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単位未履修問題雑感

結局教育現場の自覚しかないんじゃないかと思う

 単位未履修問題があれよあれよという間に増幅している。犀の角の一端でいたい(自爆)拙にとって世の中の出来事は 鮎川さんtenjin95 さん、木走さん のところをサラッと見てまわるくらいなのだがその 木走さん のところを見てもなかなかどうして世のメディアは指導要領や大学入試の見直しを主張しているらしい(笑)。それに対して木走さんは『組織論としても現場最高裁量権限者である学校長の責任はもっと厳しく追及されるべき』とメディアと違う視点から手厳しく批判をされている。実際のところどうなんでしょうかねぇ。教育が国家の利益に限定されて、かつそれが個人の自己実現願望と大きくラップして現在の教育という文化を膨らませているのだからしょうがないか?まさしく文化が人情の集大成であることがよく分かる。国家の利益は人情を排して論理的に機能するが、主権在民・民主主義はその国家の利益とまるで合致しているような価値として提供されて、個人がそこに自分の自己実現を重ね合わせるのが西欧型の人間主義ヒューマニズム型の民主主義なのだ。まさしく神の呪縛から自由になった近代精神がかたちづくることになった人情中心主義の賜とでも言えようか。

 ところが如何に国家利益に限定された教育であっても、否むしろ国家の利益追求が人情を排する論理であるだけにその国家の舵を取るようになる頭脳や教養も、反対に彼らを監視する知性も、かつて我々の祖先が動物から言葉をもって立ち上がったように、人情に左右されない「人間的なあまりに人間的な(カント)」論理が貫ける教養と知性を目指した教育が行われれるべきだろう。ならば少なくとも中等教育はそうした誰かの利益には左右されないという意味での純粋培養の教養の基礎を担わなければならない。いつも悪口を言っていてこんな時ばかりで恐縮なのだが某教員組合こそそうした国家に左右されない中等教育を担うことに立ち向かえる存在ではないのか?日の丸に背を向けるのも結構だがもっと本質的な教育の現場においてその教育の内容で国家と闘えないものなのだろうか?国家と闘う教育とはなにも日の丸や自衛隊批判ばかりではないのである。それは主権在民・民主主義の上に重ね合わされた人情たる自己実現の非論理性を純粋培養された教養と論理で明らかにしながら生徒に自分の頭で考えさせることのように思うのである。そういうとちょっと固い言い回しなんだけど、ようするに自分の思うようにならなくてもそれに拘らずに思うようにならない自分と社会をちゃんと受け入れられて、それでも努力を諦めない若者へと導くこと。まぁ難しいのはわかるよ。こちとらだってそれが大学で思うように出来ているわけではないし・・・

 そんなことを考えながらうちのサイトをアンテナ登録してくださっている MagiBlog! ver.3.0 さんを見ていたらホッとするような記事が出ていた。どうもここの管理人さんは高校の世界史の先生らしい。あたりまえのことが書いてあるんだけど以下の部分にすごく共感。そして頑張って!とエールを送りたい。

教養が滅んで久しいらしい。勿論、高校ごときで教養などと言う声もあるだろう。それは甘受する。しかし、教養を培う上での基礎は中等教育にこそある。私は教科書を繰り返し読み込み、歴史を興味を持ち、好きになった人間である。田中芳樹のように学校における歴史教育に絶望はしていないし、また彼の誹謗に近い批判に対しては、「それは教師に問題があったからで、歴史教育そのものではない」と私は反論する。

歴史は過去、庶民の娯楽であり、かつ教養であった。その復活を、私は望む。それを実現するために私はこの世界にいる。だから、今回のこの問題にはいくつかの言いようのない現実を突きつけられた思いと、その流れに如何に抗していくかを考えるきっかけを与えてくれた。必要がないなどと言って、逃げるのがどうやら当世の流行らしいが、逃げてはいけない。世界史にしろ何にしろ、必要ないなどと判断するにはまだ早すぎる。そんなことは時間が経ってから初めてわかるものだ。そして教える側は、教育の本分こそを忘れないようにしなければ、生徒のためにもならないはずだ。MagiBlog! ver.3.0 世界史からの逃亡が多い件について

 実際いま高校の世界史はどんなことを教えているのか拙にはよく分からない。たとえばインダス文明なんてどの程度扱われているのだろう。モヘンジョダロの発掘によって下水道までが完備した都市国家文明がいまだにメソポタミアギリシャ、エジプトなどの古代国家文明より低く扱われているんだろうか?メソポタミアギリシャ、エジプトと違ってインダス文明には大きな宗教的建物は見られない。信仰がその論理思考に突き抜けられてしまう「人間的なあまりに人間的な」インド的思考習慣はアーリヤ人が侵入する前からかの地の伝統だったのだろうか?ぐぐっと下ってガンダーラの文明はどうなんだろう。以前にも書いたと思うがオイルを熱して香辛料で風味を付けて調理の仕上げに材料に和えるインドに起源をもつタルカという調理法。香りを料理に移すという意味では極めてインド的な論理的なやり方だ。紀元頃から10世紀頃にかけてカシュミールのある北西インド含む西アジアは世界で最も文明の進んだ地域だった。これがやがて香辛料とともにや当時は後進国だった?イタリアやフランスに伝わったと拙は想像しているけどね。そのガンダーラは哲学と倫理に裏打ちされた仏教の思考だけではなく人情でも仏教を豊かにした時代と場所だ。ガンダーラの仏教はナーガールジュナ(龍樹)の仏教のように大乗とゴーダマ・ブッダの哲学と倫理を無理にでも連続させようとするものではない。多くの仏教徒たちが提唱したのは慈悲に溢れた永遠の仏が見守ってくれる大乗仏教だった。勿論ブッダの論理と倫理のみをひたすらただ一人で追求した犀の角たちもいた。そんなガンダーラのブッダに対する強烈な憧れと人情で膨張した仏教が無ければ中国や朝鮮をはじめ、こんにちの日本の仏教はないだろう。勿論拙が高校生の時はこんなことを教えてくれる先生はいなかったし教科書にも載っていなかったと思うけれどね。勿論この話を今の高校の世界史に押しつけるつもりはさらさらない。そうじゃなくて MagiBlog! さんの記事を読んでいると拙の話はあくまで一例でこんな先生ならこんなことを授業で取り上げてくれるような気がした。ちょっと高校にホッとする。