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難しいな、いじめ自殺問題

死を身近に意識することは良いことだと思うけど・・・

 珍しくも木走日記がいじめの問題をとりあげています。なるほど『首吊り自殺体のリアルな写真を当事者達に見せよ』かぁ。死を身近に意識することによって命の大切さを知るというのは確かに一面大切なことだ。木走さんがこれでいじめ問題が解決すると考えているわけではなく、あくまで『このような暴論さえも傾聴したくなるほどに、いじめといじめによる自殺の連鎖を食い止める手段が、我々大人社会に用意されていない』現実に一石を投じたいからだそうです。仏教でも死体を観想してする修行があります。古くは墓場や死体置き場で瞑想するものだったのが近年では死体の写真などを面前に置いて瞑想します。日本では殆ど行われませんが上座仏教のタイやミャンマーでは今でも行われています。だけどこれは今は血気盛んな我が肉体も必ずこのように不浄な腐敗物になるので、この身は不浄であると知って執着を無くすための修行なのです。だから『首吊り自殺体のリアルな写真』を見ることがいじめ問題効果があるかは何とも言えません。

 ■木走日記:いじめ自殺問題。一人の医師の暴論~首吊り自殺体のリアルな写真を当事者達に見せよ

 実際のところいじめ問題は極めて難しくデリケートです。わたしなどにはその解決策を提示する知見も能力もありません。とは言ってもこの問題は子供の教育の内面と外面をわけて考え、それを両輪として取り組んでいかなければならないだろうことくらいは考えることが出来るかもしれない。内面の問題で当然、倫理やらルールを教えていくことが重要でしょうが社会の環境に子供たちがどう対応していくかを教えることを忘れてはならないと思います。子供社会は大人社会のマネをして育つ。大人の社会で歴然といじめが存在し、それが原因で自殺者も出るのだから、子供達だってそれを見ていじめる対象を決めていじめるのです。教師の間でもいじめはあるだろうから、そういう現実をマネをしてはいけませんと大人の教師がどうやって子供に教えたら効果があがるのかわたしには想像がつきません。

 外面の問題はどうでしょうか。鮎川さんがコメントで述べられているように『教室に保安カメラ設置してHDに記録。証拠が見つかったら容赦なく停学・退学。』というのは良いかもしれません。だけど停学・退学すら気にならないようなクソガキには効果がないかも。ようは先生が怖いこと、畢竟学校が怖いことということが重要なのです。鮎川さんが言いたいのは多分そういうことだと思います。先生が怖ければ子供はルールを守る。明らかに自分より上のものには従います。恐らく人間をはじめとする高等な哺乳類は本能的にこういう行動をする。犬が子供の命令は聞かないが大人の命令を聞くのはこの本能に因っているといいいます。人間だって幼ければ幼いほど自我的思考より哺乳類としての本能に行動が自己限定されるから「ルールを破る→先生に叱られる→それはとてつもなく自分に不利で恐ろしいことだ」という刷り込みは大切だと思うんです。問題はその怖い先生と学校がどういう先生であり学校であるのかということです。それが『教育の理念を明らかに』ということなのです。そして先生は怖いという小学校からの刷り込みから解放するのが教養と哲学の役目だと思います。だけどそんなことは高校に入ってからでも遅くありません。高校の先生がその基礎を造り、大学が伸ばしてやればいいことなんですね。

 そんなわけで宗教教育や倫理教育と言う声もありますが(特にわたしの廻りには)わたしはルールを守るということを植え付けるのは宗教教育や倫理教育以前の問題ではないかと思います。やってはいけないことのしつけなんですから。もう犬と同じ。こと仏教に限定して言えば、仏教はいかに生きるかという哲学の論理的要請で倫理が確立されるような宗教だから子供に理解が出来るはずがなく、間口を広げて慈悲心ということを問題にしても慈悲の出発点は他人にいじめられようが罵られようが心平穏にして、いじめっ子に向かって「あなた方は将来必ず仏になるひとだからといって合掌礼拝する(法華経『常不軽菩薩品』)」ような他者に対する絶対寛容な態度をとり続ける苦行の一つなのだから、いじめっ子は我がことに思わずいじめられっ子のなんらの救済の手段にはならないでしょう。そもそも仏教は人間が無意識に持つ根本的な生存への本能的欲求を智恵による観察力で意識して強制的に制御し、生きながらに苦しみ滅してしまおうという論理だから、その論理が自らの本能的な人間性やら人情を突き抜けて始めて生活を規定する倫理が要請されるので、いじめ問題や、あるいはジェンダーを含む差別問題、生命操作など近頃浮上している問題に対処するのはあまり得意でない思想なのかもしれません。

 結局解決策を提示するテキストにはまったくならなかった。いちおう提起してみた怖い先生という存在すら実現するにはあまりに障害が山積しています。そのいちいちを列挙するいとまはありませんがそれが実現できない要因の一つとして親が教師や学校に対してとってきた態度に目を瞑るわけにはいきません。かつてわたしが子供の頃、先生は確かに左翼だったしデモに行くしストライキもする権利やらなにやら主張する人たちでしたが子供にはそれは怖いものでた。時には怒鳴り、時はピンタも飛んだし、廊下に立たせるなどということも日常茶飯事でした。子供である僕らから見ればあんなこと(左の人特有の)を言っているクセに生徒の権利はまったく認めないような反動的な存在だした。その怖さ、反動性故にみんなルールは基本的には守ったしいじめなんて無かったよ。恐らく彼らは子供の権利とは「ルールに従うことによって人として育つ権利」くらいに考えていたのかも知れません。イデオロギーや組合活動はともかく子供たちを人として育てるという気概はお持ちだったように思います。その後世代が下ってそうした気概ある先生方のこども達への接し方に「ノー」を突きつけたのは親の側ではなかったでしょうか?まぁイデオロギーは別としても先生にもう少しを力を与えないと。

元記事(ngp-mac.com/kumarin)へのコメント

Rice_showerRice_shower 2006/11/16 11:43

大人が自分を棚に上げて語る解決法、処方箋が有効であるわけがありません。


 だから私は木走さん、あんとに庵さんの所で、とにかく“逃げろ!”とコメントしました(http://d.hatena.ne.jp/antonian/20061114/1163506641)。


 社会、大人、学校、家族が為すべきことは「逃げることは恥ずかしくない」との認識を共有すること、そして逃げ出した子らが、“傷ついたアイデンティティを再構築(byあんとに庵さん)”する“場”を準備すること。


 但し、大人はそこで彼らに何かを教えようなどと身の程知らずを考える必要はない。 ただ、彼等が心置きなく脱力できる環境を提供するだけでいい。

残念ながら、貴兄が仰るように“教育以前の問題”である現況において、例えば宗教者達は単に場を提供することすらしない、出来ないでいるのでしょうか。

kumarinkumarin 2006/11/18 6:21

おはようございます。Rice_shower さん。

 木走日記に寄せられた貴殿のコメントはまさしくわたしにはカウンターパンチでした。目を覚まさせていただいた思いです。


 これは貴殿に対して感謝の意を表するとともに今日からわたしが何が出来るか直ぐにでも着手していかなければならないことを書こうとキーボードに向かいだしたらここにも書き込まれてしまいました(笑)。


いま逃げ場のない子に逃げ場を創れ!

http://d.hatena.ne.jp/kumarin/20061117#p1


ありがとうございました。

では、お幸せでありますように。