置にいた。シャリープトラの位置にいながら家を荘厳し善男善女・大衆をまとめて歩む先頭にいるのは祖母だった。祖父をそのように歩ませたのは祖母の計画性と意志と行動力の功績に他ならない。

 祖母の築いた家庭を基盤にその功に依拠しながら祖父は手始めに火葬業を展開し、恩師から託された大学に女子部の高等科と中等科を建学した。そこにはキリスト教に遅れをとった仏教の女子教育への執念が噴出しているかのようだ。そして祖父が想定する育成されるべき婦人は祖母のような人ではなかったか。僕がまだ若き希望に燃えた禅僧だった頃、既に他界はしていたものの祖父の学校を短大まで終了して幼稚園の先生になった女性と偶然にも仕事をともにしたことがある。僕よりいくつか若かった彼女は日差しの透過する光り輝く項を美しくさり気なく見せることの出来る魅力的な女性だった。にもかかわらず存在感のある腰つきが快活さと清潔さを持ち合わせていることを表現していたし、周囲への気遣いと優しさは逞しさに裏打ちされてとてもおおらかに思えた。ところが当時の僕にはその彼女の美しさと優しさと逞しさのアンバランスさがまどろっこしくて仕方が無く、むしろ当時は毛嫌いしていたわが一族の婦人の資質を備えた彼女を不必要なまでに避けてしまってなんのアプローチもせずそのまま何事もなく終わってしまった。いまから思えば彼女のあの人格こそ若き祖母そのものだったように思えてならないし、むやみに避けたのは恋の裏返しであったようにさえ思えてくる。祖父はさらに宗門にとっても重要な壇林寺院の復興も成し遂げている。祖父にそのようにさせた祖母にとっては法華経如来寿量品のように全てが荘厳され優雅でなければならないのだ。平安貴族の子女達の法華経を説く叡山の法師にエロティックに酔いその世界を希求するのが平安の婦人のドラスティックさなら、江戸末期の武家の子女たる祖母は法華経の荘厳さをドラスティックに希求して明治・大正・昭和を生き抜いたに違いない。

歴代祖師廟

歴代祖師廟 : : M6 + SUMMICRON M35mm F2.0 Kodak Professional BW400CN

 まるで女帝のような人だったがそれでいて祖母はまた充分社交的な人でもあった。母によれば寺はいつも多くの客で賑わいその中には軍政府への批判も公然と語るものもいたそうだ。どんな人たちも祖母は分け隔てなく接しよく話を聞いたと言う。その中には実際のところは強制連行に等しい形で日本にやってきた朝鮮の婦人たちもいたという。朝鮮の婦人達も誰にも分け隔てなく上品な物腰で接し振る舞い施し、悩みも聴いてくれる祖母を慕って訪れたらしい。トッポギと呼ばれる半島のお餅をお土産に良くいただいたそうだが祖母が美味しそうに食べるのに小学生だった母は気持ちが悪くて食べられなかったそうだ。食べない母を祖母は決して叱ったりはしなかったがここに一つ面白い事実が見え隠れする。母は学校や地域の共同体で朝鮮人差別の洗礼を受けそれを子供ながらに実践していたということになるのだが当時の上流階級に属すると言える婦人である祖母は朝鮮人を差別はしてはいなかったのだ。しかし叱らないと言うことは大衆の朝鮮人差別を見過ごし認めていたことになる。軍の幹部の半島で傍若無人に振る舞う兵士に対する態度もこのようなものではなかったのだろうか。

 また祖母はデパートでの買い物や外食が好きで執事にフォードを運転させては三越高島屋に出かけ、まだ子供だった母や三男の叔父を放ったらかして買い物を楽しんだそうだ。僕の一家は山内の、元は祖母の避暑用の別低に住んでいたが晩年に縁側でうららかな午後の日差しを浴びながら、それでも毅然と扇子で自らを扇ぐ祖母が、まだフォードが珍しくて、しかも道が悪くスピードが遅いので貧しい家の子供達が珍しがって追いかけてきたと僕に自慢げ話してくれたことがある。それでもその話し方に嫌みはなくとても上品だったのが記憶に焼き付いている。晩年は祖父の運転手にプリンス自動車のグロリアを運転させて良くで出かけていた。壇林寺に行くのも歌舞伎座に行くのもこの自動車だった。小さかった僕も祖母とともに運転手を待たせて日本橋の宮川でよく鰻を食べた。林美智子がこの店の常連だったと祖母は語った。林は貧乏が過ぎて作家として売れてからは鰻を食べすぎて肥ってしまった。出自は大切なのだと幼い僕に「おばあさま」は優しく上品に語った。帰りに祖母は必ずお土産を焼かせて山内に住む先述した婦人達への気遣いとした。この感覚は寺の婦人というよりも公爵家の婦人の感覚であるように思う。

雅 - 舞う経正

雅 - 舞う経正 祖父の住職した寺のイベントにて:K10D + smc-PENTAX FA☆ 80 - 200mm F2.8

 いまから考えれば仏家である寺がこのような貴族的な家風を持つなどまったく馬鹿げた話に思われるが、こんなことが三女である叔母が亡くなり祖母が病床についてしまう昭和40年頃まで行われていたのである。明治維新とともに廃仏毀釈で野に放たれた仏教が、天皇を頂点とする新たな律令国家の選民意識の道徳令の元、今一度信仰の自由を勝ち取り急速な国家近代化の中での知識人不足に乗じて、知識人を提供しながら再び復興していくプロセスでこうした家風が鎌倉仏教仏家にもたらされたのではないかと僕は思っている。明治、大正の考え方はこれで当然だったのだ。ここに遠く栗落つる海の果てまでやってきた仏教の適者生存のバイタリティーを見た思いがする。仏家がこういう形で仏教と関わっていることを、こういうパラダイムから記述することを若い頃の僕は反吐が出るほど嫌だった。そこにはこういう一族から飛び出して禅に仏教の範を求めようとした僕がいる。しかしここから今一歩踏み込んでこうして膨れあがってきた文化としての仏教を今一度よく見つめて解体しその功罪を明らかにしていくことも必要なことではないかと最近は思い始めている。

 亡き父も祖父と祖母の逝去後は一族寄り添って住んでいた山内を出た。祖母の目指した世界は近いようで今のわれわれの感覚とは大いに隔たりがあると言える。そして今、うちの親族にこのような栄華さはない。ただ唯一、従兄の僧の威儀と立ち振る舞いに祖母の求めた優雅さが垣間見え日本近代化を担ったバイタリティーの意識の古層は郷に隠れ密かに息づいているかに見える。そういう意味では祖母が求め一時は実現したお家は既に崩壊してしまっていると言ってよい。だからといってみんな食うに困っているわけではないしむしろ普通に恵まれた生活はしている。ただ時代が変わったと言うしかないのだろうか。昨今の天皇家の軋轢など祖母が生きていたらなんと言うだろうか?そろそろ生々しい明治、大正、昭和にメスを入れるときがやってきたのかも知れない。日本近代化の意識の古層に。今回亡くなった叔父は祖母の優雅を支えた最後の一人となった。そして祖母を中心に先達たちのいる世界へと旅立つ。導師の引導が耳に心にしっかり残っている。この法華経は三途の川においても灯となり明かりとなるであろう。閻魔大王に逢ても日蓮が弟子旦那であると宣言してそこを渡れ!と。こんな戯曲めいた物語が叔父の死とともに終焉に向かっていく。記憶にあるうちに考えなければと思う。

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